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内田篤人が「ロールモデルコーチ」の肩書であることも改めて説明している。写真:上岸卓史/(C)Takashi UEGISHI, 日本サッカー協会(JFA)の反町康治技術委員長が10月30日、JFA公式サイトの連載コラム「サッカーを語ろう」を更新し、第3回「指導者への思い」を掲載した。, そのなかで、日本代表(SAMURAI BLUE)に初招集された選手からお世話になった指導者に贈られる特別な「感謝状」とペナントについてのエピソードが紹介されている。また、元日本代表の本田圭佑らの発言によって物議を醸す日本の「指導者ライセンス」について、アルビレックス新潟、北京オリンピック日本代表、湘南ベルマーレ、そして松本山雅FCを率いた反町技術委員長は「賛否両論いろんな意見があっていいと個人的には思っている」とする一方、「選手と監督はまったく別の仕事であり、監督気分で選手をやってはいけないし、選手気分のまま監督をやってもいけないからだ」と見解を示している。, 反町技術委員長は「指導者のライセンスをめぐっては、さまざまな意見があることを承知している」と言う。そして鹿島アントラーズを引退した内田篤人が『ロールモデルコーチ』の肩書でU-19日本代表の合宿に参加しているのは、指導者ライセンスを持っていないためであると説明。「そんな内田でも正式にコーチになろうとしたら、ライセンスをこつこつ取得していく必要がある。それを不思議に思う人がいるのも分かるし、賛否両論いろんな意見があっていいと個人的には思っている」として、自身の考えを示す。, 「Jリーガーで初めて現役選手のうちから指導者養成コースに通い、最初に取得したC級を足場にバルセロナに留学したり、高校のチームを指導したりしながらS級にたどり着き、36歳で当時J2だったアルビレックス新潟の監督になった我が身を振り返ると、本気で監督の仕事をするのであれば、取るべきライセンスはきちんと取った方がいいと断言できる。選手と監督はまったく別の仕事であり、監督気分で選手をやってはいけないし、選手気分のまま監督をやってもいけないからだ」, また、ライセンス制度について、「ライセンスを取らせるのが目的ではなく、日本のサッカーをよりよくするための指針や方向性を、広くコーチたちに伝えることが最大の眼目なのである」と強調。「ライセンスを取得してもそこはスタート地点に過ぎない。取ってからどうするかが大事で、しっかり学び続けなければならないし、学ぶことをやめたら指導をしてはいけないと言われるのも本当のことだ」と、ある意味“監督道”が続くのだと言う。, そのうえで反町技術委員長らしく、「精進を重ねて現場を持てても成績が悪いとたたかれる。プロチームの監督になると、そのたたかれ方が半端ではない。それに耐えていくには相当なメンタルの強さがいる。そして、こればっかりは監督にならないと鍛えようがない」と、経験者らしい本音を漏らしている。, 「経験不足の監督が陥りがちなのは、自分の理想に当てはめようとして失敗するパターンだろう。シャビやイニエスタがいないのに、頭でっかちなままバルセロナのようなスタイルを目指しても、形にするのは難しい。やがて理想に現実が追いつかないまま任を解かれる。Jリーグで経験値のあるベテランの監督が重宝されるのは、彼らには現実と折り合う力があるからだ」, いずれにせよ、反町技術委員長も現状のライセンス制度で良いとは決して思っていない。もっと“職業・プロサッカー監督”が出てくる体制作りの必要性も唱える。, 「ドイツから若く優秀な監督が次々に出てくる。RBライプツィヒのユリアン・ナーゲルスマン監督は28歳でブンデスリーガ1部のトップチームを率いた。日本はそういう監督がなかなか表舞台に出てこられない。若くて勢いのある監督を輩出したいと思っているのだが……。これも私に与えられた宿題の一つかもしれない」, ちなみに教育システムの差異も関係しているが、日本ではD級・C級が18歳、B級が20歳以上で受講可能だが、ドイツはB級相当の受講が16歳から認められている(C級取得のための受講時間も日本より長い)。, 反町技術委員長は現在のポジションにいる間に、果たしてどれだけ“改革”を進めることができるだろうか。, 注目記事:【最新版】日本人全選手の市場価格ランキング。1位久保建英が約36億円、2位冨安健洋、3位中島翔哉…Jリーグ勢は?, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。. 