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名字(みょうじ、苗字)は、家(家系、家族)の名のこと。法律上は氏と呼ばれ(民法750条、790条など)[1]、一般には姓ともいう。, 世界を見渡すと、アメリカやドイツのように移民が集まる国では名字の数が多くなり、世界中の名字が集まっているような状態になっており[2]、アメリカ人の名字は100万種以上とも言われている[2]。それに対して中国や韓国では一文字姓が原則とされているので種類が少なく、韓国では約280種類しかないと言われている[2]。, (日本での)名字は、元々、「名字(なあざな)」と呼ばれ、中国から日本に入ってきた「字(あざな)」の一種であったと思われる。公卿などは早くから邸宅のある地名を称号としていたが、これが公家・武家における名字として発展していった。近世以降、「苗字」と書くようになったが、戦後は当用漢字で「苗」の読みに「ミョウ」が加えられなかったため再び「名字」と書くのが一般になった[要出典]。, 「名字」と「姓」又は「氏」はかつて別ものであった。例えば、清和源氏新田氏流を自称した徳川家康の場合は、「徳川次郎三郎源朝臣家康」あるいは「源朝臣徳川次郎三郎家康」となり、「徳川」が名字(苗字)、「次郎三郎」が通称、「源」が氏(「姓」、本姓とも呼ばれる)、「朝臣」が姓(かばね)(古代に存在した家の家格)、「家康」が諱(いみな、つまり本名)ないし実名(じつみょう)になる。, 日本での名字の数は、たとえば「斎藤」と「斉藤」を別として数え、たとえば「河野」の読み方を「こうの」と「かわの」で区別して別に数えるなどという方法をとれば、一説には「20万種にも達する」などとも言われるが[2]、「20万種は多すぎる、実際には10万種ほどだろう」という見解を示す人もいて、正確な推定は難しい[2]。それでも世界的に見れば多いほうである。これほど名字の数が増えた理由の一つとして、日本人は他国・他地域の人々と比べて「同族」という意識よりも「家」の意識を重要視したので、同族であってもあえて名字を変えて「家」を明確にしたり、地名を用いて「家」を明らかにしたりしたことがある。また明治時代の明治新政府が、国民に名字を持つことを義務付け、その結果、庶民はそれまでもともと通称として持っていた名字をその機会に名乗ったり、またそれまでの名字を変えて名乗ったりしたので、明治時代に一気に名字の数が増えた、ということもある[2]。一説によると、幕末期と明治期を比べると、一気に数倍に増えたと言う[2]。, 日本人の名字の由来に関しては、様々な分類法があるが、 前編 〈2316JKI40〉, 【歴史雑学】 国家としての「日本」はいつ頃成立したのだろうか?

いつから名字があるかというと、今から約1600年以上も前、古墳時代には存在していたそうです。日本最古の歴史書『古事記』や『日本書紀』に書かれています。それより前は、「卑弥呼」のように名前だけしかなかったようです。名前だけでは区別できなくなり、名字が生まれたと考えられます。, 古墳時代には、力のある一族(豪族)が地域一帯をまとめていたそうです。小さな国の王家といったらよいでしょうか。豪族は権威を示すため、大きな墓「古墳」を作らせました。, 奈良(大和)では豪族たちが協力して政治を行っていました。大和政権といいます。トップの人物は大王(おおきみ)とよばれました。のちに天皇とよばれます。, 豪族たちは、集まって政治を行う上で、周りの豪族と区分するために、名字を名乗りました。, ※この時代は血のつながりなど関係なく、その地域に住んでいるすべての人(偉い人も、庶民も)が阿倍さんだったようです。, 天皇や、豪族・貴族に仕える庶民は、職業によって「〇〇部」というグループに分けられ、名字がつけられた!!200くらいのグループがあったそうです。, 当時の戸籍をみると、「卜部」「葛野部」という名字があることがわかります。庶民の9割が部のつく名字だったとも言われています。