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世界金融危機(せかいきんゆうきき、英: Global Financial Crisis)とは、2007年に顕在化したサブプライム住宅ローン危機を発端としたリーマン・ショックと、それに連鎖した一連の国際的な金融危機である。世界経済危機、世界金融崩壊、世界金融不況、世界同時不況、リーマン不況、第二次世界恐慌[1] などとも呼ばれる。年表については、サブプライム住宅ローン危機の年表を参照。, 2007年の時点では不動産バブルの崩壊が問題とされていたが、バブル崩壊の影響で銀行や基金が破綻をしたため金融機関が問題とされ、さらに2008年には金融システム全体の問題に対処しなければならなくなった。中欧・南欧・東欧を中心に世界各地へ連鎖的に広がり、その規模と速度は1930年代の世界恐慌を上回った[2][3]。, 最悪期の2008年第2四半期から2009年第1四半期には、世界の資本移動の90%が消滅し、富裕国の資本移動は17兆ドルから1.5兆ドルへと減少した。貿易にも影響し、世界貿易機関(WTO)が統計を集めている104カ国の全てで輸出入が減少した。2009年第2四半期は、国際通貨基金(IMF)が統計を集めている60カ国のうち52カ国で国内総生産(GDP)が縮小した。全世界の失業者は2700万人から4000万人に達したといわれる[4]。, 各国は従来の枠組みを越えて協調した。G20では、それまで財務相・中央銀行総裁会議を開催していたが、さらに首脳陣の会合として2008年11月にG20サミットが始まった。中央銀行ではアメリカの連邦準備制度(FRB)を中心として通貨スワップ協定が拡充された。国際通貨基金(IMF)は2008年から求めに応じて支援を行い、さらに融資拡充をした。それまでの金融規制に限界があることが明らかになり、バーゼル銀行監督委員会では銀行の国際業務の規制が進められた[5][6][7][8]。危機の原因として会計監査制度も批判を受け、会計基準や監査基準も変更された[9][10]。当時は「大き過ぎて潰せない(英語版)」という言葉が象徴するように大手金融機関の救済が優先されており、住宅ローンの債務者の救済が不十分だった[11]。, 危機への対策によって2009年にはアメリカでは景気回復が起きたが、経済格差が拡大した。ヨーロッパでは金融危機後に銀行の資本増強が進まなかったため、2010年に国債がもとでユーロ危機が起きた。金融危機対策やIMF支援の条件として緊縮財政を進めた各国では、国内で経済的困窮や社会不安を招いた。世界各地で抗議活動が起き、政権交代や国際機関からの離脱、地域紛争の発端にもなった。「ウォール街を占拠せよ」と呼ばれた抗議デモは、同様の活動が900以上の都市で開催された。イギリスでは国民投票によって欧州連合離脱が決定した。ウクライナとロシアの間ではクリミア危機・ウクライナ東部紛争が起きた[12][6]。, 金融危機の原因や、対策の評価についての研究が続いている。危機の発生や拡大には、住宅ローンの証券化、低金利政策、シャドー・バンキング・システムなどが関わっていた。最大の原因は住宅投資の減少であり、そのもとをたどると住宅ローンに投資した人々の債務増加にいたる。特にサブプライム・ローンでは、返済能力を無視して貸付を行う略奪的貸付(英語版)が以前から問題となっており、貸し倒れが増えたことで債務損失が増幅し、バブルが崩壊した[13][14]。金融危機の当初は、経済学者や政策立案者は債務者よりも銀行の救済を優先していたが、その後の研究では家計債務(特に住宅ローン債務)を減免した方が金融危機の回避に役立ったというデータが集まっている[11]。, 1970年代のアメリカから、住宅ローンの証券化が始まった。これは地域金融の弱点である各地域のリスクを補うために考えられ、国策会社である政府支援機関(GSE)によって進められた。地方銀行は地域のリスクから守るために住宅ローンを証券化してGSEに売った。GSEは証券化された住宅ローンを買うために、プールした住宅ローンを担保にして債券を売った。これが不動産担保証券(MBS)であり、GSEに多大な利益をもたらした。GSEの発行ではないプライベート・ラベルのMBSも1990年代に急増し、利益を得るためにトランチングなどの方法が考案された[19]。, 2000年にITバブルが崩壊し、インターネット・情報技術関連企業の上場が多いNASDAQ市場は暴落して、2001年第2四半期からアメリカのGDPが3四半期連続のマイナス成長となった[15]。失業率も増加を続けてアメリカの財政赤字は拡大した。FRBは2000年末から利下げを繰り返し、ジョージ・W・ブッシュ政権は大規模な所得減税を行った[注釈 2]。この結果、アメリカ金融史上で最も低金利の時代となったが、当時のFRB議長だったアラン・グリーンスパンは低金利政策が誤りだったとのちに認めている[注釈 3][22][17]。, エンロンが2001年に粉飾決算で破綻したのちに金融機関への規制強化が検討されたが、実施されなかった[注釈 4]。規制が強化されなかったため、後述のシャドー・バンキングが急拡大した[23]。, 世界金融危機の大きな要因となった金融ビジネスは、非銀行金融仲介機関であるシャドー・バンキング・システムであった。シャドー・バンクに含まれるのは、マネー・マーケット・ファンド(MMF)、特別目的事業体(SPV)、資産担保コマーシャルペーパー(英語版)(ABCP)、投資銀行等のレポ取引、ヘッジファンド、証券会社、証券化商品発行体、そして個人向けのファイナンス・カンパニーなどである。シャドーバンクの資産額は危機以前の10年間に特に増加したが、銀行よりも高いリスクを抱えていた[注釈 5]。シャドーバンクの中でもMMFはMBSの発行や証券化に関わる重要な投資家として機関投資家が資金を供給した[注釈 6]。レバレッジも危機拡大の一因であり、アメリカの大銀行が倍率を横ばいさせていたのに対して、アメリカの三大投資銀行は2007年に25倍を越え、欧州の大銀行は2008年に35倍を超えた。ABCPの発行残高で、欧州はアメリカを上回っていた[24]。, BRICSを中心とした新興国の経済発展を背景に、エネルギー需要、食料需要などの資源需要が高まり、原油価格が上昇した。産油国の利益は欧米の機関投資家へ流れ、機関投資家の資金運用がアメリカに集中した。このとき、先の低金利政策と、シャドー・バンキング・システムを通じた証券化を促進する規制緩和が相まって、サブプライムローンを中心とした信用拡張が行われた。ABCP市場は6500億ドルから1兆ドル市場に成長した[3][23]。, アメリカでは、エンロンと類似の事件を防ぐために、GSEのフレディマックとファニーメイがバランスシートを縮小した。その影響で住宅ローンに民間業者が参入し、民間業者が導入したサブプライムローンは住宅価格の上昇に後押しされて2003年以降に急拡大をした[注釈 7][26]。, 2004年6月30日の連邦公開市場委員会(FOMC)から政策金利は引き上げに転じた。2004年-2006年にかけてアメリカでは住宅ブームが生じ、低利の2段階変額ローンにより募集された不動産担保ローンが大量に組成された[注釈 8]。少なからぬ利用者が住宅価格の上昇の恩恵を受けた。この住宅ローンの個別債権は、欧米の主要銀行がSPVなどを利用してMBSに証券化した[3]。, MBSは高利回りの金融商品として世界各国に販売された。格付け機関のムーディーズやスタンダード&プアーズはMBSにトリプルAの格付けをして信用を与えたが、これらの格付け機関は選出基準が不透明だった[注釈 9]。さらに、格付け機関は商品リスクを知りながら高い格付けを与えていたことが、のちに議会の調査で明らかになっている[注釈 10][28]。貸し倒れに対する保証としてはクレジットデリバティブ(債務担保証券:CDOやクレジット・デフォルト・スワップ:CDS)などの金融商品が利用された。, この住宅ローンは借り換え期の4年目以降に急激に金利が上昇するため、当初から危険性は指摘されていた。契約内容を理解できていない借手に、返済能力を無視して貸付を行う行為が横行したため、略奪的貸付(英語版)とも呼ばれて問題となった。しかし、住宅価格が上昇する局面では警鐘はかき消された。ちょうどブーム3年目にかかる2006年1月頃から住宅価格のかげりが見え始め、不動産担保証券の貸し倒れリスクが注目され始めた[13][29]。サブプライムローンの債務者の一部は住宅価格の上昇を見込んだ返済計画を建てていたため、住宅価格低下の影響で利払い延滞率が急増した。債務者の延滞が顕著になると、サブプライムローンの直接の貸し手である住宅金融専門会社に対する金融機関の融資が慎重になり、住宅金融専門会社では資金繰りが悪化して経営破綻が出始めた。