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これはアメリカ南北戦争の終盤に起こったものであり、後の20世紀に起こ... 南北戦争はアメリカの歴史の中でも大きな意味を持つ戦争であり、世界史においても非常に大きな戦争の1つになります。 1914年から4年間続いた第一次世界大戦は、三国同盟と三国協定の対立が発端の最初の世界大戦です。日本も参加していますが、印象が薄い戦争でもあります。今回は日本では第二次と比べ、「忘れられた戦争」とも言われる第一次世界大... 今から70年ほど前、日本の存亡をかけた太平洋戦争が勃発します。そして、それは外交交渉の決裂を原因したもので、本来ならば避けられるものでもありました。今回は、太平洋戦争の主要な戦いと、避けられたはずのものが避けられなかっ... 日本が第二次世界大戦に本格的に参加したのは、欧米列強が占領していた中国に手を出してからでした。現代の日中間の政治問題にも繋がるこの歴史問題は国同士の見解が異なり、結論が出ていません。今回はその日中戦争について見ていきま... 2003年にアメリカをはじめとする連合軍がイラクへ武力行使をすることで始まったイラク戦争。開戦の際に多くの疑問が持たれましたが、あなたはどれくらいご存知でしょうか?今だからこそ知っておきたいイラク戦争を関連書籍をご紹介... アメリカがイラクに対して攻撃を仕掛けフセイン政権を倒し中東に勢力基盤を築いたのは割と新しい話ですが、そのきっかけは中東の揉め事にアメリカが参戦したことに始まります。今回は、1991年に起こった湾岸戦争について見ていきま... 東アジアのなかで非常に複雑な過程を歩んできた日本、中国、朝鮮の三国。1894年から1895年にかけて、それぞれが思惑をもって臨んだのが「日清戦争」です。この記事では、世界をも揺るがした日本の勝利と、清・朝鮮の滅亡を導い... 1861年4月、アメリカ合衆国は、その社会全体が死に直面する戦争に突入しました。黒人奴隷を雇って綿花栽培をし、その輸出で経済を支えている南部州と、工業化による保護貿易と黒人奴隷の解放を目指す北部州の戦いです。この記事で... 1966年、長きに渡る東西冷戦により世界が緊張感を高めるなか、腐敗した体制の打倒という大義名分のもと起こった「文化大革命」。多くの死者を出し、若者たちの青春を奪っていった革命という名の権力闘争の、知られざる実態にせまります。, ベトナム戦争は、ベトナムだけでなくアメリカやソ連など、各国の思惑がまじりあう複雑な背景から生じた戦争でした。世界中の国々に大きな影響を及ぼしたこの戦争をわかりやすく解説し、おすすめの本をご紹介します。, ジャンルを問わずあらゆる本を乱読しています。かばんには2冊以上本が入っていないと落ち着かない!積読のお城に住んでいます。, ホンシェルジュはamazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。. アメリカの歴史ナビではアメリカ独立戦争・アメリカ独立宣言・アメリカ領土拡大・南北戦争・米西戦争・奴隷解放宣言・第一次世界大戦・世界大恐慌・第二次世界大戦・冷戦・湾岸戦争・イラク戦争・同時多発テロ・リーマン・ショックなどのアメリカ史の重要な出来事を紹介しています。, 2018/11/2 しかしこの南北戦争は国際的な状況が影響して起こったものでも... 南北戦争は一般的に奴隷制の廃止を求める北部と奴隷制の存続を求める南部の対立だと言われています。 Copyright© Historiai , 2020 All Rights Reserved. 奴隷制の廃止を求める北部と奴隷制の存続を求める南部の衝突であり、多くの死傷... 南北戦争はアメリカの南部と北部の戦いであり、言い換えれば内戦でもあります。 もともと日本は長い間鎖国をしており、南北戦争が起こる直前まで日本は開国をしていませんでした。 江戸時代に200年以上にわたって鎖国を行い、長崎の出島のみが対外的な場所として残されるだけで、それ以外は一切の公益が禁じられていたのです。 海外との付き合いが全くなかったため、外国の情報が入ってくることもありませんでした。 1853年、浦賀にペリーがやってきたことにより、日本は開国を迫られたのです。 そし … アメリカ南北戦争は、奴隷制存続を主張する南部の11州が合衆国を脱退して連合国を結成。北部23州と戦った戦争のことを言います。アメリカでは「The Civil War」と呼ばれ、独立後の唯一の内戦と認識されています。この記事では、南北戦争の原因と結果を分かりやすくご説明します。 そしてもちろん南北戦争は日本にも影響... アメリカの第16代大統領エイブラハムリンカーンは若い頃から奴隷制に批判的だった、その奴隷制を批判するために大統領となり、奴隷解放宣言を出した... 南北戦争というとアメリカの南部と北部が争ったものですが、その間インディアンたちは一体どうしていたのでしょうか。 南北戦争には黒... アメリカの第16代大統領エイブラハムリンカーンは若い頃から奴隷制に批判的だった、その奴隷制を批判するために大統領となり、奴隷解放宣言を出した... 1860年に入り、アメリカでは南北戦争が勃発しました。 南北戦争はアジアにも影響を及ぼしている。南北戦争でアメリカの綿花輸出がストップしたため、インドのイギリス向け綿花生産は急増した。清では前年にアロー戦争が終わり、太平天国の乱が続くなかで 例え... 南北戦争と言えば、奴隷制に肯定的だった南部と奴隷制を否定していた北部が戦ったものになります。 奴隷制の廃止を求める北部と奴隷制の存続を求める南部の衝突であり、多くの死傷... 南北戦争は一般的に奴隷制の廃止を求める北部と奴隷制の存続を求める南部の対立だと言われています。 岩手のコロナ騒動と戦前の捕虜への偏見 ~岩手県民は斯く戦えり、感染一号者には特別のご高配を賜らんことを~. ... 南北戦争と言えば、奴隷制に肯定的だった南部と奴隷制を否定していた北部が戦ったものになります。 しかしこの南北戦争は国際的な状況が影響して起こったものでも... シャーマンの海への進軍、という言葉を聞いたことがあるでしょうか。 大東亜戦争での米軍の死者は35万人ですから、南北戦争が米国にとってどれだけ大きな戦禍だったかわかろうというものです。 ちなみに日本では、南北戦争という呼び方をしますが、正式な英語名は「American Civil War」です。 直訳すれば米国市民戦争です。 南北戦争, これは北部にとっては内戦ですが、南北戦争で敗北した南部にとっては南部独立戦争と言われることもあります。, もともとアメリカの北部は工業が中心となっており、黒人奴隷が必要なく、人々は奴隷制の廃止を求めるようになったのです。, しかしその一方でアメリカの南部は農業を中心としており、まだまだプランテーションにおいては黒人奴隷が重要な労働力でした。, 奴隷制をめぐって北部と南部で意見が分かれるようになり、南部はアメリカ連合国として合衆国から独立する旨を発表しました。