, しかし、奈良時代に豪族や貴族同士の争いなどもあり、職業別グループの機能が上手くいかなくなり、〇〇部がなくなっていったそうです。庶民の人たちは、そのグループ名を名字にしていましたが、時がたつにつれ、「部」が外れて、「錦織部」→「錦織」のようになっていきます。戸籍を作るときに、名字がない人ももちろんいたそうです。, 貴族など、多くの人々と接する人にとっては身分を表したり、区別をしたりするため、名字は必要だったはずです。しかし、庶民は下の名前だけで十分生活できたはずです。そのため、庶民の人たちは名字を使わなく、持っていない人、持たなくなった人もいました。, 平安時代にはその中臣鎌足の子孫が貴族として政治の地位を独占。藤原さんがたくさんいることに。いすぎて、区別がつかなくなってきた。, 天皇の親族で未婚の女性であり、伊勢神宮の天照大神に仕える人物を斎王という。その斎王を支える役職である斎宮頭に就いていた藤原さん→斎藤, 都から地方のへ出向いた藤原さん(例えば、国司【今でいう県知事】になった藤原さん)が、その土地の一字と藤原の「藤」を組み合わせて名字を作った。, 平安時代後期、世の中が乱れ、不安定な時代に。貴族や豪族は身を守るためのボディーガードとして武士を雇うようになりました。しだいに、武士が力をつけていき、鎌倉時代から武士の時代になります。武士にとって土地が命。前に持っていた名字を捨て、自分の土地や恩賞として与えられた土地の地名から名字を新しく作って名乗るようになりました。ちなみに、名字は好きにコロコロと変更してよかったそうです。, 室町時代、農民にも鉄製の農具の普及、二毛作、堆肥(牛や馬のフン)など農業技術が発達したことで、農民に力がついてきました。今まで、貴族や武士、寺社などの地主の土地でこき働かせられ、年貢を納めていた農民が団結して一揆を起こしたり、自分たちで原野を開拓して村を作っていった。たくさんの村ができ、区別するために村に名前をつけた。どの村よりも中心の村だから「中村」、西にある村だから「西村」というように名前が付けられました。。その村に住んでいる人たちは、私は中村に住んでいる○○(名前)です。というように、村が名字のように扱われるようになりました。, 次第に、村の人口が増えていくにつれて、村のどういうところに住んでいるのか区分する必要がでてきました。田んぼの西側に住んでいるので「西田」さん、川の上流に住んでいるので、「川上さん」のように、この時代に多くの名字が生まれました。, 江戸幕府は、武士の特権として、名字を名乗ること、刀を持つことを認めました。したがって、庶民は公には名字を名乗れませんでしたが、使用をしていたことがわかっています。, 明治時代になると、名字を名乗ることを政府が義務付けました。今まで名字を持っていない人、使用していなかった人も名乗らなければならないため、新しく考えた人もいたそうです。一人ひとりが戸籍に登録され、手書きで名字を書きました。しかし、現在のように識字率が高いわけではないため、きちんと字を書けない人もいました。そのため、同じ読み方の名字でもたくさんの漢字が出てきてしまいました。例えば、斎藤の「さい」は「斉」、「齋」、「齊」などたくさんでてきてしまい、何十種類もの「さい」があるそうです。, 氏というのは、基本的に血縁で繋がっている有力な豪族の集団名です。力のある一族である豪族たちが氏を名乗っていました。基本的にというのは、庶民は、血縁で繋がっていなくても大王(天皇)や豪族たちによって、特定の集団にまとめられて氏がつけられたからです。下の※を参照にしてください。, そして古墳時代のころから、大王(天皇)に仕えていた豪族(のちに貴族)には、姓(かばね)とよばれる位(ランク)を天皇から与えられ、氏のあとにつけました。, 例えば、平安時代に活躍した藤原道長は正式には藤原朝臣道長(ふじわらのあそんみちなが)です。藤原氏は朝臣という位の姓です。, 氏と姓がそろってワンセットになっており、氏と姓の間に「の」を入れて呼んでいました。つまり、天皇から姓が与えられる有力な豪族の氏には「の」がつきます。