サブプライムローンは貸し倒れの危険を分散させるために分割・証券化されて金融商品に組み入れられていたため、金融商品そのものに対する信用リスクが連鎖的に広がった。リスクを警戒し、2006年から住宅ローン売買を減らした投資銀行もあったが問題の解決にはならなかった[30]。, 景気後退は2008年秋の銀行危機よりも2年以上早く表れており、住宅投資は2006年第2四半期には17%下落を始めていた[注釈 11]。全米経済研究所によれば、景気後退はリーマン・ブラザーズ破綻の9ヶ月前に始まっている。耐久消費財や自動車の支出下落、大量解雇も銀行危機より早く起きており、しかも大西洋を越えたヨーロッパで影響が出ていた[32]。, 2007年1月から不動産担保ローンの破産が顕著になり、5月にスイス最大の銀行UBSがディロン・リード・キャピタルマネジメント(英語版)(DRCM)を閉鎖した。6月はベアー・スターンズのヘッジファンドに対する債権者メリルリンチが担保の債務担保証券(CDO)をわずかしか売却できず、この時点でCDOには国際流動性を期待できなくなっていた。7月には、特別目的事業体(SPV)を通じてCDO等に投資していたIKB ドイツ産業銀行(英語版)が公的支援を受けることになった。8月はドイツのNRW.BANKによる支払い停止や、フランスのBNPパリバによる3つのファンド凍結などが相次いだ。パリバが「アメリカ証券市場の一部で流動性が消滅したため、一部の資産評価が不可能になった」という声明を出すと危機の認識が広まり、2007年10月にはイギリスで住宅価格が急落した[33][34][35]。, 資産担保証券(ABS)も価格を下げて国際流動性を失い、これを担保とする資産担保コマーシャルペーパー(ABCP)の借換発行もむずかしくなった。ABCPを簿外勘定に出していた銀行は、流動性を失ったABCPを保有することになった。預金債務が膨張したので、銀行とFRBは事後的な信用創造にはげみ、そこでうまれた預金通貨は機関投資家によってマネー・マーケット・ファンド(MMF)やレポ債権に転換された。ヨーロッパ系銀行は危機発生に先立つ数年間、100以上のSPVのため直接または間接のスポンサーになっていた。これらのABCPは数千億ドル規模のABSをアメリカ市場で販売していた。その流動性が2007年8月に失われると、償還するためにヨーロッパ系銀行は在米支店からドル資金を調達した[34]。短期金融市場から調達された資金を引き揚げられて、シャドーバンキングは脆弱性を露呈した[24]。, アメリカを中心として会計基準には時価評価主義が採用されており、サブプライム危機が短期間で拡大する一因となった。時価評価では、金融資産の減価は自己資本減少と機関投資家が発行する株式の減価に直結するので、その株式を保有する企業が発行する株式も減価となる。こうして負の連鎖が拡大した[注釈 12][36]。, 2008年3月にベアー・スターンズの経営危機が明らかになると、金融危機が世界的に報道され始めた。9月に入って、政府支援機関(GSE)のフレディマックとファニーメイが実質的破綻に陥り、9月15日にはリーマン・ブラザーズが連邦倒産法第11章適用を申請し、負債総額6390億ドル(約64兆円)というアメリカ史上最高額の経営破綻を起こした[注釈 13]。さらにバンク・オブ・アメリカによるメリルリンチの買収、保険会社アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)の国有化など、金融機関の再編が進んだ。, 9月のショックで、リーマンの決済銀行であるJPモルガン・チェース、シティグループ、バンク・オブ・アメリカはレポ債権の追加担保を要求したが、貸付が打ち切られ倒産した[注釈 14]。リーマン・ショックはリーマン債を保有していたMMFを元本割れさせた。9月19日、MMF保険創設のため連邦政府が為替安定基金から最大で500億ドルを取り崩す方針が公表された[注釈 15]。リーマン以外の清算ケースでもCDSは同様の状態であり、CDSの売り手となっていた金融持株会社、投資銀行、保険会社、ヘッジファンドなどは、短期金融市場からの資金調達を金利の急騰に阻まれた。ヨーロッパ系銀行もドル建て流動性資金について同じ境遇であり、新興国経済から資金を引き揚げた。この資金引き揚げによって、中欧・東欧・南欧にも金融危機が波及した[37]。, 2008年第2四半期から2009年第1四半期には、世界の資本移動の90%が消滅し、富裕国の資本移動は17兆ドルから1.5兆ドルへと減少した。2009年第2四半期は、IMFにGDP統計を提出している60カ国のうち52カ国でGDPが縮小した[38]。サプライチェーンが同期しているためにアメリカやヨーロッパの需要減少は各国に波及し、世界貿易機関(WTO)が統計を取る104カ国の全てで輸出入が減少した。世界の原油価格は76%下がり、産油国で財政赤字が続出した[39]。, 各国政府が金融機関を支援した主な方法は4通りであり、(1) 銀行への貸付、(2) 銀行の資本増強、(3) 資産買い入れ、(4) 銀行のバランスシートに対する国家の保証、があった[40]。2008年10月10日にはG7の財務相・中央銀行総裁会議、10月11日にはG20の財務相・中央銀行総裁会議が開催され、共通の方針が5つにまとめられた。(1) 重要な金融機関の破綻を避ける。(2) 資本増強を支援する。(3) 銀行間取引の流動性を確保する。(4) 預金保険の整備。(5) 証券化資産の流通市場の再構築である[41]。, 2008年から国際通貨基金(IMF)の支援を求める国家が相次いだ。2008年10月のハンガリーに続いて、アイスランド、ラトビア、ウクライナ、パキスタンが支援を受けた。2009年にはアルメニア、ベラルーシ、モンゴル、ルーマニアが支援を受け、予防措置の貸付がコスタリカ、エルサルバドル、グアテマラ、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナに行われた。さらにアメリカ発案のフレキシブル・クレジット・ファシリティがメキシコ、ポーランド、コロンビアに提供された。IMFは支援の条件として緊縮経済政策を求めたが、緊縮政策の受け入れが国内に対立を起こす事態も起きた[42]。, 2007年にはヨーロッパのホールセール資金調達市場が不振であり、欧州中央銀行(ECB)やイングランド銀行(BOE)は資金を注入した。しかし注入できる通貨はユーロやポンドであり、ドルが求められていた。金融危機の間はドルの調達が困難であり、ヨーロッパ系銀行は資金調達に苦しんだ。FRB議長のベン・バーナンキはヨーロッパ系銀行がドルの資金調達を求めていることを理解し、FRBはドル建てのポートフォリオを維持するために2008年秋からドルで流動性ファシリティ(信用供与契約)を始めた。FRBによる供与は、レポ取引、ABCP、MBS、通貨スワップなどシャドーバンキングに関わるものに結びついており、内部関係者は契約についての難解な頭字語をまとめて「ホビット族」と呼んだ[注釈 16]。, 2008年9月18日には日米欧の6中央銀行が通貨スワップ協定による大量のドル供給を開始した[注釈 17]。その後、個別にドル資金供給を行っていた9中央銀行を含め計15中央銀行がドル供給を10月末まで延長した[注釈 18]。通貨スワップの協定によって、ドル・ユーロ・ポンドの通貨危機は防がれた[44]。FRBは緊急支援に加えて、2009年にはQE1と呼ばれる量的緩和も行った。FRBが受け入れたMBSの52%がヨーロッパをはじめとする国外の銀行のものであり、FRBが最後の貸し手として機能した[注釈 19]。しかし、FRBの2007年から2009年にかけての流動性供給は当時は極秘とされ、2010年にドッド=フランク法や情報公開訴訟をきっかけに公開された[注釈 20][47]。, FRBによる拡充とは別に、他の地域においても金融危機対策として通貨スワップが行われた。ユーロのスワップ協定はECBによってスイス、デンマーク、ハンガリー、ポーランドに拡充された。SNBはスイスフランのスワップ協定を締結した。ブラジル・アルゼンチンや、中国・韓国は自国通貨同士のスワップ協定を締結した。中国は他にも香港、マレーシア、ベラルーシ、インドネシア、アルゼンチンとスワップ協定を結んだ。アジアでは、アジア通貨危機の時に結ばれたチェンマイ・イニシアティブにもとづいて複数国間の契約が実現した[48]。, 2008年11月14日-15日のワシントン・サミットでG20が金融安定化のための国際会計基準について声明を行った。