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2012 1978-1979 ホーム . ビジターライオンズ戦着用でレオvsアトム対決. 球団名が埼玉西武ライオンズとなったのは2008年。所沢だけでなく埼玉県全域をホームとする球団の姿勢は次第に強まり、2013年にはSaitamaのロゴが入ったサードユニフォームが生まれる。千葉ロッテマリーンズとのライバルシリーズ(埼玉・千葉シリーズ)を中心として大いに活用された結果、2015年からビジターユニフォームとして使われることになる。(※画像はビジターユニフォームの項を参照), しばらく空位だったサードユニフォームだが、2019年に新たに登場する。ネイビーの地で左袖だけが水色の左右非対称。胸のロゴはSeibu、その上に小さくSaitamaと入っている。どことなく大人びた雰囲気のデザインでありながら、歴代のライオンズを象徴する黒(西鉄)、青(西武)、レジェンドブルー(埼玉西武)の3色を襟と袖口のラインに入れた野心作でもある。, 強豪と呼ばれる球団のユニフォームはいつもシンプルで誇りをたたえている。ライオンズはサードユニフォームにおいてもその伝統を守りながら、「山賊打線」と呼ばれる野蛮な攻撃力を秘めて牙を研いでいるようにも感じられる。, ライオンズのイベントユニフォームはいずれも球団・親会社のカラーを守りながら、個性的に発展している。, 2007年のサマーユニフォームは前が青、後ろが白という変則的なカラーリング。背番号の下から伸びる赤いラインが特徴で、獅子の牙を表現している。, 2008年の交流戦ユニフォームは青を基調として両肩に大きな白い星がついている、通称「テリーマンユニフォーム」。東北楽天ゴールデンイーグルスのTOHOKU GREENなどをデザインした大岩Larry正志氏が携わっている。余談ながら、この年の末にM-1グランプリにてお笑いコンビ・オードリーがブレイク。マンガ「キン肉マン」への愛が深いふたりで、所沢市出身の春日俊彰は応援大使としてのちにイベントの盛り上げ役として球場に駆けつけることになる。偶然ではあるが、縁があったのかもしれない。, 西武鉄道創立100周年となる2012年には、車両のカラーリングを模した緑・青・白のユニフォームが公募作品から選ばれた。メットライフドームへ向かう途中に西武鉄道の車体を見て、このユニフォームを思い出すことがよくある。, 2014年に登場したのは、マスコットのレオ・ライナを通じてなじみの深いマンガ家、手塚治虫の作品「ジャングル大帝」のユニフォーム。濃い青のアニマル柄に猛々しいロゴと背番号のフォントが印象的。炭谷銀仁朗の応援歌にもあった「ジャングルを追い詰めろ」とはいったい何だったのか、謎は解明されないままだ。, 続く2015年には再び西武鉄道の車両のカラーを起用。しかしこのイエローユニフォームは着用した試合で1勝もできず、ゲンの悪さから早々に封印の憂き目に遭ってしまう。この後、特別なイベントは2016年からライオンズフェスティバルズに集約されることになる。, 2019年にはこども支援「SAVE THE HOPE」の運動へ賛同し、その意思を表明するためオレンジユニフォームを着用。球団の歴史をさかのぼると、西鉄ライオンズ時代の1968年以来、実に50年以上の時を経てオレンジ色がユニフォームに採用されることとなった。, 2020年、チームの愛称がライオンズとなって70周年となるシーズンに記念となるユニフォームが登場。襟にはライオンズブルーとレジェンドブルーのライン。袖口のラインはさらに凝っており、右袖は太平洋クラブ、左袖はクラウンライター時代の異なる赤が加えられている。左袖に入るレオのマークには西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター・西武・埼玉西武の「5つのライオンズ」を意味する5色のラインが飾られている。胸のロゴと背番号は所沢移転時のユニフォームのフォント。 背番号はライオンズブルーからレジェンドブルーへのグラデーション。コンセプトとしては昨年のベイスターズの70周年記念ユニフォームに近いものがある。これだけぎっしりと要素を盛り込んでいながら、デザインの邪魔になっていないのがすばらしい。