, つまりアメリカの南北戦争はアメリカが2つに分裂しそうになった戦争であり、南北戦争が終結したということでアメリカは分裂の危機を免れたのです。, しかし、リンカーンが奴隷解放宣言を出したのは決してリンカーンが奴隷を解放したかったからというわけではなく、むしろ政治的意図があってのことなのです。, そのためリンカーンは奴隷を解放することにより、他の国が南部の見方をした場合はそれは奴隷制を賛成することになる、という良心を揺さぶるやり方で戦争の勝利を目指したのです。, まず、公式に奴隷制を廃止して奴隷制を禁止するという合衆国憲法修正第13条、元奴隷に市民権を与えるという第14条、そして選挙権において人種による制限をなくすという第15条が付け加えられたのです。, この憲法は今も機能している成文憲法の中では最も古いものであるとされ、1度も文章が変更されたことがありません。. それ... 南北戦争はアメリカの南部と北部の戦いであり、言い換えれば内戦でもあります。 南部はアメリカ連合国としてアメリカ合衆国... (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}). 南北戦争はアメリカ経済の発展にとっても大きな意義をもった。歴史家ビアード夫妻は南北戦争を〈第2次アメリカ独立革命〉と呼び,経済史家h.フォークナーは,南北戦争が産業革命を推進し,北部資本主義の発展をもたらしたと述べた。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 今でこそアメリカが分裂するなど想像できないですが、実際にインド帝国は独立前にインドとパキスタンに分離しましたし、朝鮮も同じ民族でありながら南北に分断して70年以上経過しております。, それを踏まえると、アメリカもあの時期に北部の白人の移民が多い先進的な工業国と南部の黒人が多い農業国の2カ国に分裂した可能性も大いにありえたわけです。ですからリンカーンの偉業は奴隷の解放を行ったことより合衆国の分裂を防いだことが彼の最大の功績でしょう。繰り返すようですがリンカーンの偉業とは「奴隷解放」ではなく「合衆国の分裂の危機を防いだこと」なのです。, そもそも北部と南部はイギリスという外敵と戦うために同盟を結んで1つの連邦国家を形成していたわけでした。ですから独立してイギリスの脅威がなくなれば必然的に内紛を起こす火種を抱えていました。その原因は北部と南部では経済的な産業構造が全く別であったからです。合衆国は建国当時から連邦内にありえない二つの国家群を内包していたのです。, 当時は北部と南部では北部が軽工業、南部が農業を主要産業としておりました。独立後間もなく、産業が未発達な北部では産業保護の必要性から保護貿易を必要としておりました。その反面、南部は奴隷を利用した安価な綿花を栽培しており、それをイギリスに安価で販売するために自由貿易を必要としており両者は対立していたわけです。, 北部は南部へ保護貿易のために安価な綿花栽培による自由貿易をやめろとは直接的には言えません。しかし何かしら自由貿易をやめさせる口実を見つけたい。そんな中で目をつけたのが奴隷制というわけです。南部の綿花栽培は奴隷抜きでは成り立ちませんから奴隷制さえ廃止すれば北部は保護貿易政策を取ることができたからです。, この様な経緯があって北部は奴隷制に対して反対する立場をとるようになりました。北部の産業にとって南部の奴隷制による農業は大きな問題でしたが、その一方で奴隷の人権など人道面に関しては全く問題にしておりませんでした。, また、同じように西部に移住した開拓農民も奴隷制には難色を示していました。彼ら自作農からしたら奴隷を使った大規模プランテーション農業はライバルです。ですから必然的に彼らの生活を脅かす奴隷制に対しては反対の立場をとりました。, そもそも戦争開始の時点では北部は奴隷の人道的な観点をそこまで争点にしておりませんでした。奴隷に関しては私有財産であり私有財産の権利は憲法で保証されているので、現在の価値観である「人道的・道徳的」な観点から奴隷制の廃止に賛成をするのは北部においても少数派でありました。, 実際に1831年にボストンで人道主義者であるウィリアム・ギャリソンが人道的な観点から奴隷制廃止の活動を始めましたが、ボストンの市民から非難・攻撃されています。北部においても「新規に奴隷を増やすとなると認めがたいが、既に保有している奴隷は所有者の私有財産として認めざるを得ない」と言う人が多数派でありました。, 北部の人たちの最大公約数的な立場は「南部の奴隷や奴隷制は建国期からの制度として現時点では認めるけれど、今後、奴隷や奴隷制度の他州への拡大は認めない」という意見であったと思います。, リンカーン自身、戦争の危機が高まった際に「南部が分裂するぐらいなら奴隷制を認めるから戻ってきて欲しい」という発言をしております。もし奴隷制の是非が開戦への論争の根幹にあるのならばこんな発言をするはずがありません。, ですからリンカーンも当初は奴隷に対しての道徳面における十字軍的な戦争遂行は避けました。しかし、南部が綿花の輸出先として良好な関係を持ち、味方に付いてくれると期待したイギリスなどの欧州諸国に対してアメリカ連合国として援助を求めるようになるとことは一変します。, 北部にとって合衆国内の内乱から国際的な紛争へと発展する可能性がでると厄介な問題になります。諸外国が南部を正式な国家と認め同盟を結ぶなり援助をしたりすることは北部にとって死活的な問題です。北部は国際世論を見方につけるためになりふり構わず奴隷制反対の理由をすり変えます。, イギリスやフランスなど奴隷制が人道的観点から廃止されており、また南部の奴隷制に疑問を持っていた国々を北部の味方につけるため、そして南部に対する戦争の道義的な優位性を示す為にリンカーンは初めて奴隷解放について「人道的・道徳的」な見地から強く訴えたのです。, 繰り返しますが、奴隷制度は南北戦争における最大の争点でありました。しかしながら北部が奴隷制に反対したのは決して人道的な観点からではなく産業の違いによる経済的な観点から反対したのだと言うことです。, そして南北戦争の結果、南部の敗北により建国期のフェデラリスト論争から続いていた合衆国内における連邦優位と州権優位の論争に遂に終止符が打たれることになったのです。, 歴史というか人の営みが好きなのでそれに関する話題を書いています。ですから必然的に人の記録である歴史の話が多いです。, あと、極限の状況の中で人間の本性を垣間見られるのか戦争に関する話題も多いです。文化論、文明論など時代や地域による人々の暮らしの違いにも興味を持っています。. これはアメリカ南北戦争の終盤に起こったものであり、後の20世紀に起こ... 戦争の戦い方というのは常々発展していくものです。 【ホンシェルジュ】 日本の隣国、韓国と北朝鮮の間でおきた朝鮮戦争は「いまもなお続いている」ということを、皆さんはご存知でしょうか?遠いようで近い朝鮮半島で起きているこの戦争についてわかりやすく解説します。 | Emmy(本の虫、歴史好きライター) そして南部がアメリカ連合国として独立し... 南北戦争は税金に大きな影響を与えます。 投稿日:2017-01-26 更新日:2020-10-27, アメリカの歴代の大統領で一番偉大な大統領は誰かというアンケートすると大体は一位がリンカーンで次点がワシントンという結果になります。リンカーンと言えば南北戦争で勝利し「奴隷解放宣言」を出した偉大な大統領です。, ではなぜリンカーンは偉大なのか。奴隷を解放した素晴らしい人道主義者の大統領だからか?というと実際はそうではありません。, というのも、北部が奴隷を解放することを目的として戦争を行い、奴隷の人権を回復するのであれば、南北戦争から100年後にキング牧師によって黒人の差別是正の公民権運動が行われるはずがなかったからです。, ここで少し複雑なので断っておきますが、南北戦争の争点の1つは「奴隷制度」であることは間違いありません。というか、むしろ最大の論点でした。北部と南部は奴隷制度の為に戦ったと言っても過言ではありません。, ただ、その奴隷制の廃止の是非が「奴隷は酷い人権の侵害で、黒人が可哀想である。独立宣言の自由・平等の精神に反する」という人道的、道徳的なヒューマニズムの観点から行われたというのが間違いであるということです。, リンカーンが最も偉大な大統領である最大の理由は奴隷解放をした大統領だからではありません。アメリカが「アメリカ合衆国」と「アメリカ連合国」の2カ国に分裂する危機があったのを防ぎ、一つの国として留めたことにあります。. 南北戦争には黒... 南北戦争は北部にも南部にも大きな打撃を与えた内戦ですよね。 2018/11/2 そして南部がアメリカ連合国として独立し... シャーマンの海への進軍、という言葉を聞いたことがあるでしょうか。 南北戦争というものは税金に対する政策が絡んで勃発したものとも言えるのです。 そして南北戦争の結果、南部の敗北により建国期のフェデラリスト論争から続いていた合衆国内における連邦優位と州権優位の論争に遂に終止符が打たれることになったのです。 ... 産業革命 技術や発明が印象派に与えた影響; ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。, で軍務に服した。そして彼らの死亡率は、白人兵と比べて35~40%も高かった。本田創造, 奴隷解放が実現し、アメリカの統一は回復した。*福翁自伝〔1899〕〈福沢諭吉〉雑記「亜米利加の, 5. それ... 南北戦争は北部にも南部にも大きな打撃を与えた内戦ですよね。 1860年に入り、アメリカでは南北戦争が勃発しました。南北戦争は英語ではCivil War、つまり内戦という意味になります。これは北部にとっては内戦ですが、南北戦争で敗北した南部にとっては南部独立戦争と言われることもあります。それならばこの 日本の隣国、韓国と北朝鮮の間でおきた朝鮮戦争は「いまもなお続いている」ということを、皆さんはご存知でしょうか?遠いようで近い朝鮮半島で起きているこの戦争についてわかりやすく解説します。, 朝鮮戦争は朝鮮半島において、1950年から始まった大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の戦争です。, 死者は南北合わせて500万人にものぼるといわれています。街は荒廃し、多くの戦争孤児が出るなど、朝鮮半島は大混乱となってしまったのです。, 約3年にわたって泥沼化したこの戦争において、 アメリカではマッカーサーが原爆の使用をも検討していました。結局当時の大統領トルーマンにより解雇され、また世論もあって現実になることはありませんでしたが、第二次世界大戦以降初めての核戦争の危機があったことは事実です。, 1953年の7月27日に、南北の代表とソ連およびアメリカの代表が会合をおこない、休戦協定が成立しましたが、実質的な終戦にはいまだ至っていません。, 政治体制や経済状態も大きく異なる朝鮮半島の2国、韓国と北朝鮮は、もともとひとつの国でした。, 1897年から1910年までは大韓帝国という国が半島を統一していたものの、1910年からは「韓国併合」により日本の統治下となります。, 1945年の第二次世界大戦の終結とともに日本が撤退。その後朝鮮半島の統治に乗り出したのが、連合国側であったソ連とアメリカです。北緯38度線を境に、北側をソ連が、南側をアメリカが占領することになりました。それまでひとつの国だった朝鮮民族が、この時、分断されたのです。, その後もアメリカとソ連の対立が続き、両国が統一されることなく時間が過ぎていきました。, 1948年8月15日、李承晩(イ・スンマン)が宣言を行い、38度線より南側に大韓民国が成立します。, それに対抗するように同年9月9日、ソ連の後ろ盾を得た金日成(キム・イルソン)が北朝鮮の成立を宣言。同じ朝鮮民族が暮らし、統一の可能性が模索されていた2国でしたが、これを機に本格的な分断へと至ったのです。, 1950年6月25日、北朝鮮が突如北緯38度線を越えて南下を開始。朝鮮戦争が始まりました。国連の安全保障理事会は停戦を呼びかけると同時に北朝鮮を非難する声明を発表しましたが、停戦に至る様子はありません。3日後には、北朝鮮軍は韓国の首都ソウルを制圧しました。, 韓国には日本に駐在していたアメリカの援軍が向かい、反対に北朝鮮には中国から大量の戦闘員が流れ込み、戦闘が続きます。, 韓国と北朝鮮の対立の背景には東西冷戦から続く、アメリカとロシア・中国の対立が存在します。朝鮮戦争前、アメリカは朝鮮半島全域にロシア(ソ連)の支配が及ぶことを恐れて、南朝鮮に大韓民国を成立するよう働きかけました。一方の北朝鮮は、ソ連のバックアップを得て成立します。, 戦時中も、韓国にはアメリカが、北朝鮮には直接介入を避けるソ連の代わりに中国が本格支援をおこないます。もともと資本主義と社会主義で相いれなかった両国ですが、この戦争でさらにその対立を激化させていきました。, 1953年に交わされた協定は「最終的な平和解決が成立するまで朝鮮における戦争行為とあらゆる武力行使の完全な停止を保証する」という内容のものでした。これはあくまで戦闘などの停止を意味し、最終的な戦争終了には「平和条約」の締結が必要となります。, 北朝鮮は数回にわたり平和交渉に代わる提案をおこなってきましたが、南側、特にアメリカが取りあわず、朝鮮半島の溝は深まる一方でした。, 現在の北朝鮮の存在は、中国と、韓国の同盟国であるアメリカとの間における緩衝地帯としての役割を担っているという考え方があります。, 朝鮮戦争が再開し、いずれかの形で決着がついたとしても、中国やアメリカ、そしてロシアといった国々のバランスが変化することは必至です。, 著者の神谷不二は国際政治学に精通し、朝鮮半島や戦後史に関する本を多数上梓しています。本書は神谷の得意分野である国際政治学という観点から、朝鮮戦争の始まり、終わり、そしてその後を切り取っています。, 朝鮮戦争勃発当時、日本での報道は大変限定されたものだったそうです。