対応を求められた国際会計基準審議会(IASB)は会計基準を変更し、IAS39号およびIFRS7号で認められていない金融資産の保有目的区分の変更を条件つきで認めた。これは国際財務報告基準(IFRS)を採用しているEU企業が、アメリカ企業に対して不利にならないようにEUが要請したとされる[49]。この変更で適正手続(デュー・プロセス・オブ・ロー)を取らなかったためにIASBは批判を受けた[9]。, サブプライムローンが証券化されて急拡大した際、会計事務所の中にはそれらの金融商品が投機的であると警告を発するところもあったが、危機の防止にはいたらなかった。世界金融危機の処理にあたっては、経営者や金融機関に加えて監査法人も非難された。世論は監査の適切さを疑い、企業や金融機関は監査法人が資産価値を過小評価したと主張した[50]。, アメリカのジョージ・ブッシュ政権は2008年に最大7000億ドルの公的資金を投入する法案の策定に着手した。法律番号 H.R.1424(英語版)にあたり、不良資産救済プログラム(英語版)(TARP)や緊急経済安定化法が作成された。事前に議会指導部と政府は合意しており、9月29日の法案成立は確実とみられていた。しかし、共和党の議員はアメリカの伝統的な自己責任の価値観にもとづいて多数が反対票を選んだ。このため予想に反してブッシュ大統領が属する共和党の反対によって下院で否決された[注釈 21]。この日のニューヨーク証券取引所のダウ平均株価は史上最大となる777ドルの下落を記録し、世界中でも信用収縮が起こった[52][53]。, その後、緊急経済安定化法案は修正を加えて10月3日午後1時に成立した。しかし当日の米国株は後場急落し、翌週10月6日から10月10日の1週間は世界の株式市場は大きく下落した[注釈 22]。これに対して10月8日には欧米の中央銀行が協調利下げに踏み切り、ヘンリー・ポールソン財務長官が金融機関への公的資金注入を示唆したが、株価の下落は止まらなかった。10月10日は、株価変動確率の激しさを表すボラティリティインデックス(VIX、通称恐怖指数)と呼ばれる指数が、1997年のアジア通貨危機の約38、2001年のアメリカ同時多発テロ事件の約45を上回って75を超えるなど、市場は混乱した。財務省・FRB・連邦預金保険公社(FDIC)は主な9銀行への公的資金注入を検討し、13日の銀行との会合で承認を得た[注釈 23][55]。製造業大手ではクライスラーとゼネラルモーターズ(GM)が破綻の可能性に陥り、GMは事実上国有化された[注釈 24]。, 中南米は、アジアやアフリカと同様に金融危機の影響が比較的軽微にとどまった。過去の通貨危機や金融危機の経験を参考にして、外貨準備を維持する対策がとられていた。それが、(1) 対外資産の蓄積、(2) 国内金融資本市場の発展、(3) 短期資本移動規制など政府や中央銀行の政策である。2008年第3四半期には資本流入が減ったものの、それまでの純資本流入と経常黒字によって外貨準備が比較的豊富だった。中央銀行の多くは外国為替市場に介入して外貨の流動性を供給し、チリやブラジルでは先物市場で取引を行い、外貨準備の維持に成功した[57]。北米自由貿易協定(NAFTA)によってアメリカとの貿易が密接なメキシコは、原油以外の輸出が28%減、輸出加工区のマキラドーラは雇用が20%減少した[39]。, サブプライムローンの証券化はアメリカ国外から資本を集めることを目的としており、ヨーロッパの金融機関も深く関わった。2000年代にヨーロッパ系銀行の国際業務は拡大し、ドルで借りてドルで運用する取引が8兆ドルを越えた。この取引でドルの資金調達のリスクを抱えることになり、サブプライムローン危機でリスクが現実となった[58]。ヨーロッパ系銀行は2006年には新規の不動産担保証券(MBS)の30%を裏づけをしており、アメリカに現地法人を設立をしてサプライチェーンを一体化していた。2007年下半期からドイツ、イギリス、フランス、スイス、ベネルクスの銀行は損失によって貸出を減らし、フランスのソシエテジェネラルを早い例として、G7の核をなすメガバンクの自己資本利益率が低迷し、イギリスのロイヤルバンク・オブ・スコットランド(RBS)が大ダメージを受けた。スイスはUBSが破綻の危機に見舞われたが、早い段階でUBSを監督下に置いて対策をした[59][60]。, 2007年には影響が出ていたにも関わらず、ヨーロッパ諸国の政治家は2008年8月頃まで金融危機をアメリカの国内問題と解釈していた[注釈 25]。さらに、ヨーロッパはアメリカよりも損失が軽いので各国の対応で解決できると考えた。これに対してオランダのヤン・ペーター・バルケネンデ政権は2008年9月に銀行救済基金を提案し、欧州の全国家がGDPの3%を使った基金の設立を訴えた。オランダ政府の提案はフランスの賛同を得て、クリスティーヌ・ラガルド財務相は共同対策を主張した。しかしドイツのアンゲラ・メルケル政権や、ヨーロッパ中央銀行(ECB)のジャン=クロード・トリシェ総裁、ユーログループのジャン=クロード・ユンケル議長らの賛同を得られず実現しなかった[61]。, フランスでは主な銀行の損失が比較的少なく、回復の仕組み作りが成功した。10月16日に緊急資本注入と再融資案が成立し、BNPパリバをはじめとする主な銀行は国家資金保証公団(SPPE)の資本注入に同意した。再融資においては、フランス経済財政公団(フランス語版)(SFEF)が銀行のために政府保証債を発行して主な6行が引き受けた[62]。, ドイツのアンゲラ・メルケル政権は金融市場安定化基金の創設を検討したが、連邦議会で否決された。ドイツ銀行は政府の支援を避けるために、会計操作や湾岸国の政府系ファンドからの資金調達をした。政府は不動産金融大手のハイポ・リアル・エステート(英語版)(HRE)を破綻から救済し、取り付け騒ぎ防ぐために貯蓄預金の全額保護を発表した[63]。, イギリスはゴードン・ブラウン政権が2008年10月8日に銀行の救済を決定し、救済策を3つに分けて行った。(1) RBSやHBOSなど主な8行に資本増強の要求、(2) 新たな債権の保証に2500億ポンドを投入、(3) イングランド銀行の特別流動性スキームの2000億ポンド増額である。不良債権管理のためにUKフィナンシャル・インベストメンツが設立され、RBSやHBOSはのちに国有化された[64]。, アイルランドでは、アメリカの緊急経済安定化法否決の影響で2008年9月に信用収縮が起き、大手3行は破綻寸前となった。アイルランドの銀行のバランスシートが合計でGDPの700%に達したため、ブライアン・カウエン政権は取り付け騒ぎを防ぐために全ての債務の2年間保証を発表した。アイルランドの銀行はイギリスの金融システムと密接であるため、イギリスはフランス、オランダ、ドイツなどの国と対策を協議した。ヨーロッパで共同基金を設立して銀行を救済するというオランダの案もあったが、EU統合を進めるリスボン条約がアイルランド自体の国民投票で2008年6月に否決されていた経緯も影響し、実現しなかった[52][65]。, ヨーロッパで不動産バブルが最も盛んだったのは、アイルランドとスペインだった。ユーロ圏の2007年から2012年の失業者はスペインが最も多く、660万人のうち60%(390万人)を占めた。スペインの不動産融資で中心だったのは、カハ(caja)と呼ばれる中小の貯蓄銀行だった[注釈 26]。スペインのホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ政権は不良債権処理のために2010年にバンキアを設立し、カハの整理を進めた[67]。, 東欧諸国は危機発生まで成長を続けていたが、資金の調達は西ヨーロッパ系銀行からであった。四半期ごとに500億ドルが東欧やNIS諸国に流入していたが、危機によって流れが反転し、2008年第4四半期から2009年第1四半期にかけて1500億ドルが流出した。ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアは債務の半分が国外からの融資であり、ハンガリーでは円高の影響によって円建ての世帯が最も債務負担が増えた。東欧はFRBの通貨スワップ枠に含まれておらず、ECBはユーロ建ての資金しか送れないので問題の解決にはならなかった。ハンガリーはIMFに支援を要請したが、支援の条件だった緊縮政策は国内の不満を高める結果となった[68]。2009年には東欧のEU加盟国をユーロ圏に加盟させてECBが支援するという要請もあったが、ECBの賛成は得られなかった[69]。, バルト三国はEUと北大西洋条約機構(NATO)加盟に続けてユーロ圏への加盟を進めていたが、危機によって国外の資金調達が止まった。バルト三国の通貨はユーロ圏への統合の途上にあるために為替レートが固定されており、通貨切り下げが困難で苦境に陥った[注釈 27]。