, 夏休み期間のライオンズの大型イベントは、2016年からライオンズフェスティバルズと冠されるようになった。この時期の西武鉄道は沿線住民の集客のため特別に力が入り、駅構内から車内にいたるまでイベントの広告一色に染まる。, まず2016年に着用したのは、狭山丘陵の緑が湖面に映りきらめく風景を連想させる、通称「エメラルドユニフォーム」。2017年は赤く燃える炎をデザインした、通称「炎獅子(えんじし)ユニフォーム」。2018年は青空に舞う夏風のイメージの、通称「獅子風流(ししぶる)ユニフォーム」。この3年間のカラーは、球団の応援歌でもある松崎しげるの“地平を駈ける獅子を見た”の歌詞になぞらえたものでもある。おそらく偶然などではなく、しっかり準備してきたのであろう。球団のプロデュース能力は讃えるべきだ。, 令和元年となる2019年は新時代の王者をつかむコンセプトの、通称「令王(レオ)ユニフォーム」。鱗のような模様は獅子のたてがみ、そしてライオンのLの字を表現している。なんといってもこのユニフォームといえば、サヨナラ弾となる400号ホームランを放った中村剛也が強烈なインパクトを残している。, このイベント開催中の期間はシーズンのターニングポイントとなる試合が多くなる。球場の楽しさ、野球のおもしろさをファンに伝える役割の一端も、このユニフォームたちが担っているのかもしれない。, 雑誌・プロ野球ai「PhotoStadium」掲載中。野球大喜利ーガーにしてレプリカユニフォーム蒐集家。好物は遠征とビール。. 2009 国鉄時代1951燕ロゴマークユニフォーム. という訳で今回は我が西武ライオンズの歴代ピッチャーを回顧させて頂きましたが、やはりどうしてもフォーカスが西武黄金時代(1986年~94年)に集中してしまいますね! Let's Go ○○」と続けていた。ただし中村剛也の打席のときは、中村が本塁打を打った後は「おかわりおかわりもう一杯」になる。, 2004年までは関東での試合、関西での試合、九州での試合でそれぞれ応援歌が異なっている選手が居た。その後、2005年から2006年にかけて発表された新曲に全員統一されたとの発表があったが、その後も福岡及び関西では異なる応援歌を打者一巡目や統一応援歌との交互応援など、地方では独自の応援がなされている。福岡及び関西での応援歌は基本的に、黄金期の選手の応援歌を一部歌詞変更の上で流用、または、1990年代から2000年代にかけて作曲された地方専用応援歌を使用している。, 1990年と2005年にほとんどの選手の応援歌の変更がなされている(1990年の変更は関東地区のみで九州では従前の応援歌のまま)。しかし、チャンスの打席になると、その選手の変更前の応援歌や以前同じ背番号をつけていた選手の応援歌などが演奏されることもある。西武ドームで細川亨がチャンスで打席に立ったとき、伊東勤元監督の選手時代の応援歌が演奏されたこともあった。チャンステーマとしては背番号7の選手(2008年から2013年までは片岡易之、2014年から2015年までは脇谷亮太)及び中島裕之の打席で石毛宏典の応援歌、外国人選手の打席でアレックス・カブレラの応援歌やホセ・フェルナンデスの応援歌が使用されている。2005年に選手の応援歌の一斉変更がなされる前は新しい応援歌がほとんどといっていいほど作られず、過去の選手の流用ばかりであった。投手の応援歌だったものを野手用に使う例も見られた(小関竜也や佐藤友亮など)。実際に2005年の応援歌変更の対象とならなかったアレックス・カブレラの応援歌はマイク・パグリアルーロ以降、ダリン・ジャクソン、ドミンゴ・マルティネスなど歴代の外国人選手に使用されていた曲(歌詞も名前部分以外そのまま)、和田一浩の応援歌は仲田秀司の曲の流用(歌詞は異なる)である。, 7回の攻撃前には応援歌の「吠えろライオンズ」が演奏される。従前の応援歌であった「若き獅子たち」も相手投手交代の際などに使用される。ライオンズクラシック2010の期間中は太平洋クラブライオンズ時代の応援歌であった「僕らの憧れライオンズ」が演奏される。ライオンズクラシック2011の期間中は西鉄ライオンズ時代の応援歌であった「西鉄ライオンズの歌」が演奏される。, 7回攻撃前(ラッキー7)と勝利時にジェット風船を飛ばす。