天皇に仕えていた豪族には「の」がつくということです。, 天皇が氏を与えたこともあります。「藤原」は中臣鎌足が大化の改新で活躍したことで与えられた氏です。「源」と「平」は、天皇の子孫が臣籍降下(皇族の身分から離れ、一般人になること)の時に与えられた氏です。「橘」も天皇から与えられた氏です。4つ合わせて「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と言います。姓は「朝臣」が与えられました。, ※古墳時代から、一般庶民にも、氏(今でいう名字)がありました。最初は支配されていた豪族と同じ氏でした。蘇我という地域に住んでいる人は、みんなが蘇我さんです。やがて、一般庶民は職業によって「〇〇部」という氏がつけられました。血縁関係は関係なく、同じ職業を行っていた人は同じ「〇〇部」です。もちろん、姓はありません。, 平安時代以降、藤原氏や平氏、源氏など、周りにたくさん同じ氏がいたりする中で、周りと区別をするために、自分の持っている土地の名前を名字として名乗るようになってきました。北条政子(ほうじょうまさこ)の「の」がつく呼び方は、は、平政子(たいらのまさこ)です。北条政子の父親が伊豆の北条という場所を支配していたので、北条という名字をつけました。このように、親子兄弟でも支配した土地が違えば、名字は変わります。例えば、長男はその名字を引継ぎ、次男、三男は、新たな土地に住み、新たな名字を名乗ったりしました。名字も時代が進むにつれ、血縁関係を意識して代々引き継がれていくようになりますが、コロコロと変えてもよかったそうです。, 「足利」が名字、「又太郎」は普段よばれる名前(通称)、「源」は氏、「朝臣」は姓、「尊氏」は普段はよばれない本当の名前(諱)です。, したがって、歴史の教科書で名字のあとに「の」がつく人物は、天皇に認められていた氏であり、「の」がつかない人物は、自分で新たに名乗った名字というように区別することができます。, さて、生徒に「なんで昔の人は名字と名前の間に”の”がつくの?」と聞かれて、上記のような説明をしたら、ポカーンとしてしまいそうです。簡潔に生徒たちが納得する説明を考えてみました。, ※坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)や小野妹子(おののいもこ)などを説明することができません。”主に”でごまかせるでしょうか。以下の説明にしてみました。, 藤原」は中臣鎌足が大化の改新で活躍したことで与えられた氏です。「源」と「平」は、天皇の子孫が臣籍降下(皇族の身分から離れ、一般人になること)の時に与えられた氏です。「橘」も天皇から与えられた氏です。4つ合わせて「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と言います。姓は「朝臣」が与えられました。, ※古墳時代から、一般庶民にも、氏(今でいう名字)がありました。最初は支配されていた豪族と同じ氏でした。蘇我という地域に住んでいる人は、みんなが蘇我さんです。やがて、一般庶民は, 職業によって「〇〇部」という氏がつけられました。血縁関係は関係なく、同じ職業を行っていた人は同じ「〇〇部」です。もちろん、姓はありません。, という名字をつけました。このように、親子兄弟でも支配した土地が違えば、名字は変わります。例えば、長男はその名字を引継ぎ、次男、三男は、新たな土地に住み、新たな名字を名乗ったりしました。名字も時代が進むにつれ、血縁関係を意識して代々引き継がれていくようになりますが、コロコロと変えてもよかったそうです。.

[CDATA[ (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); // ]]> FuKu助です。近・現代史や歴史ミステリーを主に紹介していきますが、雑学一般も守備範囲のつもりです。頑張って投稿しますが、投稿頻度には期待しないでください。では皆さん、よろしくお願い致します。.