特にラトビアは巨額の経常赤字があり、スカンジナビア系の銀行であるスウェドバンクとノルディア銀行が関与しているため問題となった。欧州委員会(EC)は、GDPの35%を支援する条件として、経常収支を調整する緊縮財政をラトビアに求めた。ラトビアは破綻を防いだが、緊縮財政によって大きなダメージを受けた[注釈 28][69]。, アイスランドは危機発生の時期には最悪とも評されたが、最も対策に成功した国の一つとなった。危機以前には1990年代からタックスヘイブンとしての機能を充実させ、2000年代には商業銀行と投資銀行の融合やヘッジファンドへの投資、不動産バブルが進んだ。所得格差が広がり、2006年以降には金融機関やエコノミストから警告があったが、財界に無視された[注釈 29][73]。危機発生後の2008年10月には大手銀行が国有化され、株価は10%となり、人気があったネット預金アイスセーブ(英語版)も破綻し、失業率は7.6%となって欧米メディアでは世界最悪と報道された[74]。対外債務が9兆5000億クローナとGDPの900%に達したためIMFの支援を受けたが、オラフル・ラグナル・グリムソン大統領はIMFが求める緊縮策を拒否し、国民投票を行った。その結果、アイスセーブ破綻の補償も拒否することになった。他方で政府は社会保障を維持して医療・再就職・住宅の支援を行った。歳入増加と所得格差の是正を目的に富裕層へ増税をし、危機の原因となった投機的な銀行への責任追及も行った。一連の政策によって、アイスランドはヨーロッパの中では速やかに回復へと向かった[75]。, ロシアは天然資源の利益がGDPの20%を占めており、危機による原油の暴落でロシアの銀行・原材料企業・新興財閥であるオリガルヒの対外債務は5400億ドルまで増加し、ロシアの公的準備金に匹敵する規模になった。南オセチア紛争(2008年8月)の影響でロシアに対する海外の投資家離れも止まらず、株価下落が続いた。2008年9月からドミートリー・メドヴェージェフ大統領とウラジーミル・プーチン首相の政府はオリガルヒを支援したが、株式市場の安定化にオリガルヒの資金が使われ、小規模な銀行の救済には国営のロシア開発対外経済銀行(英語版)(VEB)があたった。政府予算の9.7兆ルーブルの25%が金融危機対策として雇用創出・産業助成・減税などに使われ、国家規模から計算すると世界最大級であった[76]。, 経済発展のために西側からの資金調達を続けており、2008年までの国内企業の資金調達の45%、一般世帯向けローンの65%が国外からであり、オーストリアとフランスの銀行など400億ドルにのぼっていた。危機によって貸付が止まると鉄鋼業を中心とする輸出が減少して雇用問題が起きたため、10月にはIMFの支援164億ドルを受け入れた。IMFは条件として予算資金の確保、通貨フリヴニャの切り下げ、金融システムの安定を求めた。国内では、IMFの緊縮策を受け入れたヴィクトル・ユシチェンコ大統領やユーリヤ・ティモシェンコ首相への不満が高まり、かつて不正選挙でオレンジ革命(2004年)の原因になったヴィクトル・ヤヌコーヴィチに支持が集まった。2009年には天然ガスをめぐってロシア・ウクライナガス紛争が起き、ロシアとの対立が深まっていった[77]。, アジア諸国は、アメリカ合衆国やヨーロッパと比べて影響が比較的小さかった。原因として、金融機関の資金調達で海外資金への依存が低かった点にある。資本の流入や国内の信用残高は増えておらず、タイ、インド、マレーシアのように対GDP比では減少していた国もあった。しかし、金融危機の影響で起きた貿易の減少と、欧米の金融機関の資金引き揚げによって、2008年後半から2009年には中国、インドネシア、フィリピンなどをのぞくアジア諸国はマイナス成長となった[78][79]。, 中国の金融機関に影響が少なかったのは、大きく2つ理由がある。(1) 資本取引を規制していたため、金融機関の資金調達は制限されていた[注釈 30]。(2) それまでの銀行は中央銀行や政府の指示に従って貸付をしており、リスクを取って利益追求をする業務が少なかった[注釈 31][81]。, 実体経済への影響は2008年の第3四半期からとなった。中国は危機以前から急成長で輸出大国になっており、輸出先であるヨーロッパの不振の影響を受けた。2008年7月は輸出25%増、輸入30%増、外国直接投資が65%増だったが、6ヶ月後には危機の影響で輸出18%減、輸入40%減、外国直接投資が30%減となった。上海証券取引所は北京オリンピックを前に下落に転じた。ただし中国は内需を拡大しており、危機進行中の2008年時点でも消費は年間20%の上昇をみせていた。中国は危機にあたってアメリカのGSE保有を2007年水準まで減らし、他方で米国債が望ましい資産となったために財務省証券の購入を増やした[82]。, 胡錦濤政権のもとで、2008年11月には中国国務院が緊急会合を開いた。王岐山国務院副総理の主導で対策が立案され、財政政策としては4兆元(5860億ドル)の内需拡大十項措置(英語版)が進められた。この支出は高速鉄道・道路・飛行場・水利施設などのインフラに使われた[注釈 32]。金融政策としては、2008年11月に中国人民銀行が緩和策として預金準備率・基準金利を引き下げ、2009年5月には「固定資産資本項目資本金比率に関する通知」として、多くの業種で銀行借り入れの債務比率を引き上げることを認めた。これらの大規模な緩和策で銀行貸付が急増して2009年の新規貸付は9兆6000億元となり、政府は貸付を慎重にするよう通知を出した。このため当時はバブルの可能性について懸念も広がった[84][85][86][83]。, 金融緩和と財政支出の組み合わせにより、中国は世界最速で金融危機を脱出した。2009年の中国の経済成長率は9.1%となり、2008年をわずかに下回る程度で、世界で最も高かった。効果の規模は、FRBが行なった流動性供給と並んで世界経済に影響を与えた[87]。景気対策のために国債増発を必要としたアメリカ政府の要請に応え、アメリカ国債の大量購入でアメリカ経済を買い支えた[88]、北京オリンピックの経済効果も相まって世界のGDP増加の過半数が中国に関連し、景気刺激策によってオーストラリアやブラジルなど多くの貿易国が利益を得た[89]。しかし、景気刺激策によって中国でもシャドー・バンキング・システムが拡大することにもなり、2010年代に大きな問題となる[90]。, タイはGDPの70%を輸出や観光業が占めており、金融危機は国内の政権交代に拡大した。サマック・スントラウェート首相の辞任要求デモが行われて政権は2008年12月に解散し、次のアピシット・ウェーチャチーワ政権はただちに景気刺激策を行った。一般消費者への刺激策、高齢者への特別手当、公教育への補助、政府系銀行や小企業への融資などが実施された。輸出は2009年第3四半期に前年比で25%減となり、財政赤字はGDPの5.6%まで増加した[91]。, マレーシアは輸出依存度が103%と高かったため実体経済への影響が大きく、2008年から2009年にかけて製造業は17.6%減、特に電子機器関連の工場は前年比44%減となった。アブドラ・バダウィ政権の景気刺激策は2009年にGDPの9%にあたり、バダウィ政権が解散したのちにナジブ・ラザクが刺激策は自らの実績だったと主張し、ラザク政権が成立した[92]。, インドネシアでは輸出依存度が20%と小さく、金融危機への景気刺激策は減税を中心としていた。減税額は公的支出の10%、GDPの1.4%にあたり、対象は9700万人の労働者と4800万の企業のうちで納税登録された1000万人と20万の企業となった[91]。, 韓国はアジア圏において比較的損失が大きく、貿易急減、通貨切り下げ、流動性の減少が重なった。韓国の銀行は海外からUSドルを調達したのちにウォンに転換し、国内の株や債券に投資するという方法をとっていた。そのために金融危機で海外資産が目減りし、海外からの借入も停止した。ドル不足とウォン急落が起き、アジア通貨危機の際と類似の状況となった。2007年第2四半期の187.46億ドルから2008年第1四半期の17.37億ドルまで減少した[78]。, 日本は失われた10年とも呼ばれた経済低迷やデフレーションの只中にあったが、金融危機が金融機関に与えた影響はアメリカやヨーロッパと比べて少なかった。日本の銀行ではサブプライムローンの証券化商品の保有が少なく、310億ドルの損失にとどまった[注釈 33]。比較的損失が少なかったため、野村ホールディングスは、破綻したリーマン・ブラザーズの2/3(韓国を除くアジア・欧州・中東部門)を買収した。