かつてはラッキー7では青色、勝利時は白色と色を変えていたが、現在は青で統一されている。また、ライオンズクラシック2010の期間中はユニフォームの赤色に合わせて赤色の風船を飛ばす。, 汎用の代打テーマは一応存在するが、専用の応援歌が無い野手は新人選手など数人しかいないうえ、近年は専用の応援歌のない選手が1軍の試合で活躍するとシーズン中でもすぐに専用応援歌が作成される傾向にあるため、滅多に演奏されない。2005年の変更の際には代打テーマも新規作成されたが翌2006年入団の炭谷銀仁朗以外に使われることがなく、2006年交流戦頃にそのまま炭谷の応援歌となった。それ以降2009年までは暫定的に一斉変更前の代打テーマを使用していたが、2010年から新しい代打テーマが作成された。しかし、選手名が5文字以上の選手など、選手によっては新しい代打テーマを歌いづらい選手もいるため、それらの選手に対しては一斉変更前の代打テーマが使用されている。, 1969年から1971年にかけて起きた八百長事件で、主力だった池永正明などが関与して池永は永久追放処分を受けた(後に解除)。詳細については上記を参照とのこと。, 2007年3月9日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が会見を行ない、倫理行動宣言で行わないことを決めていたアマチュア2選手(東京ガスの投手木村優太[125][注 39] と早稲田大学の清水勝仁[126])に対するスカウト行動で、現金1300万円近くを2人に対して渡していたことがわかった。さらに、2004年春ごろから2005年秋ごろにかけて、スカウトが2人の選手に対し一定額の現金を提供していたこともわかった。社内調査委員会によるその後の調査で、別の5人のアマチュア選手に「契約金の前渡し」名目で計6000万円余り(つまり裏金を受け取っていたのは全部で7人)、さらにはアマチュアチーム(高校・大学・社会人)の監督延べ170人にも選手入団の謝礼として現金が渡されていた事[127]、しかも現金供与はオーナー企業が西武グループとなった1978年から既に行われていたことが判明した。, この裏金行為は太田が2006年8月に前社長から伝え聞いたものの、内部調査を経たため正式発表は2007年3月となった。, 2007年3月24日、チームのシーズン開幕戦(楽天戦)に当たり、太田は試合前のセレモニーに先だって謝罪し、「ファンに親しまれるチーム作りを目指します」とコメントした。, 日本プロフェッショナル野球組織は5月29日、球団に対し制裁金3000万円または同額分の用品を機構の指定する育成団体に寄付させること、および秋の高校生ドラフトでの指名は3巡目からとすることを処分として決定した。また事件発覚当時に楽天でスカウト部長を務めていた事件当時のスカウト部長が、楽天から減給、解任・編成部付となる処分を受けた。, スカウトによる不正の教訓から、ファンに親しまれるチーム作りを目指す姿勢と責任ある行動を誓って8月26日に「西武ライオンズ憲章」を制定した。, 本拠地であるメットライフドーム以外に、埼玉県および西武鉄道沿線にオフィシャルグッズショップ「ライオンズストア」を展開している。グッズ販売のほか、ファンクラブ入会やチケット購入、各種優待チケット引換が可能。ただし、フラッグスは西武ドームに隣接して所在するため、チケット販売・引換は行っていない。, このうち、ともに移転前の本川越と所沢は「西武観光」の跡地であるが、西武観光でもライオンズ戦のチケットを扱っていた。, 球団公式ファングラブがあり、ハイグレード・レギュラーA・レギュラーB・ジュニアの4コースがある。西武ドーム(現・メットライフドーム)の飲食売店やグッズショップでLポイントを貯めることができる。グッズショップや西武鉄道の主要駅で入会申し込みができる。, 親会社である西武鉄道沿線にアニメ制作会社が多数存在することから、西武鉄道と同様にアニメとのコラボレーションイベントが増えている。, コラボレーションの内容としては、コラボしたアニメの主要キャラクターを担当した声優が来場し、始球式及びに場内アナウンスを行ったり、ライオンズとコラボしたグッズを販売するなど多岐に渡る。コラボしたアニメ作品の多くは埼玉県を舞台にした作品だが、近年は『ダイヤのA』や『ドラゴンボール超』のように埼玉県が舞台ではないアニメ作品とのコラボも実施している。