日本サッカー協会(jfa)についてのあれこれをまとめた。 日本サッカー協会の組織について 現在の理事会役員 会長:田嶋幸三 副会長:村井満、岩上和道 技術委員長:関塚隆 ※理事会・委員会の役員の詳細情報はjfaのサイトを参照。 技術委員長 の記事一覧 - 日本で最も歴史のある専門誌『サッカーマガジン』が運営するサッカー情報サイト。jリーグ、日本代表、高校・ユースを中心に国内外のニュースやリポート、濃密なインタビュー、コラムを配信します! BASEBALL MAGAZINE SHA CO.,LTD. 霜田正浩(しもだ まさひろ)プロフィール 日本サッカー協会 (2010年10月7日) 技術委員長(強化担当)プロフィール 日本サッカー協会 (2014年9月11日) ボンフィンフットボールパーク; 霜田正浩 - J. All rights reserved. 日本サッカー協会. 日本サッカー協会は9日、森保一監督の兼任体制の続投と日本代表のコーチングスタッフの再編成を発表した。カタール・ワールドカップの予選を戦うA代表と、来年に延期された東京オリンピック(Uー24代表)を見据えての決断だ。これまで両チームの監督を兼任してきた森保一監督は東京五輪本大会のみU-24代表の指揮を執り、それまでの準備段階は横内昭展氏が監督としてチームを率いることになった。, この春、日本サッカー協会の技術委員長に就任した反町康治氏が21日、オンラインによる技術委員会後にメディアの取材に応じ、今後の方針と取り組みについて語った。三位一体ではなく四位一体で仕事にあたるという。, 日本サッカー協会(JFA)は7日、公式サイトに「反町康治技術委員長よりサッカーファミリーの皆さまへ」と題したメッセージを発表した。, 【Jリーグ月間表彰】劇的逆転弾が9月のベスト! 霜田 正浩(しもだ まさひろ、1967年2月10日 - )は、東京都豊島区出身の[3]元サッカー選手、サッカー指導者。, 東京都立高島高等学校卒業後、ブラジルへ留学[5]、サントスFCなどクラブを渡り歩き経験を積む。サントスでは三浦知良やセザール・サンパイオと親交を築いた[6]。帰国後は日本サッカーリーグのフジタ工業(現:湘南ベルマーレ)や京都紫光クラブ(現:京都サンガF.C. ) の監督に就任(同年末退任)、2007年よりジェフユナイテッド市原・千葉でヘッドコーチなどを務めた[11]。, 2009年、FC東京在籍時から懇意である原博実から日本サッカー協会(JFA)入りを請われる。千葉との契約は残っており「(現場で)指導をやりたい気持ちは強かった」が、「原さんの期待に応えたい」と受任[7]。2010年より技術委員となり[12]、原の右腕として[9]日本代表監督選定及び交渉に奔走し、アルベルト・ザッケローニとの契約にこぎつけた[5]。ザッケローニ体制下では主に対戦国のスカウティングを担い[13][14][15]、相手選手や[16]アウェーの環境[17]の情報収集のため、各国を遍歴した。2013年には2016年オリンピックを目指す日本代表[14]の監督を務めた。2014年より手倉森誠が監督に就いたため、霜田は同代表のコーチを務めている。また、ザッケローニの後任であるハビエル・アギーレについても招聘の中心となった[18][15]。同年9月、継続的強化を進めるべく[15][5]原の後任としてJFA技術委員長(強化担当)に就任[19]。各世代別代表の一貫的指導体制構築・整備に尽力した[20]。, 2015年2月、アギーレの解任に伴い、自身の更迭を含めた処分を提議するも[21]、留任に全会一致での支持を得たことから[22]、給与を自主返納し[23]自身3度目となる新代表監督の招聘に当たった。, 2016年3月からの田嶋幸三JFA新会長による技術委員会の再編によって委員長を降り[24]、技術委員として代表チーム強化に特化した役割を担う[25]ナショナルチームダイレクターに就いた[26](事実上の降格人事[27])。後任の西野朗技術委員長は霜田のこれまでの職務を尊重する意向を示していたが[28]、霜田としては、自身と西野の役職が重複することにより[29]技術委員長と代表監督が直接コミュニケーションできにくい体制となってしまうことを憂慮[30]。同年11月に日本代表の試合日程に余裕が出来た機を見計らい、JFAへ辞意を申し出[31]、退任が決まった[32]。