歴史を生徒に教えていく中で、2つの疑問が浮かびました。 私たちの名字はいつから存在するのか 蘇我馬子(そがのうまこ)、藤原道長(ふじわらのみちなが)のように、なぜ「の」がつくのか ; 以上の2つを調べてみました。 明治時代以降、日本国民の全てが名字(苗字)を名乗るようになった。誰もが知っている通り、それ以前の時代では公家や武士、医師や学者、そして一部の豪農(庄屋・名主など)や有力な町人(町名主・年寄など)などに限って名字(苗字)を持つことが許されていた。, それが明治3年(1870年)9月19日の『平民苗字許可令』を経て、明治8年(1875年)2月13日の『平民苗字必称義務令』により、我国の国民は皆、公的に名字(苗字)を持つことになった。これは、明治維新を迎えて武士の世が終わりを告げ、文明開化と共に四民平等の世界が来たことの象徴の様に思えるが、しかしそこには意外な理由が存在していたのだった・・・。, 江戸時代までは、武士階級などを除く多くの平民(農民・職人・商人などの庶民)は「何々屋(屋号)の誰それ」とか「何処の誰々」といったように、携わっている職業やその居住地の地名を名前の上につけて名字(苗字)の代わり(識別の為の呼称)としていた。, それが明治時代になると、前述の様に平民もすべて名字(苗字)を付けなくてはならないという法律が出来たが、この国民全員が名字(苗字)を付けるという決まり事は、身分制度の撤廃を優先した発想によるものではなかったのだ。, 結論から言うと、国民全員が名字(苗字)を名乗ることになったのは、実は「徴兵制度(ちょうへいせいど)」との関係が強いとされているのだ。そしてこの制度とは、国家が国民に兵役に服する義務を課す制度のことで、「志願兵(募兵)制度」の対義語である。, 国家が強力な常備軍を維持し、また一朝事ある時には速やかに戦力の拡大を要することを考慮して(国民皆兵のもとに)多くの兵員を集め、また一定期間にわたり兵役に服すことを可能とした体制を整備したのが「徴兵制度」である。但し、明治6年1月10日発布の法律では「一家ノ主人タル者」や家産・家業維持の任に当たる者は兵役の義務から免除されていた。, さてこの「徴兵制度」を確立する上では、何処に何と言う名前の者が住んでいるのかを正確に把握することが最も重要であった。兵士となる候補者を集める上では、江戸時代までの様な多くの庶民が適当で(いい加減な)呼び名で呼ばれていた状態では確実に「徴兵制度」を遂行することは能わなかったし、同様に何処に常住しているかを知る必要もあったのだ。, そこでこの「徴兵制度」をスムーズに遂行・達成する為に必要なものとされたのが、徴兵対象者を含む国民全ての年齢・性別や氏名と住所を記した「戸籍(こせき)」の整備であったが、この「戸籍」とは、「戸」と呼ばれる一定の家族集団単位で国民たちを登録・管理する目的で作成された公文書類のことである。, 江戸時代までの徳川幕藩体制下では、人民把握の基礎となったものに「人別帳」等があったが、近親の家族以外にも遠縁の親類縁者や使用人なども含めた「家」単位で編纂されていた。, しかし明治時代になると、我国は中央集権的な国家体制の樹立を目指して、それ以前の時代の「家」間の主従関係や支配者側と被支配者側の立場の解消が企図されたのである。, そこで律令制の頃の「戸籍」に範をとった制度を復活させて、江戸時代までの「家」単位ではなく「戸」単位での国民に関する情報の掌握体制を確立して、それまでの「家」制度が封建体制下では公的なものであったのが、以降は私的な繋がりの集団・組織へと改変されて、国家は「家」を通さずに直接的に個別の国民を個人単位で管理することが可能となったのである。, こうして、明治期以降の「戸籍」は徴兵制や徴税の効率を上げる為に設けられ、戦前(第二次世界大戦終結以前)の新たな「家」制度の根幹となっていく。この制度は、1898年(明治31年)に制定された民法において規定された我国固有の家族制度であり、親族関係を有する者の内で更に狭い範囲の者を、「戸主(こしゅ)」とその家族として一つの「家」に所属させて、「戸主」に「家」の統率権限を与えた制度のことである。またこれは、江戸時代に発達した武士階級の「家父長制」を基にしていたと考えられている。. 皆さんが生まれた時から当たり前のように、名乗っている「名字(苗字)」。 