, 2018年4月からは、本拠地・所沢にところざわサクラタウン(アニメや漫画などといったクールジャパンを発信する文化複合施設)を計画している出版大手KADOKAWAとコラボしたフリーマガジンを発行している。, なお、西武ライオンズを題材としたアニメとして、西武移籍当初の田淵幸一をモデルとした『がんばれ!!タブチくん! crew ユニホーム ユニフォームのパンツスポンサーが西武・そごうのプライベートブランド「リミテッド エディション」に決定, 球団初!キャップ広告決定「こんにゃくパーク」を運営するヨコオデイリーフーズとスポンサー契約を締結, ファンと選手がひとつとなり勝利を目指すビクトリーエンブレムとサードユニフォームを発表!|埼玉西武ライオンズ, あの感動と興奮を再び!9/25~27 西武鉄道創立100周年記念ユニフォームを再着用!, 球団初!記念ユニフォームの来場者配布も! 1. 4_紋章_スミ1色(透過):jpeg2種/png2種/eps. - シーズン終盤は「つかみ獲れ!」を「栄光をつかみ獲れ!」に変更。. ライオンズクラブ国際協会の紋章は、世界中で思いやりと奉仕の象徴として認識されています。協会のブランドには、わたしたちのさまざまな取り組みを表わすアイコン、ロゴ、紋章がいくつかあります。 伝説も、栄光も、挫折さえも、その全てが今の埼玉西武ライオンズを創り、成長させ続けています。 先人たちが残した記憶と歓声が伝えるライオンズの歴史を学びながら、新たな歴史を共に刻んでいきましょう。 伝説の西鉄ライオンズ. ライオンズクラブ国際協会330-a 地区キャビネット事務局 〒169-0074 東京都新宿区北新宿1-36-6 ダイナシティ西新宿1階 TEL 03-5330-3330 FAX 03-5330-3370 歴代チーム名: 西鉄クリッパース(1950年) 球界初の県章を配した「Saitama」ユニフォーム!2014シーズンも着用決定!! !「西武鉄道創立100周年記念シリーズ」開催日程決定, 西武鉄道の「黄色い電車」をモチーフにしたユニフォームを着用!西武鉄道100年アニバーサリー企画開催決定, 2016年夏の新シリーズ「ライオンズ フェスティバルズ 2016」開催決定!LIONSの夏は「エメラルド」!, 9/17・18・19エメラルドユニフォームの再着用が決定!スタンドをもう一度“エメラルド”に!, 炎の色の獅子を見よ!「ライオンズ フェスティバルズ 2017」期間限定ユニフォームは真っ赤に燃える“炎獅子【えんじし】”ユニフォームに決定!, 「ライオンズ フェスティバルズ2018」期間限定“獅子風流≪ししぶる≫”ユニフォームを発表!この夏はライオンズが辻風を巻き起こす! 82年  68勝 58敗   4分    1位  日本シリーズ制覇 (中日ドラゴンズ), 83年  86勝 40敗   4分    1位  日本シリーズ制覇 (読売ジャイアンツ), 85年  79勝 45敗   6分    1位  日本シリーズ敗退 (阪神タイガース), 86年  68勝 49敗   13分   1位  日本シリーズ制覇 (広島東洋カープ), 87年  71勝 45敗   14分   1位  日本シリーズ制覇 (読売ジャイアンツ), 88年  73勝 51敗    6分   1位  日本シリーズ制覇 (中日ドラゴンズ), 90年  81勝 45敗    4分   1位  日本シリーズ制覇 (読売ジャイアンツ), 91年  81勝 43敗    6分   1位  日本シリーズ制覇 (広島東洋カープ), 92年  80勝 47敗    3分   1位  日本シリーズ制覇 (ヤクルトスワローズ), 93年  74勝 53敗    3分   1位  日本シリーズ敗退 (ヤクルトスワローズ), 94年  76勝 52敗    2分   1位  日本シリーズ敗退 (読売ジャイアンツ), 97年  76勝 56敗    3分   1位 日本シリーズ敗退 (ヤクルトスワローズ), 98年  70勝 61敗    4分   1位 日本シリーズ敗退 (横浜ベイスターズ), 02年  90勝 49敗   1分    1位   日本シリーズ敗退 (読売ジャイアンツ), 04年  74勝 58敗   