, 2017年7月、ベルギー・プロ・リーグのシント=トロイデンVVコーチに就任[33]、リザーブチームを担当していた[34]。2017年11月24日、2018年シーズンからレノファ山口FCの監督に就任することが発表された[35]。, 小宮良之『おれは最後に笑う サッカーが息づく12の物語』東邦出版、2015年、154-155頁。, https://www.jleague.jp/release/post-34415/, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=霜田正浩&oldid=77032080. 全国の都道府県・地域サッカー協会の技術委員長とjfaナショナルトレセンコーチが参加する「2020年度全国技術委員長会議」を2月15日(土)、16日(日)の2日間にわたりjfaハウスで開催しました。日本サッカー協会の活動や施策、選手育成についての考え方を共有するとともに、 jfa公式サイトのコラム「サッカーを語ろう」を更新。内田篤人ロールモデルコーチ、特別な「感謝状」にも触れる。 日本サッカー協会(jfa)の反町康治技術委員長が10月30日、jfa公式サイト … This article is a sponsored article by ''. 日本サッカー協会. League Data Siteによる監督データ (日本語) 公益財団法人日本サッカー協会(にほんサッカーきょうかい、英語: Japan Football Association、略称:JFA)は、日本サッカー界を統括し代表する国内競技連盟として、サッカー競技の普及および振興を図り、もって国民の心身の健全な発達に寄与することを目的とする。 及び特定個人情報の適正な取扱いの確保に関する基本方針. に所属し[5]、横河電機を最後に27歳で[7]現役引退[5]。, 引退後は、大塚FCヴォルティス徳島でコーチを、古巣となる京都では下部組織の監督や強化担当を務めた。1999年にはクロアチア・ザグレブからJリーグに戻る三浦を京都に引き入れている[8]。, 2001年からはFC東京で強化部として主に外国籍選手獲得に尽力[9][5][10]。2004年にはマウロ・シルバを通じてスペイン遠征(ファン・アクーニャ杯参加)を主導した[6]。また、同年にJFA 公認S級コーチのライセンスを取得した[11]。2006年にはヘッドコーチに就任するも[3]、監督のアレッシャンドレ・ガーロと共にシーズン途中に退任した。, 2006年11月より当時関東リーグ1部所属だった横浜スポーツ&カルチャークラブ (Y.S.C.C.) セレッソ大阪・清武弘嗣「イメージ通りの完璧なゴールでした」, 【川崎F】中村憲剛の引退発表後、最初の試合のあとに山根視来とL・ダミアンが語ったこと, 【川崎F】「ソンリョンに感謝している」。中村憲剛の言葉に守護神の決意「必ず優勝する」, 【札幌】プレスもゴールもコンサのために。アンデルソン・ロペス「これを続けていく!」. 2018年2月、日本サッカー協会技術委員会委員に就任 。 2018年12月、 FC今治 の監督に就任した [20] 。 日本フットボールリーグ で13勝12分け5敗の成績を収め、3位でチームを J3 昇格に導いたが [21] 、2019年12月7日に退任が発表された [22] 。 2009年2月、日本サッカー協会(jfa)は技術委員会を強化・育成の2部門に分割再編 。原のjリーグでの指導実績や欧州サッカーへの精通が評価され 、jfa技術委員長(強化担当)に就任した。 League Data Siteによる監督データ (日本語) © 2019- 2019(令和元)年度 NPO法人伊勢サッカー協会 技術講習会について 2019/12/16 2019年 ベクトル合わせ後期 実技の部が行われました。 2019/12/16 2019年度(一社)三重県サッカー協会 C級リフレッシュ研修会 兼 3種指導者研修会について 2019/11/26 © BASEBALL MAGAZINE SHA Co., Ltd. All rights reserved. 霜田正浩(しもだ まさひろ)プロフィール 日本サッカー協会 (2010年10月7日) 技術委員長(強化担当)プロフィール 日本サッカー協会 (2014年9月11日) ボンフィンフットボールパーク; 霜田正浩 - J. jfa公式サイトのコラム「サッカーを語ろう」を更新。