日本人がはっきりと自覚しない間に今日まで続いてきた隣国の戦争について、我々はもっと積極的に知るべきではないでしょうか。, 近現代において、戦争は一国対一国のものとなりえず、多くの国々の思惑が絡みあうものです。特にアメリカと中国の関係を考えるにあたり、朝鮮戦争は両国関係に大きな影響を及ぼしています。, 本書から得ることのできる知識は、今現在の国際政治を理解するにあたっても大きな手掛かりとなるでしょう。, 朝鮮戦争についてあまり知らない方が読めば「これは作り話なのではないだろうか?」と思ってしまいそうなほど、この戦争の背景や被害の大きさに驚かされてしまいます。, 小説というストーリー仕立てですので、専門的な歴史本にとっつきにくさを感じる方にこそ読んでいただきたい一冊です。, 小説とはいえ史実にはしっかり即しています。読後は朝鮮半島関連のニュースを見る目が変わることでしょう。, 本作は、朝鮮半島情勢に大きく関与したアメリカのジャーナリストが書いた、朝鮮戦争の記録です。, 朝鮮戦争が始まってすぐ、アメリカは「反共産主義」のもと参戦を決めました。他国の領土問題に積極的に関与する姿勢は、ベトナム戦争を思い出させます。, アメリカや各国の主要人物たちは、何を思い朝鮮半島の争いに加担し続けたのか……多くの取材や数多の資料をもとに10年にわたって執筆された、きわめて貴重な一冊です。, 上下巻からなり、時系列で朝鮮戦争の様子が記述されていきます。解説なども豊富ですので、朝鮮戦争についての知識を深めたい人におすすめです。, タイトルにある「若き将軍」とは、著者自身のことを指しています。本書は、朝鮮戦争を実際に経験した元韓国軍将軍の自叙伝です。, 白善二(ペク・ソンヨップ)は33歳の時に韓国軍初代陸軍大将に任命された、優秀な軍人でした。金日成や吉田茂、マッカーサーとも面会し、数々の国際的な場面で交渉をおこなった経験があります。, 彼の生い立ちから陸軍時代、そして戦後に政治家として大臣を務めたことや、政界引退後などのエピソードが書かれていますが、なかでも朝鮮戦争に関する記述に力が入っています。当時の韓国陸軍や韓国政府の様子がよくわかる、当事者の証言です。, 軍事について詳しい方のあいだでは白善二の名前は大変有名で、名将としても名高い人物ではありますが、文章には堅苦しさや高慢さがなく、人柄が表れています。, 朝鮮半島において動員された各国の戦力や、それぞれの戦闘の結果など、軍事という視点からこの戦争を読み解いた一冊です。, もともとひとつの民族であり、ひとつの国であった北朝鮮と韓国が、いかにして争う事態となってしまったのか。またその戦闘において各国がどのように参戦したのかなど、具体的に書かれています。, タイトルに偽りはなく、とても理解しやすい内容となっていますので、朝鮮戦争についての入門書とするのもよいのではないでしょうか。, 著者は他にも日中戦争やベトナム戦争をテーマとした「わかりやすい」シリーズを書いています。他の近代戦争と比較すると、朝鮮戦争についての理解がさらに深まるでしょう。, 豊臣秀吉の強気な対外政策として有名な「朝鮮出兵」。後世に禍根を残しつつも、いまだ謎が多いこの戦争はなぜおこなわれたのでしょうか?その謎に迫っていきます。. 南北戦争, 南北戦争と言えばアメリカの南部と北部の戦いですが、その南北戦争は世界中に大きな影響を与えました。, もともと日本は長い間鎖国をしており、南北戦争が起こる直前まで日本は開国をしていませんでした。, 江戸時代に200年以上にわたって鎖国を行い、長崎の出島のみが対外的な場所として残されるだけで、それ以外は一切の公益が禁じられていたのです。, 海外との付き合いが全くなかったため、外国の情報が入ってくることもありませんでした。, そして翌年、ペリーが再度日本にやってきたことにより、日本はアメリカと日米和親条約を結び、下田と函館を開港することにしました。, 南北戦争が起こった後、日本には南北戦争で使われていた様々な中小型の小銃が大量に輸入されてきました。, 先ほども述べた通り、南北戦争が起こる直前に日本は開国をしていますので、日本はアメリカにとって貿易相手国となっていたのです。, そのため南北戦争が起こった後、日本には戦争中に使われていた武器が大量に送られてきたのです。, 特にアメリカで作られたガトリング砲は実際は南北戦争においてあまり使われることがなかったのですが、戊辰戦争では重要な武器となり、本格的に使われることとなりました。, そんな戊辰戦争というのは1868年から1869年にかけて起こった内戦であり、王政復興を経験して明治政府を作り上げた薩摩藩、長州藩、土佐藩名を中心とした新政府軍と旧幕府勢力が戦った日本国内の争いになります。, 新政府軍が勝利を収め、明治政府が日本を統治するようになり、国際的にも大きな影響を与えました。, そしてこの戦争において南北戦争で使われていた武器が大量に使われることとなったのです。, 直接南北戦争が日本に影響を与えたというわけではありませんが、日本国内で起こっていた戦争においてアメリカの南北戦争で使われていた武器が使用されていたということにちょっと驚きますよね。, この後には明治維新が起こるようになり、日本は西洋の影響を強く受けるようになるのです。. 南北戦争は英語ではCivil War、つまり内戦という意味になります。 南部はアメリカ連合国としてアメリカ合衆国... (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}). 奴隷制を巡りアメリカを二分した南北戦争終結から155年。その影響は、人種差別や新型コロナウイルスによる「分断」に揺れる米国社会に、今なお及んでいるようです。今回のメルマガ『newsを疑え!』では軍事アナリストで危機管理の… それならば南北戦争ではどのような戦い方が導入されたのでしょうか。 奴隷制を巡りアメリカを二分した南北戦争終結から155年。その影響は、人種差別や新型コロナウイルスによる「分断」に揺れる米国社会に、今なお及んでいるようです。今回のメルマガ『newsを疑え!』では軍事アナリストで危機管理の… アメリカの歴史ナビではアメリカ独立戦争・アメリカ独立宣言・アメリカ領土拡大・南北戦争・米西戦争・奴隷解放宣言・第一次世界大戦・世界大恐慌・第二次世界大戦・冷戦・湾岸戦争・イラク戦争・同時多発テロ・リーマン・ショックなどのアメリカ史の重要な出来事を紹介しています。, 2019/3/9 南北戦争期の女性とその政治文化 143 Clinton, Silber, 1992],この本は,女性は,男性と両性の子どもを含む世界 との関係の上に存在しているという認識で書かれている。 なんぼくせんそうとさんぎょうしほんしゅぎのかくりつ【南北戦争と産業資本主義の確立】 : アメリカ合衆国, 徴集した。そのうち数千のアイルランド人戦士がアイルランドの宿営部隊に所属していた。一八六五年、, となった。ちなみに毒ガスはカイザー・ウィルヘルム協会物理化学研究所が開発した。 