1分    1位 ※シーズン2位 プレーオフ制覇 (福岡ダイエーホークス), 05年  67勝  69敗  0分    3位   プレーオフ第1戦敗退 (千葉ロッテマリーンズ), 06年  80勝  54敗  2分    2位   プレーオフ第1戦敗退 (福岡ソフトバンクホークス), 08年  76勝 64敗   4分   1位  日本シリーズ制覇 (読売ジャイアンツ), 10年  78勝 65敗   1分   2位  ファイナルステージ敗退 (千葉ロッテマリーンズ), 11年  68勝 67敗   9分   3位  ファイナルステージ敗退 (福岡ソフトバンクホークス), 12年  72勝 63敗   9分   2位  ファイナルステージ敗退 (福岡ソフトバンクホークス), 13年  74勝 66敗   4分   2位  ファイナルステージ敗退 (千葉ロッテマリーンズ), 17年  79勝 61敗   3分   2位  ファイナルステージ敗退 (東北楽天イーグルス), 18年  88勝 53敗   2分   1位 ファイナルステージ敗退 (福岡ソフトバンクホークス), 19年  80勝 62敗   1分   1位 ファイナルステージ敗退 (福岡ソフトバンクホークス), 埼玉西武ライオンズ         881勝   793敗    49分 (19年終了). ユニフォームのパンツスポンサーが西武・そごうのプライベートブランド「リミテッド エディション」に決定, 球団初!キャップ広告決定「こんにゃくパーク」を運営するヨコオデイリーフーズとスポンサー契約を締結, ファンと選手がひとつとなり勝利を目指すビクトリーエンブレムとサードユニフォームを発表!|埼玉西武ライオンズ, あの感動と興奮を再び!9/25~27 西武鉄道創立100周年記念ユニフォームを再着用!, 球団初!記念ユニフォームの来場者配布も! 6月27日、伊原監督からの申し入れによる正式に監督辞任と、7月1日付での球団本部付アドバイザーへの就任を発表した(田辺の監督代行職はそのままである。)[50]。, 9月22日の対ソフトバンク戦(西武ドーム)に敗れ、7年ぶりにシーズン負け越しが決まり[51]、9月27日には5年ぶりのBクラスが決まった[52]。10月2日、来季より田辺が正式に監督に就任することが発表された。途中加入のメヒアは中村と共に2リーグ制後初となる「同一チーム2人本塁打王」となるものの、総合成績は5位に終わる[53]。 ドラフトでは高橋光成を指名。また、投手陣の補強でエスメリング・バスケス、ウェイド・ルブラン、ミゲル・メヒア、郭俊麟を獲得した。, 開幕より中村・メヒア・森友哉などをそろえた打線により、チームは1991年以来24年ぶりの開幕5連勝を飾った[54]。交流戦では中村が期間中に8本の本塁打を放つ[55]など10勝6敗2分の3位となり[56]、交流戦以降はソフトバンク、日本ハムとの首位争いとなり前半戦を3位でターンした。しかし、後半戦になると失速、のちに球団ワースト記録となる13連敗を喫し最大11もあった貯金がなくなってしまった。連敗中は抑えを髙橋朋己から牧田和久に配置転換した。8月29日、対楽天戦に3-2で勝ち、球団通算4500勝を達成した[57]。2リーグ制分立後に発足した球団では最速で、巨人・阪神・中日・オリックス・ソフトバンクに次いで6チーム目[58][59]。また、1950年の2リーグ制後に4500勝を記録したのは巨人に次いで2球団目[60]。終盤はロッテとのCS進出争いとなり、西武が先に3位でシーズンを終えるがロッテが逆転し最終順位は4位となりCS進出を逃した上、球団としては34年ぶりの2年連続Bクラスとなった[61]。秋山翔吾がシーズン216安打の日本記録を樹立した。この年に西口が現役を引退。, 開幕から中継ぎに再転向した牧田の好投やメヒアら打撃陣の好調により一時は首位に立つが、岸孝之の故障離脱やその他先発陣の不調、両リーグ最多の失策数を記録する守備の乱れが響き、5月5日には最下位に転落してしまう。これらを受けて2軍投手コーチの森慎二を1軍投手コーチに昇格、先発要員としてフェリペ・ポーリーノとブライアン・ウルフを緊急獲得した。しかし9月11日のソフトバンク戦で2年ぶりの負け越し、9月21日のオリックス戦で3年連続のBクラスが決まった。