内田篤人ロールモデルコーチ、特別な「感謝状」にも触れる。 日本サッカー協会(jfa)の反町康治技術委員長が10月30日、jfa公式サイト … 原 博実(はら ひろみ、1958年10月19日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。栃木県那須塩原市(旧・黒磯市)出身[4]。公益社団法人日本プロサッカーリーグ副理事長、日本サッカー協会常務理事。, 小学5年生時からサッカーに傾倒し[6]、黒磯中学校時代にはすでに長身を活かしたヘディングを得意としていた[7][8]。1974年に矢板東高校へ進学し、栃木県選抜として国体でベスト4入り[8]。当時は西ドイツのFWウーヴェ・ゼーラーのプレーを参考にしていた[8]。, 1977年に早稲田大学教育学部へ進学[4]。1978年の総理大臣杯では法政大学を相手に得点を重ねて優勝を果たした[6]、また同年の大学選手権も制して二冠を達成している。大学選抜として参加した1979年のユニバーシアードでは、ゼーラーに影響されて身に付けた相手よりも早く跳ぶヘディングで海外の190cmクラスのセンターバックを相手にしても競り負けず8試合で7得点を挙げた[6]。A代表に選出されても偉ぶらず真剣に練習に取り組む姿勢は周囲からの信頼を集め、大学4年時には主将を務めた[6]。このように「ストライカーたるものエゴイストであるべき」と言われる中で、彼の言動や振る舞いはその正反対でとても利他的であり、誰からも尊敬される人物であった。大学時代の同期には木村孝洋、一学年上には岡田武史、唐井直、二学年上には加藤久、三学年上には西野朗、松浦敏夫、下條佳明、さらに二学年下には城福浩、吉田靖、三学年下には神戸清雄ら錚々たるメンバーがいた。, 1981年に三菱重工業に入社し(勤労管理課[4])、日本サッカーリーグ(JSL)の同社サッカー部(のちに三菱自動車サッカー部。現在の浦和レッドダイヤモンズの前身)に所属。ポジションはフォワード(FW)で、エースストライカーとして活躍した[9]。中盤の構成力に欠ける三菱では、田口光久らが原を目掛けてフィード、原が頭で落とし、川添孝一らがゴールを狙うというシンプルなカウンター攻撃も多用された[6]。1982年には尾崎加寿夫と共に得点源となりJSL優勝を達成。, 社員選手としてプレーを続けていたが、31歳の時にJリーグ参入を控えるクラブからの呼び掛けに「サラリーマンやるために三菱に入ったわけじゃないから」と応じてプロ契約を結び[注 1] 三菱重工業を退社した[9]。Jリーグでのプレーを望んでいたが[9]、コーチ就任を要請されたため、1992年5月に現役を引退[10]。臆せず真っ向から競り合いに臨んでいたため、鼻骨骨折は現役通算で9度に及んだ[11]。, 大学在学中に日本代表に初選出され[4]、通算で国際Aマッチ75試合に出場。釜本邦茂に次いで歴代2位[注 2] となる37得点を記録した(国際Aマッチ以外にも日本サッカー協会が認定した日本代表の試合を含めると171試合出場72得点[10]。)。当時の日本代表はアジアの中でもまだまだ弱小国ではあったが、そういった背景がありながらも2試合に1得点という驚異的なペースでゴールを決めていたことになる。森孝慈監督の下、尾崎や柱谷幸一と共にセンターフォワードの候補ともなったが、持ち前の体力・運動量からサイドで守備にも貢献することを求められたため[12][13]、左ウイングに配された。中央へ切れ込んで放つヘディングシュートを武器とし[14][12](ただし、本人はヘディングよりも左足シュートの方が得意だったと回想している)、その圧倒的な得点力で「アジアの核弾頭」の異名を取った。代表チームがアウェーゲームの際に敵国に行くと、最も警戒すべき選手として常に大写しになるのは原だったと言われている。特に1986年ワールドカップ予選・ホーム北朝鮮戦で水溜りに入ったボールを足先で浮かせてDFをかわし決めた[14]「雨中ゴール」、1987年のソウルオリンピック予選・アウェー中国戦での強烈な決勝ヘディングシュート[15] が有名である。, 1998年にトップチーム監督に就任。主軸FWの福田正博が負傷離脱する中[16]、新人の小野伸二をトップ下に抜擢し、変則的な中盤を菱型にした4-4-2(左MFのチキ・ベギリスタインを攻撃的、右MFの石井俊也を守備的にプレーさせることで、バランスを取った[16][17]。)を形成してチームを躍進させる。