三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)はモルガン・スタンレーの株20%を取得するために9000億円を出資したが、その後の株価は急落した。この出資は政府による支援の確約が条件で可能となった[94]。, 金融機関への影響と比べると、実体経済への影響は大きかった。中国・韓国・台湾向けの輸出減少によって輸出は50%減となった[注釈 34][95]。株価が急落し、日経平均株価は2008年10月8日と10月10日には歴代上位の下落率となった[96][97]。10月10日の日経先物では、株の売り注文が急増したために取引を強制停止させるサーキットブレーカーが史上2回目の発動をした。実質GDPは2008年第3四半期に3%、第4四半期に4%減少しており、これは同時期のアメリカを超える下落幅で、第一次石油危機も超えていた。企業は2009年問題もあって人員削減を進め、2009年3月末までに19万人の非正規労働者の雇用が失われた[98]。この人員削減が個人消費の落ち込みや内需悪化となり、さらに人員削減を招く悪循環が生じるという指摘もされた[99]。一時期7000円台に下落した日経平均株価は2009年6月に10000円台に上昇し、先進国の中では素早い回復であった。しかし、2009年7月の失業率は戦後最悪の5.7%、完全失業者数は359万人に達した[100]。, 麻生内閣の対策は、財政拡張と金融緩和だった。財政政策では、2008年10月から2010年10月にかけて5回の補正予算が成立し、追加支出は42.7兆円となった。金融政策では、2008年12月にFRBにならって政策金利のコールレートを0.1%に引き下げて実質的にゼロ金利となった。日本銀行は他国の中央銀行と協調で市場に流動性供給を行った。財政拡大によって増えた国債は日本の金融機関が消化した。中小企業の資金調達が困難となったため、金融庁は2008年11月に銀行監督基準を緩和し、中小企業金融円滑化法(2009年12月)へとつながった[101]。, アフリカの経済は、2003年からの資源価格の上昇を受けて成長していた。2008年9月15日には、株式時価総額が比較的大きい7カ国(南アフリカ、モロッコ、エジプト、チュニジア、モーリシャス、ザンビア、ナミビア)の株価はいずれも大きく下落し、南アフリカなどへの資金流入が減少した[注釈 35]。しかし、金融危機の全体的な影響は欧米に比べると軽微だった。貿易の減少は、資源輸出国であるアンゴラ、ナイジェリア、ボツワナなどに影響を与えた[103][104]。, 2008年10月の各国の対応によって、金融危機はいったん収束へと向かう。アメリカでは銀行の資本増強が行われたが、ヨーロッパは共通の対策がドイツによって拒否されたために各国ごとの対策にとどまり、資本増強は不十分に終わった。この違いは、のちに2010年のユーロ危機によって表面化した[106]。全米経済研究所は2010年9月20日に、2007年12月からのアメリカの景気後退は2009年6月に終了していたとコメントした。しかしこれはアメリカ国内の景気循環について述べたものであり、余波について触れていない。世界金融危機によって韓国通貨危機(2008年-)、ドバイ・ショック(2009年11月)、ユーロ危機(2010年-)などが起きて経済にマイナスの影響を残したほか、2014年クリミア危機のように金融危機の余波による政治危機も起きている[107]。, 全世界の失業者は2700万人から4000万人に達したといわれる[38]。他方、政府支援を受けた企業が高待遇を続けたために批判を受ける場合もあった。ウォール街では、投資銀行、資産運用会社、ヘッジファンドなどの幹部が2009年夏に1450億ドルの利益を得ており、2008年の1170億ドルを超えていた[注釈 36][109]。GM、フォード・モーター、クライスラーの各首脳は公的支援を求めてアメリカ議会の公聴会に出席した際、自家用ジェット機を使用したため議員から批判された[110]。政府の資金注入を受けたイギリスのロイヤルバンク・オブ・スコットランド(RBS)は、銀行業界で過去最大のボーナスを支給して批判され、CEOのフレッド・グッドウィン(英語版)が引責辞任した。AIGアメリカン・ゼネラル社幹部は救済決定後にリゾート地で44万ドルの会合を開催し、2009年3月に幹部73人に100万ドル以上のボーナスを支払い、支給直後に11人が退社した。これに対して、ボーナスの90%(地方税の10%相当を加えて事実上は100%)を所得税課税する法案が可決された[注釈 37][112]。アイスランドでは、アイスセーブを提供したランズバンキ銀行などの幹部が起訴されて有罪となった[75]。金融業界の不祥事は就職にも影響を与え、マサチューセッツ工科大学(MIT)の2009年の卒業生で金融業を選ぶ者は2006年から2008年と比較して45%減少した[113]。, 金融危機は、現在の金融システムが債務に依存しているという批判のきっかけにもなった。20世紀後半から世界金融危機までは、高額所得者に占める金融業者の割合が増加を続けた時代であった[注釈 38][114]。さらには、富裕者とそれ以外の所得格差が拡大した時代でもあった[注釈 39][115]。2011年9月17日、ウォール街でデモを起こす呼びかけがFacebookで拡散され、ウォール街を占拠せよと呼ばれる抗議活動の始まりとなった。マンハッタンのズコッティ公園には2000人が集まってソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)で活動の様子が拡散された。10月には全米各地で100以上の占拠活動やデモが起き、世界各地にも影響を与えた。2011年10月15日にはローマで10万人から40万人、スペインで100万人、ポルトガルで数十万人が集まって緊縮財政への反対デモが開催され、他にも世界の900以上の都市で支援デモがあった[注釈 40][12][116]。, 危機の最中に大統領選挙が行われ、2008年11月にはバラク・オバマが当選した。ブッシュ政権時代からオバマと民主党は危機の対策に協力しており、緊急経済安定化法案では民主党の賛成が共和党よりも多かった。オバマ政権のもとで民主党が上院と下院を支配下に置き、経済政策の人事は市場に歓迎された[注釈 41]。しかし景気は回復に向かったものの、危機の対策では住宅ローンの債務者よりも金融機関が優先されたため、オバマ政権への不満が高まり2010年の中間選挙で民主党は大敗する[118]。他方、共和党はブッシュ政権時代の緊急経済安定化法案で多数の反対者を出すなど分裂を起こした。2012年の大統領選がオバマの勝利に終わると共和党内の分裂はさらに進み、2016年のドナルド・トランプ政権への遠因となる[119]。, 危機によってアメリカの格差は拡大した。年間経済生産14兆ドルに対して、2008年の住宅価格は5.5兆ドルの下落と巨額に達した。サブプライムローンの証券化は、価格の暴落分を債務者の純資産に吸収させる構造だったため、高所得者がより有利になり、低所得層がより不利になった[注釈 42][120]。2007年から2009年の間に住宅を差し押さえられた世帯はアメリカだけで400万世帯に及び、2007年3月から2009年3月の間に民間部門で600万人が失業した[121]。住宅所有で破綻が多かったのはヒスパニック系の人々でもあり、社会集団の分離にもつながった。平均資産は2007年から2010年の間に56万ドルから46万ドルに減ったが、富裕層をのぞくとより深刻であり、中央値の世帯は10万ドルから5万7800ドルと半減した。住宅ブームの最多の参加者だったヒスパニック系は、86%減と最も厳しい状況になっている[122]。, 危機を反省した規制として2010年にドッド=フランク・ウォール街改革・消費者保護法が制定され、FRBがシャドー・バンキング・システムを監督規制することとなった[123]。破産法の専門家であるエリザベス・ウォーレンはアメリカ合衆国消費者金融保護局(英語版)(CFPB)の設立を提唱し、オバマ政権はCFPB設立とウォーレンの長官任命を検討した。しかし共和党を中心とする反対を受け、2011年にCFPBは設立されたが初代長官はリチャード・コードレイが就任した[124]。金融調査局(英語版)(OFR)が2013年にレポートを提出し、資産運用会社や運用ファンドも金融システム安定化の脅威になりうると結論した。そこでこれらもシステム上重要な金融会社(英語版)(SIFI)への指定が検討されたが、資産運用会社のフィデリティ・インベストメンツやブラックロックが反発し、証券取引委員会(SEC)も警戒感を示した。そしてドッド・フランク法が改正されるまでファンドマネージャーレベルでの規制はなされず、商品や業務のリスクに注目した監視だけが行われた[123]。