シーズン最終戦で田邊監督の退任が正式発表され、後任にはOBの辻発彦が就任。金子侑司が自身初の盗塁王を獲得した一方、4年ぶりに失策数が3桁に到達(失策数101はセ・パ12球団ワースト[62])・外国人先発投手が19戦連続未勝利を記録するなど課題の多く残るシーズンとなった。また、2005年の球団創設から2015年まで年間対戦成績で一度も負け越しがなかった楽天相手に初めて負け越した[63]。この年はオリックス戦のみ勝ち越してパ・リーグ全球団に負け越しは免れたがCS争いには加われず4位に終わった。オフに長年主力として活躍した岸孝之がFAで楽天に移籍した[64]。, 1月16日、本拠地である西武ドームの名称をネーミングライツによって3月1日から『メットライフドーム』にすることを発表[65]。4月中旬以降、5月上旬の一時期に4位となったほかは8月末まで3位を保ち続けた。この間、7月21日から8月5日にかけて西鉄時代以来59年ぶりとなる13連勝を達成した[66]。8月31日に2位の楽天との直接対決を制して2位に浮上すると[67]、その後はシーズン終了まで2位を維持した。西武のAクラス入りは2013年以来4年ぶり。外崎修汰が3年目でレギュラー定着し、シーズン中盤からは打撃不振の中村、メヒアに代わって山川穂高が4番に座った。エースの菊池雄星がリーグ最優秀防御率および最多勝を達成[68]、新人の源田壮亮が56年ぶりとなる新人でのフルイニング出場を達成し新人王を受賞[69]、秋山翔吾が打率.322で首位打者となった。クライマックスシリーズではファーストステージにおいて3位の楽天と対戦し、第1戦ではエース菊池が完封し10-0で大勝するが第2戦・第3戦で敗れ、1勝2敗で敗退となった。オフに野上亮磨がFAで巨人へ、牧田和久がポスティングシステムでサンディエゴ・パドレスへそれぞれ移籍した。一方で、楽天を退団した松井稼頭央がテクニカルコーチ兼外野手として15年ぶりに復帰した。, 所沢への球団移転以来40周年の記念に当たる年で、様々な催しや事業が実施される[70]。中でも最大の事業は2017年末から2021年春にかけて予定されている西武ドームや二軍施設とその周辺の大規模な改修・再整備である[71][72][73][74]。4月17日には東京ドームで初めて主催ゲームも行われた[75]。4月21日、本拠地で開幕から8連勝となり球団初の記録となった[76]。また、貯金が10となり開幕18試合以内での到達は、1954年、1955年に続く63年ぶりの球団3回目となった[77]。4月22日にロッテに勝ち、本拠地西武ドームで開幕から9連勝と球団記録を更新して貯金を11とし[78]、最終的に本拠地での連勝を12まで伸ばした[79]。4月25日にソフトバンク戦で5試合連続9得点を挙げて、パ・リーグ新記録を達成した[80]。また、14年ぶりの4月に2度目の5連勝となった[81]。強打で首位の座を一度も譲らず、9月半ばから勢いが加速、9月14日の楽天戦から12連勝で一気にマジックを減らし、9月30日、マジック1としていた首位西武は日本ハムに敗れたがマジック対象チームである2位のソフトバンクもロッテに負けたため、10年ぶり22度目のパ・リーグ優勝が決まった[82]。1、2位が同日に敗れて優勝が決まったのは2010年パ・リーグのソフトバンクと西武以来[83]となり、開幕から首位のまま優勝したのは2リーグ制では1953年の巨人、1962年の東映、1997年のヤクルトに続く4例目の記録だった。771得点、191ホームラン、2割7分3厘の打率と攻撃面はリーグトップを記録した一方で防御率4.27と636失点、84エラーはいずれもリーグワーストで、この内防御率が最下位で優勝したのは2001年の大阪近鉄バファローズ以来となった。, その後、クライマックスシリーズファイナルステージで2位のソフトバンクと対戦するが、4.27の防御率とアキレス腱だった投手陣が5試合で合計44失点と壊滅。初戦で敗れ2戦目で勝利したが3戦目から5戦目まで3連敗を喫し、アドバンテージ1勝を含めた2勝4敗で敗れた。辻監督は試合後に行われたシーズン最終戦セレモニーで、「まさか今日2018年シーズンが終了するとは考えてもいませんでした」と3連敗で敗れ去ったことを悔しがり涙を流し続けた[84]。