セカンドステージでは過去最高順位の3位に入った。また、怪我が多かった福田に替えて、若手の山田暢久を「一皮向ければ」と主将に据えている[17][18]。, 翌1999年ファーストステージは負傷者が続出した影響もあって[19][20]13位と振るわず、解任。原は守備の人材不足を感じていたためシーズン途中に補強がなされたものの、その補強が活かされる前の解任だった[21]。この年浦和はJ2降格を喫するが、後にGMの横山謙三は、降格の主要因について「原監督を途中で替えたということが大きい」「(原を留任させていれば)後半盛り返せただろうと思っている」と語っている[21]。原自身は後に雑誌のインタビューで「弱いといわれた時期も、誰もが誇りは持っていた。ある意味王者のスピリットを持っているチームだった」と浦和を評する。また、2000年1月に発売された本『浦和レッズは負けない』にも寄稿している。, 2000年以降は浦和の育成担当としてクラブに残留するという選択肢も有ったが、監督として再び勝負する機会が遠のきかねないと判断し[20]、浦和を退団。, その後スペインへ渡りリーガ・エスパニョーラの数チームを視察。ベギリスタインを通じて紹介を得たこともあった[22]。帰国後はサッカー解説者としてスカイパーフェクTV!の欧州サッカー中継を中心に活動。多くのファンを得た(後述)。, 2002年からFC東京の監督に就任[10]。新興クラブであるFC東京は、J2降格を避けるべく負けないサッカーを志向してチーム作りを行っていたが、「攻撃サッカー」を掲げる原の招聘によって、勝つためのサッカー、面白いサッカーを標榜するように転換[23][24]。原によれば、チームには大熊清前監督が築いたひたむきに守備をこなす姿勢が残っていたので、攻撃重視で指揮を執っても守備が疎かになることは無いだろうという目算があったという[8]。, 初采配となった2002年Jリーグ開幕戦では、前年度リーグ優勝の鹿島アントラーズを相手に、前がかりに走り続ける積極的なサイドアタックを繰り返し、4得点を挙げて圧勝。後の語り草となった[25]。4-2-3-1の布陣を基本としつつ、同年獲得したMF石川直宏、DF加地亮のコンビで右サイドから打開し、左サイドには戸田光洋らFWタイプの選手を置いて中央へ走りこませるという左右非対称の斬新な攻撃[26] で上位進出に成功。2004年ナビスコカップでは延長PK戦の末に古巣浦和を下して、チームに初のJリーグタイトルをもたらした。, 解説者時代同様に親しみやすいコメントと、自チームの得点時には何度もジャンプして体全体で喜びを表現する姿で[27][28][29]チーム成績とは別の部分でもサポーターから慕われ、人気を集めた[30]。古巣・浦和をライバル視する発言が多かったが、2003年に行われた福田の引退試合では、テレ玉での中継解説者を務め、2004年のナビスコカップ優勝後の場内インタビューでは「浦和も非常に素晴らしいチーム。是非リーグ戦で頑張ってもらって優勝して欲しい」とエールを送っている。, 2005年は出だしこそ首位に浮上したものの、4月以降主力を次々と負傷で欠いたことなどから[31] J2降格圏まで成績を低迷させたが、シーズン終盤は12戦負けなしと持ち直した。しかし4・5月の躓きによってクラブ首脳は次期監督候補の選定を本格化しており、契約期間終了と共に退任することとなった[29]。退任報告の集会には5000人近くのファンが詰め掛けた。, 2007年、監督に再任[32]。身上としているリスクをかけて攻撃に比重を置くサッカー[33] を続けたが、大量失点での敗戦も多く1年限りで退任となった[34]。, 2009年2月、日本サッカー協会(JFA)は技術委員会を強化・育成の2部門に分割再編[35]。原のJリーグでの指導実績や欧州サッカーへの精通が評価され[35]、JFA技術委員長(強化担当)に就任した。グラつきの見られた[注 3]岡田体制を支えた他[36]、JFA特任理事及び国際マッチメイク委員にも任ぜられ、Jリーグ各クラブとの調整や戦術分析、マッチメイクを統括した[35]。, また、霜田正浩と共に2010 FIFAワールドカップ終了後の日本代表新監督選定の中心としても奔走。2010年8月、新監督はアルベルト・ザッケローニに決定したが、ザッケローニの就労ビザ取得が間に合わなかったため、同年9月に行われたキリンチャレンジカップにおいて代行監督を務め、2試合を指揮しいずれも勝利を収めた。