, ヨーロッパ諸国では若者層を中心とする高い失業率や、国家の財政危機が深刻化した。緊縮財政は経済的困窮や健康の悪化を招いて国内の不満を高めた。危機への対応としてEUレベルで銀行の資本増強が求められたが、国際金融協会(英語版)(IIF)を中心とする業界が銀行への規制であるという論点から反対し、実現しなかった。そのため、のちにユーロ危機の発端になった公債市場の暴落に銀行は対応できなかった[125]。東欧諸国やバルト三国は危機が起きる前からユーロ圏加盟を進めていたが、延期や後退が起きた。エストニアは2011年、ラトビアは2014年、リトアニアは2015年にユーロ圏に加盟した[126]。, ヨーロッパ系銀行は世界金融危機の損失に加えて、いくつもの問題を抱えた。(1) 欧州の国債の不良債権化、(2) ユーロ圏の問題による新規事業の停滞、(3) バーゼルIIIによる規制、(4) アメリカやアジアの銀行との競争、(5) 資金調達の困難、などがある[127]。, アイスランドは社会保障維持、IMFの緊縮財政案の拒否、所得格差是正、金融機関の起訴などによって回復に向かった。2012年にGDP成長率が3%となり、格付けでも危機対応が評価されて上昇し、所得格差は他の北欧諸国と同レベルになった[75]。さらに、国家危機の再発を防ぐためにインターネットの国民投票をもとに憲法を改正した。2012年に改正された新憲法には、政治家と銀行の癒着の防止が含まれている[128]。, 金融危機後に財政悪化が注目された国々は、支払い不能に近いギリシャとポルトガル、不動産バブルが崩壊したアイルランドとスペイン、巨額の政府債務があるイタリアだった。特にギリシャとアイルランドが債務の再編を必要としていたが、両国の国債は暴落し、緊密な金融システムをもつヨーロッパ全体に波及してユーロ危機が起きた[129]。, イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニ政権は、EUとIMFが支援と引き換えに求める年金制度改革を2011年に拒否した。このためにイタリアはIMFの支援を得られないまま監視下に置かれるという状況になり、市民は退陣要求デモを行い、連立与党の北部同盟も首相の辞任を求めた。ベルルスコーニは辞任し、経済学者のマリオ・モンティが首相に就任した[注釈 43][131]。, スペインでは2011年11月にサパテロ政権に代わってマリアーノ・ラホイ政権が誕生したが、2012年にはバンキアが破綻して国有化され、国債の高騰・財政赤字の膨張が起き、若者層の失業が55%に達した。2015年にはスペインの二大政党制は崩壊した[132]。ポルトガルは緊縮財政によってスペインよりも景気後退が深刻であり、失業率が40%・若者層では60%まで上昇した。2011年に成立したペドロ・パッソス・コエーリョ政権はユーロ圏の維持を主張したが、2015年の選挙ではアントニオ・コスタ率いる連立左派政権が成立した[133]。, イギリスは金融危機の損失がヨーロッパ最大であり、13年間におよぶ労働党政権が終わったが、保守党も単独政権は不可能で自由民主党との連立政権となった。デーヴィッド・キャメロン政権は緊縮財政を続け、2016年までに公共部門で100万人以上の雇用を削減し、地方自治体の支出を30%以上削減した。経済協力開発機構(OECD)によれば、ギリシャ・アイルランド・スペインを除けばイギリスが最も経済収縮を起こした国だった[134]。, 2011年12月のEU首脳会議では、EUの統合を進める財政協定が検討され、イギリスと他の加盟国のあいだで対立が起きた。キャメロン政権は、イギリスの独立性の保持をEUに求め、財政協定で譲歩が得られないならEU離脱を国民投票に問うと主張した。しかしEU側は譲歩せず、キャメロン政権はEU離脱是非を問う国民投票の実施を決定した[注釈 44]。キャメロン自身はEU残留支持派だったが、2016年6月23日の国民投票は離脱支持51.9%、残留支持48.11%となり、イギリスの欧州連合離脱(Brexit)が決定した[136]。スコットランドには残留支持の投票が多かったため、Brexitはスコットランド独立運動に影響を与えた。スコットランド自治政府のニコラ・スタージョン政権は、イギリスからの独立を問う住民投票の実施と、EUへの加盟を目指している[137]。, ウクライナは2008年のIMF支援がもたらした緊縮政策で国内の不満が高まり、2010年にヤヌコーヴィチ政権が成立する。EUとロシアはウクライナへの支援を申し出る代わりに、それぞれ条件を出した。EUの条件はEU連合協定であり、ロシアの条件はユーラシア関税同盟への参加だった。ウクライナ世論はEU派とロシア派で二分され、2013年に数十万人の市民が反ヤヌコーヴィチ政権のデモを行った(2014年ウクライナ騒乱)。ヤヌコーヴィチはロシアへ亡命し、2014年にクリミア危機・ウクライナ東部紛争が起きた。ウクライナは資本規制をしなかったため外貨準備高が急減し、2015年2月にウクライナ国立銀行は公式為替レートの発表を停止し、IMFは支援の再開とともに債務再編を認めた[138]。, ロシアの外貨準備高は2014年には5100億ドルに達して危機から回復していたが、ウクライナとの紛争が始まると為替市場が11%以上急落した。さらにマレーシア航空17便撃墜事件が原因となった西側の経済制裁、FRBのQE3終了、原油価格の下落なども重なって財政難に陥った。2014年から2015年にGDPは10%以上減少し、ロシアの市民にとっては2008年から2009年の危機を超える厳しさだった。ロシアの苦境は周辺のNIS諸国にも影響し、ベラルーシ、カザフスタン、アゼルバイジャンの通貨が50%の暴落、モルドバ、キルギス、タジキスタンの通貨は30%から35%下落した[139]。, 中国は金融危機の対応で世界経済の回復を牽引して高く評価され、国際的な影響力を高めた[注釈 45][141]。習近平政権においても経済成長は続いたが、危機対策による巨額の債務が残った。2009年の段階で政府赤字、債券発行、銀行への貸付を合計すると6兆4870億元であり、GDPの19%を超える額となった[注釈 46][143][144][145]。シャドウ・バンキング・システムは中国でも拡大しており、理財商品と呼ばれる高金利の金融商品が中心になっている。地方政府が資金調達に用いる地方融資平台(融資プラットフォーム)でも理財商品が扱われ、金融危機の対策だった4兆元の景気刺激策によって急増した。2013年の地方政府の債務は17兆元、2017年の金融機関以外の民間債務はGDPの165%まで増加している。理財商品は10年代から次第に不良債権化しており、政府は対策を進めている[146]。, 2014年には中国の外貨準備高は4兆ドルまで増加し、中国企業の対外債務1兆ドルのうち8000億ドルが欧米大手金融機関への債務になっていた。しかし中国経済の減速と、原油価格の急落、さらに汚職撲滅運動で富裕層が資産を国外に流出させたことが重なり、人民元が下落を始める。2015年6月12日には上海総合株価指数が30%下落して中国株の暴落となった。企業と投資ファンドの人民元投入で一時的に安定したものの、8月の人民元切り下げで下落が続いた。2016年には株価指数は半減し、外貨準備高は3兆ドルまで落ちた。一時は中国発のグローバルなデフレも警戒されたが、中国政府は新たなペッグの設定・資本移動規制強化・信用拡張・景気刺激策・過剰生産能力の削減などを打ち出して鎮静化にあたった[147]。, 金融危機の対策を主張して成立したマレーシアのナジブ・ラザク政権は、国際金融地区の建設のために1マレーシア・デベロップメント・ブルハド(1MDB)という投資会社を設立する。しかし不正の発覚によって、2018年には野党から出馬したマハティール・ビン・モハマド政権が成立し、マレーシア初の政権交代が起きた。ラザクは10億ドル規模の汚職で有罪となった[92]。, 日本銀行は、金融危機後の景気後退への対策として2010年10月から包括的金融緩和を行い、国債の他に上場投資信託(ETF)や不動産投資信託(REIT)などのリスク資産の買い入れを始めた[注釈 47]。東日本大震災の被害も大きく、経済のみならず社会に深刻なダメージを受けた。日銀は物価上昇率2%を目標としたが、円高やデフレは解消されず国内外で批判が高まり、白川方明日銀総裁は任期満了前の2013年に退任した[149]。, 第2次安倍内閣はアベノミクスと呼ばれる一連の経済政策を掲げ、日銀は黒田東彦総裁のもとで緩和政策を続けた。しかしデフレは続き、失われた20年とも呼ばれるようになった。2013年から2016年の実質GDP成長率は2010年から2012年よりも低下し、実質賃金は下落した。