アメリカでは, が大統領になって奴隷間題は愈々険悪となり、遂に文久元年春(一八六一年)から世界歴史上有名なる, 拡張せんとする折柄、蒸気軍艦両三隻を米国政府に注文し且留学生  をも遣すべき筈なりしが適同国, 生(海軍)の人選も終って発表の運びとなっていたとある。 ところが、たまたまこの年、アメリカで, 搬入・搬出港である。ニューイングランド地方からの移住者が開いた町で,奴隷制反対の感情が強く,, 輩出した名門の出自は彼の全生涯に影響を及ぼすことになる。ハーヴァード大学を卒業後,1年余りドイツに遊学した。, ンタと名づけられた。黒人奴隷に依存した綿花栽培地帯の中心として,綿花の取引,綿工業が栄えた。, 者》その他は好評を博した。はじめはニューイングランドを中心とした文芸雑誌の性格が強かったが,, 集団住宅などと呼ぶ。しかも広義に解釈して、江戸時代からの長屋をすら、これに含めていうこともある。アメリカでは, 遂げるトマス・サトペンとその一族の物語を、何人かの語り手を通じて浮かび上がらせる壮大な実験的小説。物語は, アボリションは「廃止」の意)アメリカ合衆国におこった奴隷制廃止運動。とくに一八三〇年代以後北部で活発になり、, ブラジルだけは初め帝国として独立し,やがて1889年共和制に移行した。北のアメリカ合衆国が1861-65年の, 、それぞれジャクソン軍の侵攻に抵抗して戦ったが敗北し、広大な領土を奪われた。(d)強制移住と, 第1は軍事的征服と武力抵抗の時代(1600-1880年代)。(1)植民地時代,(2)独立革命から, イツ,フランスからの移住者も加わったが,英語が新世界の共通語となった。(2)第2期 独立から, く、ほとんどの場合娯楽として消費された。しかし、小説を劇化して19世紀最大のヒット作となり、, その南に続くフィラデルフィア、ボルティモアも港湾と工業を核とする都市である。首都ワシントンは, 顧みると,二大政党のどちらかが比較的長期にわたって多数を占めており,1801年より, 大統領に当選(~1865)。サウス・カロライナ、連邦を脱退1861脱退諸州、南部連合を結成。, 近くに、そして現在は二〇〇〇万人にふえている。ところで、ここでは同化の過程は起こらなかった。, 寄生虫であるボール・ウィービル〔メキシコ綿実象虫〕の害から免かれている。同時に、生産の社会構造が変わってきた。, その前史とそれ以降の展開とを区別できよう。杖下隆英前史その歴史が植民に始まったため、政治的独立後もほぼ, 奴隷制度が十九世紀中葉のアメリカを二分したように、黒人問題は二十世紀中葉のアメリカを分裂させている。, 黒人とアメリカ史 第一章 奴隷制度 I 最初の黒人  二十世紀の黒人問題の起源は、十七世紀の中葉から, いちおう自由民の資格をもっていた。ただし、白人と同等の権利があったわけではない。レオン・リトヴァックは、, となっていた。奴隷制度そのものはもはや二の次といったありさまだった。だから歴史家のなかには、, にではなく、各州の権限に属していただけに、こうした動きは防ぎようがなかった。  シャーマン〔, ら出されていたにせよ、基本的な措置は十九世紀の末期にとられている。ウッドワードの説によると、, この動きは南部に対する《嫌気》より、むしろ北部の魅力によるものであるという。 * 奥南部とは、, つまり黒人の中でもごく少数の者を送ることしか考えられていなかった。アフリカへ帰すという考えには、, 本書の記述は三つの部分に分かれている。第一部がとりあつかうのは北アメリカへの黒人の渡来から、奴隷制、, 「南北戦争」の情報だけではなく、「南北戦争」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。, 1861~65年のアメリカ合衆国の内戦。当時34州を数えた合衆国が「南部」11州と「北部」23州とに分かれて、文字どおり国を二分して同胞が相争った南北間の内戦であった。したがって、この戦争は「諸州間の戦争」War between the Statesとよばれることもある, 南北戦争中リンカーン大統領が発した宣言。1862年9月の予備宣言と翌63年1月1日の本宣言とがある。戦争の勃発(ぼっぱつ)(1861)以来、内戦の目的は、奴隷の解放にあるのか、連邦の維持(国家統一の維持)にあるのかが最大の論争点であった, 中央アジアから移住したトルコ族によって建国され,西アジア(イランを除く),北アフリカ,バルカン,黒海北岸,およびカフカス南部を支配したイスラム国家。1299-1922年。正称アーリ・オスマンĀl-ı Osman(〈オスマンの家〉の意), 18世紀初めから1917年のロシア革命までのロシア。帝政ロシアともいう。正式には1721年にピョートル1世(大帝)が皇帝(インペラートルimperator)の称号をとってから,1917年の二月革命でニコライ2世が退位するまでをいう, ドイツで帝制をとった国家は史上2度あり,第1は神聖ローマ帝国(962-1806),第2がビスマルクのドイツ統一により実現したドイツ帝国(1871-1918)で〈第二帝国〉ともいう。ヒトラーのナチス国家(1933-45)もこれに次ぐものとし, 20世紀世界史において最も巨大な意義をもった社会変革。マルクス主義者をユーラシア大陸に広がる大国の権力の座につけ,社会主義の名のもとに新しい社会体制をつくり出す一方,反資本主義,反帝国主義の革命運動を全世界に拡大する火元を生み, 日露戦争前から第一次世界大戦後のワシントン会議直後まで日英間に結ばれていた同盟条約。〔由来〕明治三十一年(一八九八)三月十七日イギリス植民相チェンバレンは、ロンドン駐在の日本公使加藤高明を招き、ロシアの進出に直面する極東の国際情勢について, ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。. 奴隷制を巡りアメリカを二分した南北戦争終結から155年。その影響は、人種差別や新型コロナウイルスによる「分断」に揺れる米国社会に、今なお及んでいるようです。今回のメルマガ『NEWSを疑え!』では軍事アナリストで危機管理の専門家でもある小川和久さんが、南北戦争が残した問題の根深さや戦後の両軍の和解への姿勢等を紹介しつつ、外国人にはうかがい知れない複雑な要素が絡み合う米国社会の現実をあぶり出しています。, コロナや黒人男性の死亡事件を発端とする暴動に揺れる米国について、こんな報道がありました。日本人には身近ではないニュースなので、ややもすれば見逃してしまいそうですが、米国にとっては重要な意味を持っているようです。, トランプ米大統領は10日、南北戦争(1861~65年)で奴隷制度維持を主張した南部連合(南軍)の将官の名前を冠した米軍基地について、「名称変更を検討することすらしない」と明言した。海軍や海兵隊が『黒人抑圧の象徴』と批判される南軍旗の使用禁止に進む中、大統領選をにらみ、南部の白人保守層にアピールする狙いがあるとみられる。 (6月11日付時事通信), 南軍の英雄にちなんで命名された基地は、ノースカロライナ州フォートブラッグ、テキサス州のフォートフッド、バージニア州のフォートA・P・ヒルなど十数カ所とされています。