ロンドンオリンピックではU-23日本代表の団長を務めた。, 2013年12月より、JFA専務理事を兼務[4]。激務が続く中でも公式戦・合宿を問わずに現場視察を欠かさず、ザッケローニとの戦略擦り合わせに腐心した[37]。2014年9月、同年6月開催のFIFAワールドカップ総括とザッケローニの後任であるハビエル・アギーレの就任決定をもって[38] 技術委員長を退任し、以後は専務理事に専念[39]。日本代表やJリーグだけでなく各種サッカー大会を精力的に視察し、日本サッカー界の底上げに注力した[40]。, 2015年2月のJFA理事会において、大仁邦彌JFA会長や霜田と共にアギーレの解任に伴う処分が提議されたが、3名とも任命責任は認められなかったため、給与を自主返納することで[41] 収拾を図った。, 2015年6月、日本体育協会常務理事に選定され[42][43]、国体委員長として[44] 冬季国体の開催地選定や、2020年東京五輪に向けた女子種目の拡充を担った[45]。, 2016年1月、JFAは史上初となる会長選挙を行った。当時JFAのNo.3[46]でもあった原は「自分も出ないと(選挙戦にならず制度が)変わらない」[47] と立候補を表明。原とNo.2の田嶋幸三副会長が争う構図になるのは「規定路線」であり[48]、原は劣勢[注 4]が確実視されていたが[50]、秋春制の導入に慎重なJリーグクラブや[51]、JFAとJリーグの関係強化を推進した実績により支持を集め[52]、45%の評議員票を獲得、僅差での敗退となった[53][51][46]。, 2016年2月、田嶋は自分と会長の座を争った原を二階級ほどの降格になる理事職に降格させる人事案を決めた。その話を田嶋から直接聞いた村井満Jリーグチェアマンは[46] 各クラブの強化部門に影響を及ぼせる人物として、すぐさま原にJリーグ副理事長就任を打診[54]。原もこれに快諾し[55]、3月より同職に就任[56]。JFAを離職し[57][58]、自身の「専門とするところ」であるクラブ目線での日本サッカー強化を担うこととなった[55]。翌3月、Jリーグからの選出で、JFA常務理事に就任[59][60]。彼の功績や人柄を表すエピソードと言える。, 同年4月の熊本地震に際しては、自ら現地入りして活動休止中のロアッソ熊本と協議し、リーグ戦再開に向けての調整に当たった[61]。, 指導者としての評価に際しては、特に若手の積極起用に注目して語られることが多い[63]。自身も「監督をやっていて楽しいのは、(チームの勝利よりも)選手がみるみる伸びていき、顔を輝かせているのを見ているとき」「タイトルをとれれば楽しいけど、人がぐんぐん伸びていく時期を見るのがうれしい。それが一番好き」と語る[64]。, 浦和でも小野、山田を抜擢し、大きく成長させているが、小野は元々注目度の高い期待株であること、盛田剛平ら新人選手を重用してチームを低迷させたこともあったことから、原の評価を低く見る者もある。原の下でもプレーした浦和OB福田正博は「サテライト・ユースの指導経験しかなかった原にいきなりトップチーム、しかも浦和レッズという独特の雰囲気を持つチームの監督を任せるのは非常にプレッシャーのかかることだったのではないか」という趣旨のコメントを、雑誌に寄せた原稿で述べている。, その後に就任したFC東京でも若手登用の傾向は強く、石川、加地、茂庭照幸、今野泰幸を獲得してレギュラーに据え、日本代表に選出されるまでに成長させた[65]。横浜F・マリノスで出場機会のなかった石川に対しては「(故障者が出ている)今なら使っちゃうよ」という口説き文句で移籍を決断させた。, 選手として原と4年間(2002-2005)過ごした戸田は、原と選手との距離感・信頼関係の構築について「“試合に出てくるんじゃないか”と思わせるくらい選手と一緒の目線で戦っている」「顔色を伺ったってどうこうなる人じゃない」とコメント[27]。原の下で5年間(2002-2005, 2007)コーチを務めた長澤徹は、原は選手の短所を包み隠さず指摘し、時に敗因として名指しするが、それでも選手からの信頼を損ねることはなかったという。選手と真摯に向き合うことができるコミュニケーションの天才だと評している[66]。, 4バックシステムを好み[67]、『ニュースステーション』がJリーグ全クラブの監督に対して行った、3バックと4バックに関するアンケートに対し(このアンケートが行われた当時は3バックシステムを採用するクラブが多く、このようなテーマが議題となった)、回答の理由を「4バックが好きだから」とだけ説明した[68]。