自分に名字があることなんて当たり前のことすぎて、改めて考えたこともない方が多いと思いますが、自分の「名字」がいつ決まって、いつから使われるようになったのかをご存知でしょうか?, 歴史ある名家や旧家出身の方でない限り、ご存知の方は少ないと思います。知っていたとしても、家族の言い伝え程度の情報ではないでしょうか。, 自分が今の名字であることにも理由があり、歴史や由来があります。そこでこの記事では、名字の歴史と由来、自分の名字がいつ決まったのかについて、解説します。, 名字の歴史について触れるまえに、「名字」とは一体何なのか?という点をハッキリさせておく必要があります。現代では「氏」も「姓」も「名字」と名前という意味で用いられていますが、古代(平安時代以前)では氏姓制度がしかれ、「氏(うじ)」と「姓(かばね)」は区別されていました。, 「氏(うじ)」とは「氏族」と呼ばれる血縁集団を表し、各氏族には王権の中で担当する職務が定められていました。古代の大王家(天皇家の前身)を中心としたヤマト王権では、その氏族を「氏」と呼んで管理し、氏族もその氏を名乗っていました。神事・祭祀を担当した中臣氏(なかとみうじ)、軍事や刑罰を担当した物部氏(もののべうじ)等が有名です。「氏」は天皇から与えることもありました。, 「姓(かばね)」は、元々は古代の大王家が氏族に与えた「称号」のことをいい、臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)等があります。飛鳥時代になると、天皇を中心とする中央集権制度への改革を目指す大化の改新(646年)の中で、身分制度の整理を目的として天皇家から八色の姓(やくさのかばね)が与えられました。, 八色の姓は、真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)と、文字通り8種類ありました。さらに、戸籍制度が始まったのもその頃で、管理上の必要から庶民にも庶民用の氏姓が与えられました。つまり姓(かばね)は“天皇から授かる”呼び名、称号のことだったのです。, このように、古代の日本では「氏(うじ)」は血縁集団の呼び名のこと、「姓(かばね)」は天皇が与えた称号のことだったので、「名字」とは異なるものでした。その後、「氏と姓」は時代が進むにつれ、本来の機能を失っていきます。, 奈良時代後半になると、八色の姓によって整理された姓(かばね)が形骸化してきてしまいました。有力な氏族のほとんどの姓が朝臣(あそん)になってしまったのです。朝廷に功績のある氏族に対して、褒美として天皇が朝臣の姓を多く与えたことが原因でした。, 朝臣(あそん)は皇族以外の臣下の中で事実上一番上の地位の姓だったため、氏族たちは当然、下位の宿禰(すくね)より上位の朝臣(あそん)の姓を名乗るようになっていきました。, 平安時代になると、朝廷の重要な役職に就く氏族は「源平藤橘」と呼ばれる4つの氏族によって占められることになります。この源氏、平氏、藤原氏、橘氏の全てが朝臣の姓だったため、もはや姓は身分を整理する機能を失っていました。, さらに源平藤橘の中で、藤原氏は朝廷の中で圧倒的な力を持つことになり、「藤原氏」が多くなってきたことで、藤原どうし、お互いの区別がつきづらくなっていました。, では「名字」に通じるものはいつから出てきたのかというと、平安時代の終盤に名字が生まれることになります。公家(くげ)と呼ばれる貴族の名字と、武士の名字とでルーツが異なりますが、どちらも当時の時代の必要性から自然発生的に生まれることになります。, 増えすぎた藤原の氏族は、自分たちの屋敷のある京都の地名等から家名(九条・近衛・鷹司・二条・一条等)で区別されるようになり、いつからか自らもその呼び名を名乗るようになりました。その後他の公家(貴族)である源氏、平氏、橘氏にも同様に広がっていき、平安時代の終わりになると、その通称としての「家名」が呼び方として定着しました。, 「貴族の名字」の解説記事自分の名字を調べると昔の身分がわかる!?名家や貴族の名字とは。, 平安時代の終わりになると、荘園といわれる貴族所有の農地を警護するための武士、地方を開拓するために展開した藤原氏、源氏、平氏等に出自をもつ武士が誕生していました。この頃の武士では武蔵七党が有名です。その武士たちも公家と同じく姓を同じくするものが多かったため、区別がつきづらくなっていました。