, このニュースを読むと、75万~95万人の戦死者を出した南北戦争がいまも米国全体に影を落としており、その問題を避けては米国という国が機能しないほどの重みを持っていることがわかります。トランプ大統領を批判する側は、米国民を分断したと言いますが、南北戦争は、その分断か統合かというテーマにも深く関わっているのです。, という訳で、南北戦争をにわか勉強してみたのですが、とても追いつくものではありません。それでも、関連の資料を斜め読みする中で、次のような事実を知ることになりました。, 例えば、南軍の重要拠点だったミシシッピ州ヴィックスバーグという町のお話です。1863年7月4日、46日間にわたる北軍の包囲の前にヴィックスバーグは「落城」し、2万9,000人の南軍兵士が捕虜になりました。南北戦争の一大転換点となった激戦です。, そこまでは歴史的事実ですからなんの問題もないのですが、それで終わらなかったという点で、今日につながってくるのです。なんと、それから80年以上、ヴィックスバーグは7月4日の独立記念日を祝うことを拒否し続けたというのです。これについては「都市伝説」のようなものとする見方もありますが、アメリカ合衆国の一部を構成していながら、南部の拠点としての住民感情が息づいている頑なさを感じさせられ、南北戦争が残した問題の根深さがわかろうというものです。, ニュースにあった南軍に関係する米軍基地の名称などについては、機会を見て西恭之さん(静岡県立大学特任助教)に調べてもらおうと思いますが、「積ん読」していた『記念碑が語るアメリカ──暴力と追悼の風景』(ケネス・E・フット、名古屋大学出版会)を開いて目についたのは、ゲティスバーグ、アーリントンとリー将軍というキーワードでした。ここでは、それを通して米国民の和解と統合についてご紹介しておきたいと思います。, 南北戦争最大の激戦地だったペンシルベニア州ゲティスバーグには、戦争終結27年後の1892年に建てられた「反乱最高潮の碑」という記念碑があります。記念碑の建設費は北部の州によって拠出されたそうですが、北軍だけでなく、南軍の将兵の英雄的な行為が讃えられ、哀悼の意が刻まれているのです。そして、除幕式には南北両軍の退役軍人が一緒に参列し、和解への姿勢を示しています。この当時、いかに早急に南北の和解を図ることが重要と考えられていたか、わかる光景です。, ゲティスバーグは1863年7月、ときのリンカーン大統領が国立戦没者墓地の献納式で両軍の戦死者を悼み、未来へ向けての和解を説き、「人民の、人民による、人民のための政治」という歴史に残る有名な演説をしたことでも知られています。, コロナ不況を読み解くには?株式投資のプロが選んだ「厳選推奨銘柄」を無料で利用する方法, 今後のマーケット動向はどうなる?無料で使える株式投資のプロ直伝「厳選推奨銘柄」とは, 年末年始の17連休案は「空気読めてなさすぎ?」菅内閣の盲点とは【2020-2021】. ©2020 NetAdvance Inc. All rights reserved. 2019/3/9 しかし、それならば南北... 南北戦争というとアメリカの南部と北部が争ったものですが、その間インディアンたちは一体どうしていたのでしょうか。 1861~65年のアメリカ合衆国の内戦。当時34州を数えた合衆国が「南部」11州と「北部」23州とに分かれて、文字どおり国を二分して同胞が相争った南北間の内戦であった。したがって、この戦争は「諸州間の戦争」War between the Statesとよばれることもある。[本田創造], 戦争による戦死者数は南北両軍あわせて61万余に及び(ちなみに第二次世界大戦でのアメリカ軍の戦死者数は40万余)、また機関銃が初めて実戦化されるなど、大規模な近代戦の様相を呈した。この戦争が合衆国に与えた衝撃と影響は深甚かつ広範であったが、とりわけ黒人奴隷制度が廃止され、400万の黒人奴隷が奴隷身分から解放されたことの歴史的意義は、きわめて大きい。[本田創造], 18世紀後半の独立戦争(「アメリカ独立革命」)は、多くの点で先進的性格をもっており、「第一次アメリカ革命」ともよばれるにふさわしい数々の成果を収めた。しかし、それにもかかわらず、革命の指導権を握ったのが北部の大商人と南部のプランター(プランテーション経営者)であったという歴史的制約のために、新たに誕生した近代的民主共和国のなかに、前近代的な一つの制度を残すことになった。この革命は、植民地時代から存続していたこの国の黒人奴隷制度を廃棄することができなかったのである。南北戦争に先だつ数十年間に植民地時代の主要商品作物であったタバコにかわって、綿花生産を中心にした黒人奴隷制度が南部で以前とは比較にならぬほど大発展を遂げることを可能にした歴史的条件は、こうして独立革命そのもののなかに求められる。おりからイギリスでは産業革命が飛躍的に進展し、原綿需要は増す一方で、ホイットニーの綿繰機の発明と、従来の海島綿(かいとうめん)にかわる新品種の陸地綿の導入とは、南部が綿花生産地域としてイギリスのこの需要にこたえる直接的契機となった。 他方、北部においては、対英戦争(一八一二年戦争)後、19世紀も進むにつれて、木綿工業や鉄工業が発達し、これらの産業を基軸にして合衆国でも産業革命が進行し、自立的な独自の資本主義が北東部(ニュー・イングランドおよび中部の諸州)で急速に展開し始めていた。北西部の独立自営農民層を基盤にした商業的農業の発達は、運河や鉄道などの運輸・通信機関の伸長によって北東部と結び付き、これらの二大地域に地域間分業に支えられた資本主義的再生産圏が成立する。北東部の工業の急速な発展を支えたのがその後背地として広大な国内市場を提供した北西部で、その北西部の農業の発展は農産物市場としての北東部の工業に依存していたのである。北東部と北西部との間に種々の地域的利害対立が存在したにもかかわらず、現実にそのような相互依存関係が成立したのは、これらの二大地域が基本的には自由労働に基づく社会発展の道を歩んでいたからである。 こうして、19世紀前半の合衆国では、各州それぞれに別個の州憲法をもちながらも、合衆国憲法という統一原理のもとに組織された一つの共和国=国家的領土内に、南部には黒人奴隷制度を基礎にした前近代的社会が、北部には資本主義を基盤にした近代的社会が、それぞれ同時併存し、ことごとに社会・経済・政治的諸利害が地域対立として顕在化した。1820年のミズーリ協定成立、28年および32年の関税法制定、45年のテキサス併合、46~48年のメキシコ戦争、「50年の妥協」成立、54年のカンザス・ネブラスカ法制定とそれに続くカンザスの内戦、57年のドレッド・スコット判決などの一連のできごとは、南北間の軋轢(あつれき)の代表的なものである。 このような時代的背景のもとに、1848年には奴隷制度に反対する諸勢力が結束して自由土地党を結成したが、この党のスローガンは「自由な土地、自由な言論、自由な労働、自由な人間!」であった。