2013年前後から雇用環境は改善したものの、平均給与はリーマン・ショックの下落を回復した程度にとどまっている。OECDによる2015年時点の調査では、日本の相対的貧困率は加盟国33カ国中で9位となった。2016年にはエンゲル係数が約30年前の水準まで上昇し、実質消費は改善されず、安倍内閣による2014年4月の消費税増税が景気回復を後退させたという見方がある[150][151][152]。2017年には、日銀がETF市場全体の純資産総額の70%にあたる15兆9300億円を保有し、日本株の第1位の株主が日銀、第3位が年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)となった。結果的に中央銀行が大企業を優遇する状況になり、株式市場の価格形成の歪み、コーポレートガバナンスへの悪影響、将来の量的緩和縮小による株価下落のリスクなどが懸念されている[注釈 48][154][155][156]。, 世界金融危機は、IMFをはじめとする国際機関の方針や経済学者の思想に変更をもたらした。20世紀後半以降の金融危機であるメキシコ通貨危機(英語版)(1994年)、アジア通貨危機(1997年)、ロシア金融危機(1998年)、ブラジル通貨危機(英語版)(1999年)、アルゼンチン金融危機(英語版)(2001年)などが起きた際には、国内に問題があるといわれていた。危機が起きた国々では、金融危機を防ぐための金融規制や財政規律などが不完全であり、国内改革が必要だとされていた。しかし、世界金融危機によってグローバル金融システムそのものの監督や規制が課題となった[157]。, IMFは支援の条件として各国に緊縮財政を求めた。しかし緊縮財政によって、ヨーロッパのユーロ危機をはじめとして問題が頻発した[158]。IMFの内部監察を行う独立評価機関(IEO)は、2014年11月4日の報告書で、IMFが金融危機後に主要先進国に緊縮策・予算削減を求めたことは誤りだったとの判断を示した[159]。, IMFは2012年に資本規制と、国境を越える資金フローへの制限を認めた。世界金融危機が起きるまでは、金融危機は国内問題だと解釈されていた。IMFや欧米の経済学者は、危機の起きた国が資本の活用や危機を防ぐ金融機関の健全性規制・財政規律・金融統制などを行わなかったのが理由だと分析した。しかし世界金融危機は先進国と呼ばれる国々から発生しており、グローバル金融市場の監督や規制に問題があるとされるようになった。IMFが資本規制を認める条件には、マクロ経済政策やプルーデンス政策が資金流入に対応できない場合や、景気の加熱などがある[160]。, 国際会計基準審議会(IASB)は、2008年に会計基準を変更した際に適正手続を取らなかったために批判を受け、IASBが推進してきた公正価値会計も批判された[注釈 49]。IASBは公正価値会計の全面適用から方針を変更し、調整機関としての活動を増やすこととなった[9]。, 危機によって会計監査報告の信頼性や監査人の役割に疑問がもたれ、欧州委員会(EC)や国際監査・保証基準委員会(英語版)(IAASB)は規制を強化した。IAASBは2011年に監査報告を改革して、2015年に国際監査基準(ISA)を公表した。EUでは監査委員会と監査人の協力で改革を検討し、監査報告書の透明化を進めた。2014年には法定監査指令にEUの統一監査報告書が導入され、加盟国に適用された。IAASBとEUの改革にドイツやフランスも適合し、イギリスやオランダはIAASBよりも早く新監査基準を成立させたのちに適合を果たした。アメリカでは2017年に新監査基準がSECに承認された[10]。, 金融危機の原因については議論が続いている。(1) 金融の自由化・市場の自己調節機能・政府の規制の不可能性をはじめとする思想が経済学者や専門家に影響を与えたというする説、(2) 住宅市場を支えようとする政府の介入が過度だったという説、(3) 銀行の利益団体とコミュニティ・グループの協力によって起きたとする説、などがある[163]。バブル経済の研究で知られる経済学者のチャールズ・キンドルバーガーは、晩年は不動産市場に注目していた。2002年のウォールストリートジャーナルのインタビューで、銀行がそろって住宅担保ローンを売ろうとしており、危険な兆候だと語っていた[164]。, 近年の研究によって有力とされる説が、債務者の消費減少にある。特に家計債務の大幅な増加が景気後退につながるとする説である。債務者の家計支出の減少は、家計債務の上昇と相関関係がある[165]。, 国民所得・生産勘定(英語版)(NIPA)のデータによれば、GDP成長率を引き下げた最大の理由は、住宅投資の減少である。銀行危機が起きる前から家計の消費は減っており、景気後退の3四半期においても同様だった。純資産が減った人間は支出を控えることが明らかにされており、(1) 家計債務の上昇、(2) 家計の消費の減少、(3) 景気後退による企業投資の減少や大量解雇につながったとされる[注釈 50]。1997年から2007年にかけて家計債務が急増した地域と、2008年から2009年に家計支出が急落した地域は一致する[注釈 51]。戦後の5大銀行危機の全てで、不動産価格の高騰と経常収支の赤字が起きている。そして、金融危機発生前には民間債務が急増したことも明らかになっている[注釈 52][169]。, 銀行部門が景気後退の原因であり、リーマン・ブラザーズを救済しなかったのは間違いであるという説も存在するが、NIPAのデータとは矛盾する[170]。金融危機の当初は、経済学者や政策立案者は銀行を景気後退の原因として救済した。その後の研究によれば、家計債務(特に住宅ローン債務)の減免の方が金融危機の回避に役立ったというデータが集まっている[注釈 53]。のちに、国家経済会議委員、住宅都市開発長官、経済顧問などオバマ政権の当局者やIMFも、住宅ローン減額を選択しなかったのは誤りと認めた[172]。, 所得格差の拡大を金融危機の一因とする説もある。特にアメリカでは、金融危機前の1977年から2007年にかけての国民経済の成長は、最も裕福な層が75%を得ていた。この期間の経済成長は低かったため、実質的に低所得者層や中間所得者層の賃金の停滞につながった。中間所得者層や低所得者層の購買力が低下するために借金が増え、金融機関が融資を拡大する余地が増えた[173]。, アメリカの銀行によるロビー活動を一因とする研究がある。カントリーワイド・フィナンシャル(英語版)とアメリクエスト(英語版)は、2002年から2006年にかけて3000万ドルを献金とロビー活動に使い、サブプライムローンを規制する可能性がある法案の成立を妨害したとされる。この2社は貧困層に融資をしていた最大手であり、違法ではないが公共の利益を損なう活動として批判された[174]。, 2001年FRBの政策金利は誘導目標を年初の6.5%から12月の1.75%まで引き下げを行った, 既にFRBは年初から7回利下げを実施していたが、事件後の9月17日に緊急利下げをおこない、12月までにさらに4回の利下げを実施した, この低金利政策は当初は正当視されていたものの、その後、不動産、住宅、債券などの資産バブルが明らかになると、ITバブル崩壊後の低金利政策が資産バブルの温床となったとして批判された, 短期資金を調達し、長期の資産に運用するという満期変換は、銀行の場合ロールオーバー・リスクや取り付けの危険をはらんでいる。シャドーバンクも同様であるが、市場性資金を運用するので、銀行よりも高いリスクを抱え、実際に取り付けが起きた, 満期変換の回数については、投資銀行や証券会社が行うレポ借入のそれが194回という世界記録を残し、MMFも41回というリスキーな数値であった, 2006年には、新しい住宅ローンの70パーセントがサブプライムや非従来型ローンで占められ、発行額は2001年の1000億ドルから2005年の1兆ドルまで増加した, 最初の3年は低利固定型の返済で、残金は4年目以降に変額型金利ローンとなる契約のものが中心だった。住宅価格が上昇する間は短期で住宅を転売することで有利に住宅を購入でき、あるいは転売益が期待できるというものであった。また値上がりによる担保価値の上昇分を担保にさらにクレジットローンを提供するサービスなども登場した, ある格付け専門家の2006年のメールには、「砂上の楼閣が崩壊するまでに、私たち皆が金持ちになり、引退していますように」と書かれていた, リーマンの抱えていた問題は次のようなものであった。(1) MBSやCDOの不良債権化による自己資本の毀損、(2) 90万を超えるCDS契約によるカウンター・パーティ・リスクの増大、(3) CP債務78億ドルとレポ債務1970億ドル(2008年3月末)。