松井稼頭央、藤原良平、坂田遼、福倉健太郎が現役を引退し、オフにFAで浅村栄斗が楽天に、炭谷銀仁朗が巨人に移籍。また、菊池雄星がポスティングシステムでシアトル・マリナーズに移籍した。, 内海哲也をFAの人的補償で獲得したが、その内海を含めて開幕前に先発陣に故障者が相次いだ。開幕以来一度も首位を譲らず優勝した昨季とは異なり、開幕戦最初からソフトバンク3連戦で3連敗を喫し、リーグ最下位からのスタートとなった。しかし、令和に入ってから、5月1日に山川がパ・リーグの令和初ホームランを打ち、5月5日に今井が令和初の完封勝利を果たした。7月9日に首位とのゲーム差が最大8・5まで開いたが、8月に入って打線が奮起。9月11日、ソフトバンクとの首位攻防戦に勝って初めて首位に立ち、9月24日、マジックを「2」としていた西武は対ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)に勝利し、2位のソフトバンクが東北楽天に2-4で敗れたため、2年連続23度目のリーグ優勝を果たした。浅村や菊池、炭谷と主力の離脱でチーム状況は決して万全とは言えなかったが、そんな前評判を覆し、12球団トップの756得点[注 23]をあげる圧倒的な打力を武器に優勝を勝ち取った。パ・リーグの2連覇は2014 - 2015年のソフトバンク以来、球団では1997 - 1998年以来となった[85]。なお、この年の5月1日に元号が平成から令和に改元されたことで、プロ野球史上初めて元号をまたいだ連覇となった。山川穂高120打点、中村剛也123打点、森友哉105打点で球団史上初の100打点トリオを形成し、パ・リーグでは2003年のダイエー(ソフトバンク)以来の快挙となった。さらに山川が本塁打王(2年連続)、中村が打点王(4度目)、森が首位打者(初)、金子が盗塁王(2度目)、秋山が最多安打(4度目)と6部門中5部門で西武がそれぞれトップを占め、打撃タイトルを総なめにした[86]。しかし、勇躍臨んだソフトバンクとのCSファイナルステージだったが、3連敗を喫し、第4戦では今宮に3本の本塁打を許すなど、1勝もできぬまま4連敗(アドバンテージ1勝を含む)。シーズン756得点の強力打線は、わずか13得点とふるわず、ソフトバンクバッテリーにことごとく、その長所を消された。一方、防御率がリーグワーストの4・35と泣きどころである投手陣は、この短期決戦でも4戦32失点(自責29)、防御率7・25と試合をつくれず、短期決戦巧者のソフトバンクから主導権を奪えなかった。昨年と同じソフトバンク相手に、計1勝8敗と、全くふるわない短期決戦でのもろさが際立ち、本拠地4連敗という屈辱的“逆スウィープ”で2年連続の下剋上を許し、日本シリーズ進出を逃した[87]。来季から3軍制を導入することを発表した。オフに中日から自由契約の松坂大輔が14年ぶりに古巣へ復帰し、秋山翔吾が海外FAでシンシナティ・レッズに移籍した。, 今季は開幕から主砲の山川穂高が打撃不振に陥り、新戦力のコーリー・スパンジェンバーグも開幕直後は低調だった。また、シーズン中盤には中村剛也が死球を受け故障離脱、昨年首位打者の森友哉がシーズン全体を通して打率2割5分前後にとどまるなど昨年までの強力打線は影を潜めた。さらに課題の先発投手陣も昨年チーム最多勝のニールを筆頭に軒並み防御率4点台から5点台と不調で夏場には借金生活に入り、8月には5位まで後退する。しかし、シーズン後半になると救援投手陣で7回森脇亮介、8回平良海馬、9回増田達至の必勝リレーが確立し、シーズン終盤の接戦を落とさなかったことで10月下旬には借金を完済し、Aクラスでシーズン終えたが、ロッテとの直接対決の末、敗れて3位となり、CSを逃した。楽天とロッテは勝ち越したが、今季のチーム防御率が最下位であり、ソフトバンク、下位の日本ハムとオリックスに負け越す等三連覇を逃す原因となった。, ※1982年度は日本ハムとのプレーオフを制して優勝。2004年度はレギュラーシーズン2位ながらプレーオフで3位・日本ハムを2勝1敗、1位・福岡ダイエーを3勝2敗でそれぞれ破り優勝。, 1965年からは小倉球場(現:北九州市民球場)、1973年からは藤崎台県営野球場を準本拠地として試合を開催し、いずれも1978年まで使用された。