続いて「50年の妥協」とカンザス・ネブラスカ法に対する闘いのなかから、より強大な奴隷制反対政党である共和党を誕生させ、56年の大統領選挙には早くもジョン・フレモントを大統領候補に擁立、プランター=奴隷所有者の利益政党である民主党と闘った。そのときの共和党のスローガンは「1フィートの新しい土地も奴隷制に明け渡すな。国外での侵略的政策をやめよ。奴隷貿易の再開を非難せよ。自由土地法を制定せよ!」であった。そして、59年10月の奴隷解放論者ジョン・ブラウンによるバージニア州(現ウェスト・バージニア州)のハーパーズ・フェリー襲撃・占領は、そこに南北戦争の発火点をみいだしてもよいできごとであった。[本田創造], 1860年秋の大統領選挙で共和党のリンカーンが当選すると、サウス・カロライナ州がただちに合衆国を離脱し、翌61年の2月1日までにミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスの南部6州がこれに続いた。そして、同年2月4日には、これらの諸州の代表がアラバマ州のモントゴメリーに集まって討議のすえ、9日には合衆国と敵対する南部連合(アメリカ連邦ともいう)Confederate States of Americaを樹立し、ジェファソン・デービスを大統領に選出して、公然と奴隷制度を認める憲法を制定した。続いて、4月12日の未明、南軍がサウス・カロライナ州にあった北軍のサムター要塞(ようさい)に砲撃を浴びせ、内戦の火ぶたが切って落とされた。これに対しリンカーンは、初めて7万5000人の志願兵を募集し、また南部の海上封鎖を命じた。その後まもなくバージニア、ノース・カロライナ、アーカンソー、テネシーの4州が南部連合に参加し、ここに南北戦争が本格的に開始される。ただし、奴隷州でありながら、ケンタッキー、メリーランド、デラウェア、ミズーリの諸州は、合衆国にとどまった。また、バージニア州の西部は南部連合への参加を望まず、その結果、戦争中(1863.6)に独立してウェスト・バージニア州として合衆国に加盟する。 サムター要塞の攻撃に成功した南軍は、首都ワシントンを攻略して、一気に勝利をわがものにしようと軍を進めた。これに対し北軍は、この戦争を合衆国の統一を護持するための「防衛戦争」と受け止め、1861年7月に入って、ようやく常備軍の拡大、非常支出、50万の義勇兵募集などの戦時非常態勢の措置を講じた。両軍の最初の激戦となった7月の第一次ブルランの戦いで、数のうえで南軍をやや上回る北軍が大敗し、戦争の短期終結は困難であることが明らかになった。以後、戦争は長期化して互いに一進一退を繰り返し、北軍による南部沿岸一帯の封鎖のもとに、東部地域、中部山岳地域、西部ミシシッピ川地域を主戦場に多くの戦闘が展開されたが、戦局が北軍の優勢に転じ始めるのは62年9月のアンティタムの戦いのころからである。リンカーンはこの機を逃さず、9月22日奴隷解放予備宣言を発し、それは翌63年1月1日に奴隷解放宣言となって、この戦争での北部の大義を全世界に明らかにした。また63年11月19日に激戦地ゲティスバーグで彼が行った戦没者慰霊のための演説は、民主主義の理想を掲げたものとして有名である。 1863年の末ごろまでに北軍はミシシッピ川地域をほぼ制覇したが、北部の軍事的勝利を確実にしたのは、1年後の64年暮れにシャーマン将軍が敢行したアトランタからサバナに至るジョージア進撃作戦の成功であった。65年4月2日に南部連合の首都リッチモンドが北軍の手に帰した1週間後の4月9日、南軍のリー将軍がアポマトックスで北軍のグラント将軍に降伏し、4年にわたる内戦は終わりを告げた。 南北戦争を北部の勝利に導いた要因は多岐にわたるが、従来ややもすれば見落とされてきたのは、この戦争において果たした黒人の役割である。戦場だけに限っても、18万6000人余の黒人兵が正式に陸軍に籍を置き数々の戦闘に参加したが、そのうち13万3000人が奴隷州の出身であった。また、3万人の黒人兵が海軍で軍務に服した。そして彼らの死亡率は、白人兵と比べて35~40%も高かった。[本田創造], 南北戦争は南北両地域間の武力抗争として戦われたが、その本質は前近代的な南部の黒人奴隷制度と北部の産業資本との矛盾・対立の暴力的爆発であった。それはマルクスの表現によれば、「二つの社会制度の間の、奴隷制度と自由労働制度の間の闘争」であり、またビアードは、「階級構成、富の蓄積と分布、産業発展の過程、および建国の父祖から受け継いだ憲法上の広範な変革を巻き起こした社会戦争であり、北部と西部の資本家・労働者・農民が、南部のプランター貴族を国家権力の座から追放した社会的大変革であった」と述べている。結局この戦争は、植民地時代以降、2世紀半近くにわたって強固に存続していた黒人奴隷制度を廃止し、以後、アメリカ資本主義が新たに開放された南部を包摂しつつ単一の広大な国内市場を基盤にして、全国的規模でいっそう発展することを可能にした歴史的条件を用意したという点で、世界史的意味でのブルジョア民主主義革命であった。南北戦争が「第二次アメリカ革命」ともよばれるゆえんである。また黒人に関して、彼らはこの戦争によって奴隷制度のくびきから解放され、法のもとでの自由を確かに獲得したが、それがどこまで真の自由たりえたかは別個の問題である。[本田創造], 1861-65年の間に,アメリカ合衆国の南北両地域の間で行われた戦争。奴隷問題を焦点とする南北対立の中で,南部11州が連邦を脱退してアメリカ南部連合を結成し,連邦側はそれを阻止し,連邦を守ろうとして南北戦争が起こった。南北戦争は今日ふつう〈内乱Civil War〉と呼ばれているが,戦争中,連邦側は〈反逆戦争War of the Rebellion〉と呼び,南部連合側は〈独立戦争War of Independence〉と呼んだ。このほか連邦側の呼び方に〈大反逆〉〈連邦を救う戦争〉〈連邦のための戦争〉〈解放戦争〉〈奴隷解放の戦争〉があり,南部連合側の呼び方には〈第2次アメリカ独立革命〉〈連合の戦争〉〈脱退戦争〉〈北部からの侵略戦争〉〈憲法擁護戦争〉〈諸州間の戦争〉などがある。今日でも南部人の多くは〈諸州間の戦争War between the States〉という表現を好む。, 南北戦争の原因は複雑だが,その基本的なものとして,南北両セクションの形成,奴隷論争,西部領地における奴隷制度可否の問題があげられる。1812年の第2次英米戦争以来,アメリカは商工業中心の北部と,奴隷制綿花栽培を中心とする農業地域の南部とにしだいに分かれ,両者の間に経済的・政治的・社会的対立を生んだ。しかも奴隷制度を必要としなくなった北部や中西部諸州は,1830年代から南部奴隷制度,ひいては南部社会や南部文明を批判し,非難しはじめた。これに対する南部の奴隷制度擁護論はしだいに感情的となり,南部は孤立した閉鎖社会の性格を濃くしていった。南北対立をさらに深刻にしたのは西部への領土拡張だった。西部へ領土が拡大するにつれて州が増えていったアメリカは,北部自由州と南部奴隷州の数のバランスをとるため,重要な妥協を繰り返してきた。