そこで、武士たちは自分たちの領地・名田(みょうでん)を守り、かつ明確にするため、自分の支配する土地の地名を名字として名乗ったのです。, 鎌倉時代になると、名字は公家や武家などの特権だと意識され始め、幕府も農民の名字を禁止する政策をとります。しかし、室町時代になると、農民の一揆をはじめとする下剋上(げこくじょう)が相次ぐようになり、幕府の力が弱体化し、農民も武士に対して影響力を持つようになってきていました。, そんな時代の中で、武士も農民との関係を模索し、中には農民に対して自分の名字を与える武士も出てくることになりました。このようにして、幕府が農民の名字を禁止する政策は失敗に終わることになったのです。, 上のように姓を同じくする公家や武士から名字は始まりました。その後、①貴族の「家名」と②武士の「名字」は、「名字」として統合され、室町時代になると農民階層にまで広がっていきました。, このように歴史の視点でみると、大きな「氏」の集団から「姓」で区別していたものの区別がつかなくなり、出自を同じくする人達の間で「家」を区別する名称として「名字」が定着したということになります。姓(かばね)は天皇から授かるもので勝手に変えることは許されなかった一方、自分で自由に決められる「名字」は使いやすく、広がっていきやすかったのです。, 現代でも「横浜の伯母さん」「金沢のおじいちゃん」等と呼んで親戚を区別することも多いと思います。今も昔も、土地や場所が要素になっている点については同じだったということになります。, 戦国時代から安土桃山時代になると、天下を統一した豊臣秀吉が「刀狩り」や「太閤検地」に代表される武士と農民の身分の分離政策(兵農分離)を進めます。この頃になると幕府の影響力が強まり、「苗字を名乗ること」についても支配階級の特権と意識されるようになり、庶民は次第に苗字を公称することを自粛するようになってきます。, 徳川幕府の江戸時代になると、苗字が身分証明にさらに利用されることになり、1801年(享和元年)の苗字帯刀の禁令が出されます。これがいわゆる「苗字帯刀(みょうじたいとう)」であり、苗字が身分の象徴になったため、武士等の特権階級や一部の庶民(庄屋・名主)を除いて苗字を公の場で名乗ることができなくなってしまいました。当時の江戸時代の特権階級の名字は1万種程度だったといわれています。, 商人や農民の中でも、元々武士の家が帰農した場合には苗字があり、上層の農民も苗字を持ち、商人も名字に「屋」をつけて屋号にしたりしていました。あくまで苗字を公に名乗ることが許されなかったのであり、苗字を持つことが許されなかったわけではありません。, そのため、公的な帳面である宗門人別改帳には庶民の苗字は書かれなかったものの、私的なものである寺の過去帳や墓碑には庶民の苗字が記載されることもあったといいます。つまり江戸時代でも庶民でも非公式に苗字を持ち、私的に名乗っていたということなのです。, あの織田信長の場合、「平朝臣織田三郎信長(たいらのあそんおださぶろうのぶなが)」という正式な名前を持っていました。この時代の公家や武士は出世するほど名前が長くなっていったのです。これに官名である「上総介(かずさのすけ)」を入れて、呼称するときもあります。, この組み合わせでお互いを識別していました。こう並べてみると、最初から本名(諱)で呼びあえばいいのでは?と思うかもしれませんが、当時の諱(いみな)は、生前に呼ぶことは親などの親しい人を除いて非常に失礼なこととされていました。そのため、「信長様」等と呼ぶことは実際にはあってはならず、個人で区別のつけやすい通称名である「字(あざな)」も持っていたというわけです。, 昔だけではなく今でも、初対面の人や目上の人を名前で呼ぶと、馴れ馴れしい・無礼と思われるに違いありません。形を変えながら、日本人のマナーは今でも引き継がれているということなのでしょう。, 幕末に明治維新がおこり、明治の新政府が進める近代化政策の中で、これまでは“特権”だった名字をどのように位置づけるか議論が起こりました。最終的には全国民の把握、戸籍編成の必要姓もあって、庶民を含む全ての国民が公的に名字を持つことになり、名字について多くの太政官布告(法令)が出されることになります。代表的なものを整理しておきます。, 明治新政府は、平民苗字許可令を出します。これはつまり、

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