原曰く、布陣を決める時にまず考えることは、選手個々の長所を出せるかどうか[67] である。しかし、選手の個性・特徴を最大限発揮させることを理想としていることから[69]、2007年には、不安定ながら新たなプレースタイルの模索を始めた石川と、石川には元来の能力を発揮してほしいと原点回帰を求める原との間で、微妙な溝が生じたこともあった[70]。, 原はテレビ解説者としても、多くのファンを得ている。解説者としての原のファンのことを「ヒロミスタ」と呼ぶことがある。ゴールが決まった時に、それが開始1分であろうが後半ロスタイムであろうが、あるいはVゴールであったとしても「いい時間帯[注 5] に得点しましたね[71]」と発言したり、選手がまだシュート態勢であり、実際にそのシュートがゴールインするか否かがわからない状態にもかかわらず「あ、入った」などと発言した[71]ことが、そのきっかけとなった。, 試合に熱中するあまり解説を忘れることもしばしばだが、広い視野からの的確な指摘を分かりやすく視聴者に伝えるという解説者としての技量がある、さらに選手への批判も臆せず口にする。解説者を辞する時はスカパー!で特別番組が何本も作られた。コラムニストのえのきどいちろうもヒロミスタの一人である。, 試合中に感極まって泣きながら解説をしたこともある。その試合はUEFAカップ史上最高の決勝と呼び名の高い2000-01シーズンの決勝戦、リヴァプールFC vs デポルティーボ・アラベスである。アラベスはリヴァプールとは比較にならないほどの中小クラブであったが、ヨハン・クライフの息子であるジョルディ・クライフらをはじめとする魅力的な選手は少なくなかった。その決勝ではリヴァプールに2-0、3-1、4-3と3度もリードを奪われながら決して諦めることなく戦い、88分にクライフが同点ゴールを決めて4-4、延長戦に持ち込む。しかし、最後は5-4でリヴァプールに敗れ、アラベスは準優勝に終わった(このシーズン、リヴァプールは他にもFAカップとリーグカップも制し、最終的に三冠を達成している)。この激闘を解説していた原は「涙がでてきてしまいましたよ。」と話した。, また、浦和レッズ監督時に指導したベギリスタイン(後にFCバルセロナ技術部長など)と親交を深めたことを機に日常会話に支障が無い程にスペイン語を習得[72]。スペイン語に近いとされるポルトガル語を話すブラジル人選手とも通訳を介さずに会話している[73]。料理をはじめとするスペイン文化全般にも造詣が深い。FC東京の監督時にも、チームのラ・コルーニャ遠征やポストシーズンの視察に合わせて、原がスペインを紹介する番組が作成された。, ・JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 4回出場:1984年、1986年、1987年、1988年, 立正大サッカー部コーチ 戸田光洋さん【第2回】人間味あふれる指導者にあこがれを抱いた, 【2004Jリーグヤマザキナビスコカップ F東京優勝報告会】椿原正浩社長・原博実監督コメント, 【全文掲載・後編】注目のJFA会長選へ―原専務理事、田嶋副会長が語る日本サッカー界の明日, JFA会長選落選の原博実専務理事がJリーグに転籍、JリーグNo.2に…ハリル監督らにも知らせず発表, 飽くなき娯楽性と大勝利の追求、05シーズン版FC東京 原博実監督インタビュー (1/3), 技術委員長を退任した原博実が振り返る アギーレ招へいの経緯とW杯の敗因 (1/2), 原博実が示す“世界ベスト10”への課題 技術委員長時代に残した功績と後悔 (1/2), 【秋春制を考える】原博実技術委員長に聞く日本サッカーの強化ビジョン (前編) (1/3), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=原博実&oldid=80353288, かつてはスカパー!、J SPORTSの中継にも出演していた。現在もNHKの中継には出演している. 2009年2月、日本サッカー協会(jfa)は技術委員会を強化・育成の2部門に分割再編 。原のjリーグでの指導実績や欧州サッカーへの精通が評価され 、jfa技術委員長(強化担当)に就任した。

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