, 他方、AIGは高格付けCDOのデフォルト率を低く見積もっていたので、CDSのネットでの売りポジションをヘッジしていなかった。AIGの売ったCDSは多くの投資銀行に保有されていたので、リーマンと異なり公的資金が投入された, リーマン保有のCDSは、リーマンの清算価格が8.625%に決まったので、CDSの売り手に91.375%を保証させた, 危機の最中に公開すれば、流動性支援が必要な銀行が明らかになるため、FRBは法的手段も使って秘密を守ろうとした, 欧州の金融機関の危機やカリフォルニア州の州財政の危機などが市場で蒸し返されたとされる。, 銀行は公的資金注入を受け入れる代わりに、企業当座預金と2009年夏までの新規債券に対して、同年の満期となる債券の125%を上限にFDICの保証を得た。配分はニューヨーク連銀の, 住宅価格は50%減、公務員解雇で教師の30%減、公務員給与の35%削減などが行われ、失業率は20%となった, 10大産業支援策として、自動車・鉄鋼・紡績・設備機械・船舶・石油化学・軽工業・有職金属・電子情報・物流に支援が行われた, 保有が少なかった原因としては、(1) 円高期待によって、金融機関がUSドル建て金融商品を購入しなかった。(2) 金融当局の金融監督体制が改良されていた。(3) 証券化商品の資金調達がアメリカとは異なっていた。(4) 2000年代に住宅バブルがなかった。(5) 流動性供給の状況がアメリカとは異なっていた、などがある, 当時この中で、ヨーロッパ依存の大きい国はモロッコ、チュニジア、モーリシャスであり、アメリカ依存の大きい国は南アフリカ、エジプト、ナミビアだった, ゴールドマン・サックスは報酬とボーナスに162億ドル、シティグループは50億ドルのボーナスを支払った, アメリカでは1979年から2005年の間に最上位所得層に占める金融業者の数が2倍になった。イギリスでは1998年から2007年にかけて最上位所得層の金額の60%が金融業者のものだった, アメリカでは1992年には純資産分布の上位10%が富の66%を所有し、2007年には71%に上昇した, ロンドン、パリ、ソウル、マニラ、ベルリン、ムンバイ、アムステルダム、香港でキャンプ村が設置された, 損失の比率は、上位20%の富裕層の債務比率が7%であり、下位80%の層が債務比率の大半を占めた, ベルルスコーニは過去に数々の起訴歴があり、2011年2月にもスキャンダルを起こしていた。ボッコーニ・ボーイズ(Bocconi boys)と呼ばれるエコノミストやトレモンティ財務相は、金融危機におけるベルルスコーニの対応を懸念していた, キャメロン政権が2016年に国民投票を決定した理由として、(1) 大都市の保守党支持を確保する、(2) イギリスの影響力でEUの方針を変更させる、(3) EUとの交渉にはユーロ圏が安定する2013年から2016年が望ましい、などがあった, 中国の対応に関しては批判も起きた。アメリカのヘンリー・ポールソン財務長官や後任のティモシー・ガイトナーは2009年1月に、中国や産油国をはじめとする新興国の過剰な貯蓄が金利低下をもたらしてリスクを拡大させた、中国が為替操作をしている、などと述べた, EFTの残高上限は当初4500億円だったが、2011年に9000億円、2014年に3兆円、2016年に6兆円へと増額された, 住宅資産からの限界消費性向についての研究にもとづいている。当時の住宅価値が5.5兆ドル減少したことから計算すると、少なくとも2750億ドルから3850億ドルの消費が失われた, ルーベン・グリック(Reuven Glick)とケビン・ランシング(Kevin J. Lansing)の研究による。グリックとランシングはOECD加盟の16カ国を調査しており、さらにIMFが36カ国に拡げて調査した, 債務減免政策も提案されていたが、実施されなかった。主なものとして、(1) 住宅ローンの見直し制度。2008年10月にジョン・ジーナコロプスとスーザン・コニャックが提案。(2) 住宅ローンの変更手続き(クラムダウン)。(3) 元本の減額。2007年10月にドリス・ダンギーとビル・マックブライドが提案, Figures from the April 2018 update of the International Monetary Fund's, http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/080919/fnc0809190001000-n1.htm, 'Liquidity' in Light of the Shadow Banking System: Lessons from the Two Crises, Dow Jones Industrial Average Historical Price, BNP Paribas Freezes Funds as Loan Losses Roil Markets, https://web.archive.org/web/20081003003842/http://www.nikkei.co.jp/news/main/20080930AT2M3000E30092008.html, http://www.asahi.com/special/08017/TKY200906010065.html, https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM14037_U2A111C1000000/, http://www.sankei.com/world/news/160227/wor1602270046-n1.html, https://www.nikkei.com/article/DGXMZO2854865024032018EA2000/, http://japanese.cri.cn/20180625/f5cf45dd-71b6-b897-efc7-b4b611e35070.html, https://web.archive.org/web/20090403014435/http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090331AT3L3006D30032009.html, “経済悪化をくいとめ、雇用、社会保障、農業、中小企業を応援し、内需をあたためる予算に”, http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-02-17/2009021705_01_0.html, https://web.archive.org/web/20090903024157/http://mainichi.jp/select/biz/subprime/news/20090828k0000e020003000c.html?inb=yt, https://www.nikkei.com/article/DGXNASGN2000B_Q0A920C1000000/, https://web.archive.org/web/20081209104030/http://sankei.jp.msn.com/economy/business/081120/biz0811201440005-n1.htm, https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1004T_R11C13A2TY8000/, https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35368400U8A910C1TCR000/, http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPL3N0RV1MC20140930, https://web.archive.org/web/20141105174030/http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NEJRPR6K50Y101.html, 各国の監査報告制度の改革の動向 ─監査上の主要な検討事項(KAM)の基準化の分析─, アメリカの住宅金融をめぐる新たな視点 : 証券化の進展の中でのサブプライム層に対する略奪的貸付, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=世界金融危機_(2007年-2010年)&oldid=79943573.

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