しかし米墨戦争の結果,48年領土が一挙に太平洋岸まで広がると,西方領地における奴隷制可否をめぐる南北の妥協は困難となり,対立が激化した。, 1850年代に入ると,南北両地域の対立を増す事件が相次いだ。悲惨な南部奴隷の姿を描いた52年の《アンクル・トムの小屋》の出版,新領地での南北両派の衝突を招いた54年のカンザス・ネブラスカ法,奴隷制支持派に有利な57年のドレッド・スコット事件判決,59年奴隷のいっせい蜂起を計画したジョン・ブラウンのハーパーズ・フェリー襲撃,そして最後に60年の大統領選挙で奴隷制反対の共和党のリンカンが当選すると南部諸州は連邦から脱退,アメリカ南部連合を結成した。南部連合に加わったサウス・カロライナ州は州内にあった連邦サムター要塞を包囲し,これに対してリンカンは救援を決定,それを機に61年4月12日南軍が要塞砲撃を開始したことによって,南北戦争が始まった。→奴隷, 戦争開始時,連邦側はこの戦争が短期間に終わるものと考えていた。当時,連邦23州の人口は約2100万,南部連合は白人550万,黒人奴隷350万だった。工業・食料生産,鉄道敷設距離でも連邦は圧倒的だった。連邦側は,大兵力の集中,大量補給が重要な要件となる近代戦に対処するだけの経済力をもっていたのである。これに対し南部の経済力の劣勢は明らかだった。しかも南部連合大統領J.デービスは,誕生まもない不統一の連合を率いなければならなかった。しかし南部連合はR.E.リーや〈石の壁〉のあだ名で知られたT.J.ジャクソンのように勇敢で知略に富んだ軍人に恵まれていた。それゆえ開戦当初,南部の首都リッチモンドをめざして進撃した北軍が,61年7月21日ブル・ランの戦で惨敗するに及んで,連邦はにわかに大軍の動員に乗り出した。, 戦争はほとんど北軍の南部進攻という形で行われた。その戦局は三つに分けられる。(1)海上からの南部封鎖,(2)リッチモンドとワシントンをめぐる東部攻防戦,(3)アパラチア山脈以西の戦線,とくにミシシッピ川を確保し,さらに南部中心地に侵入しようという西部戦線がそれである。開戦と同時にリンカンは5500kmに及ぶ南部海岸線の封鎖を命令し,ヨーロッパ貿易に大きく依存する南部連合に打撃を与えた。東部戦線ではリッチモンドをめざす北軍が,リー将軍の指揮する南軍に再三妨害された。リー将軍は62年春北部に侵入したが,9月半ばアンティータムの戦で阻止された。早くから北軍に有利に展開した西部戦線では,北軍はオハイオ川から南下してミシシッピ川流域に入ったが,近代戦の性格を理解するU.S.グラント将軍が西部戦線の指揮をとるに至って戦局は急速に展開し,63年末北軍はテネシー州のチャタヌーガに入った。東部では再び北部に侵入したリー将軍を迎えうって,63年7月1~3日ゲティスバーグ会戦が行われた。そのころすでにミシシッピ川は全域にわたって北軍に制圧され,W.T.シャーマン将軍はアトランタからジョージア州の海岸部に向かって徹底的な破壊作戦を行い,さらにカロライナへ北上した。この破壊作戦は,戦後も長く南部人の恨みをかった。, 一方,ひき続く激戦の背後では,南北ともに慎重な外交戦略を展開していた。南部連合にとってはヨーロッパ,とくにイギリスに南部独立を承認させること,連邦にとってはそれを阻止することが,外交の優先課題だった。1862年9月イギリスが南部承認の気配をみせると,9月23日リンカンは軍総司令官の権限で63年1月1日を期し占領地域の奴隷を解放する〈奴隷解放予備宣言〉を発した。リンカンはこの卓越した政治行動によって,イギリスその他のヨーロッパ諸国の南部承認を中止させ,また北部内の自分への批判者にこたえることができた。, 1865年4月9日,グラント将軍に追われたリー将軍とその軍隊は,バージニア州アポマトックスで降状,南北戦争はここに事実上終了した。リンカンがフォード劇場で撃たれたのは4月14日である。南部連合は誕生4年目に消滅した。残された課題は,脱退した南部11州をどのようにして連邦に復帰させるか,解放された黒人をいかに扱うか,の再建の問題であった。, 南北戦争はアメリカ建国以来今日までにアメリカ人が経験した最大の戦争である。あしかけ5年のこの戦争で死んだ将兵は,南北合計で62万3000人に達したが,これは独立戦争から第2次大戦に至るアメリカの他の戦争の戦死者の合計よりも多い。第2次大戦の戦死者は41万人を割る。物質的損失も巨大だった。とくに大部分の戦闘が行われた南部では,アトランタ,コロンビア,リッチモンドなどの都会が荒廃し,5000マイル(約8000km)の鉄道も寸断された。このように南北戦争が巨大な犠牲をアメリカ国民に強いた悲惨なものになったのは,この戦争が人類史上初めてともいえる近代的総合戦だったからである。南北とも大軍を必要とし,徴兵制によって市民を動員した。この戦争では軍用電信,潜水艦,地雷,要塞用鉄条網,機関銃その他の近代兵器が使われた。鉄道輸送による大軍の展開,補給線の確保は,従来の戦争の様相を一変させた。射程距離の長い正確な旋条つきライフルの使用は,両軍の殺傷力を著しく高めた。こうした戦争技術の革新にもかかわらず,両軍の戦術は広い戦場で陣形を組み,最後に銃剣攻撃をするという,旧態依然たる18世紀的なものだった。そういう密集陣形への砲火の集中が,多大な損害を生んだのである。, 南北戦争はアメリカ合衆国の分裂を阻止した重要な戦争であったが,それは同時に兄弟どうしの戦争であり,アメリカ国民に数多くの傷跡を残すことになった。[井出 義光], 南北戦争はアメリカ経済の発展にとっても大きな意義をもった。歴史家ビアード夫妻は南北戦争を〈第2次アメリカ独立革命〉と呼び,経済史家H.フォークナーは,南北戦争が産業革命を推進し,北部資本主義の発展をもたらしたと述べた。南部奴隷制度は廃止され,保護関税であるモリル関税(1861),ホームステッド法(1862),国法銀行法(1863)が成立し,大陸横断鉄道(1869完成)の建設が認められた結果,北部産業資本の主導の下に国内市場が統一され,西部開拓が進展することとなった。, もちろん,南北戦争が直接的に経済成長を促進したわけではない。北部の工業はそれ以前から発達しており,戦争はむしろ一時的に生産を阻害した。また南部農業は,奴隷を使用してはいたが,効率的で生産性も高く,経済的には繁栄していた。したがって,南北戦争は南部の経済を破壊し,その後の停滞の原因をつくり出したのみならず,アメリカ経済全体の成長を戦争中は遅らせた。それゆえ,南北戦争がアメリカ経済の発展を阻害したという見解もあるが,これは正しくない。南北戦争前の南部経済は,イギリスを中心とする経済圏に属し,農産物輸出による経済発展のコースをたどろうとしていた。イギリスから独立したアメリカ国民経済を形成し,工業化によって経済発展をはかろうとするコースは,南部の敗北によって実現可能となった。その後のアメリカが,工業国として世界経済の中心たりえたのは,南北戦争の結果,後者の方向で経済が発展したからであった。→南部再建[岡田 泰男].

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