, なお、西武は本拠地(西武ライオンズ球場→西武ドーム)での試合開催率が高く[注 25]、特に1993年までの15年間では西武球場で全ての主催試合を行ったのが1982年から1986年と1989年から1993年の計10年間あり、それ以外の5年間も地方球場開催は平和台のみだったが、1994年以降は徐々に地方開催を行うようになった。特に2000年から2008年までの間は長野オリンピックスタジアムでの開催が毎年続けられたほか、1996年からは群馬県立敷島公園野球場でも2、3年に1回開催しており、渡辺久信監督在任時期は同監督の出身地ということもあってほぼ毎年開催されていた。また、2008年からは埼玉県営大宮公園野球場でも毎年主催試合を行っている(参照:埼玉西武ライオンズ主催試合の地方球場一覧)。なお、球団名に「埼玉」が付いてからは埼玉県外での公式戦主催試合は減少傾向である。, 「地平を駈ける獅子を見た」と同時期に発表された(同曲シングルレコード盤のB面に収録)応援歌「LET'S GO LIONS」(作曲・編曲:長戸大幸)もあるが、現在演奏される機会は少なくなっている[注 33]。, 球団創設70周年に当たる2020年には、広瀬香美がカヴァーした「吠えろライオンズ」が6月9日にリリースされた。リニューアルにあたり、歌詞が「西武ライオンズ」から「埼玉西武ライオンズ」に改められている[117]。, なお、ホームラン編集部制作の「12球団全選手カラー百科名鑑」(日本スポーツ出版社→廣済堂出版→廣済堂あかつき)では、各球団を紹介する際に球団歌を掲載するのが基本であるが、西武に関しては応援歌である「吠えろライオンズ」の方を掲載している。, また文化放送が「文化放送ライオンズナイター」用の挿入歌としてばんばひろふみ・梶原しげる(当時同局アナウンサー)が歌う「Vのシナリオ〜吼えろライオンズ」という楽曲が1985年ごろに発表されているが、現応援歌の「吠えろライオンズ」とは同名異曲である。, ライオンズのマスコットキャラクターは、埼玉移転後に制定された以下の2体である。どちらもデザインは手塚治虫が手掛けた。詳しくは当該項目を参照されたい。, なお、太平洋・クラウン時代は黄色い顔のライオンをペットマークに使用[注 35]。また、西鉄時代もライオンをデザインしたペットマークを使用。当時のジャンパーの胸部にワッペンが張り付けられていた。, ドーム化前の西武球場は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなるケースもあった。そのため本拠地を所沢から都心である東京の台場に移転してドーム球場を建設しようという案が浮上した。しかし、当時既に東京都を保護地域とする球団が3球団[注 36]もあり、全ての球団の承諾を得る必要があったことや移転に対する地元所沢近辺のファンの猛反発、多額の建設費用の捻出、グループ企業の西武鉄道からの利用客減少への懸念の意見が出たため困難となり、結局は西武球場に屋根をかけドーム化させた。, 西武による買収以降、当時の堤義明オーナーが「西鉄とわれわれは別の球団」と宣言した[119]ことに現れるように、2007年までは福岡時代の歴史を極力消す傾向にあった。, 球団の公式記録は全て埼玉移転後の記録のみが扱われて発表され、1950年の球団創立以来の通算記録は全く回顧されなかった[注 37]。また、福岡時代に在籍したが、埼玉移転の前に退団して西武ライオンズへの在籍経験がない選手などは球団のOBとして認められず、顕彰や始球式などは基本的に行われなかった[注 38]。このような扱いに対して福岡時代のファンの反発も強かった。, しかし、2005年に堤が西武鉄道株をめぐる証券取引法違反で失脚し、2007年に後藤高志がオーナーが就任すると球団の歴史に対する扱いが変わることとなる[119]。2008年は西武球団創設(埼玉移転)30周年(30シーズン目)と西日本鉄道創業100周年が重なることから、6月から8月の試合で西鉄時代のユニフォームを着用し、連動して西鉄→太平洋→クラウンまでの福岡時代の歴史を回顧する「ライオンズ・クラシック」企画が豊田泰光監修の下で展開された。西鉄時代のユニフォームは基本的に実施期間内の西武ドームでの主催試合で着用したが、西鉄時代の本拠地だった福岡(現在の福岡ソフトバンクホークス本拠地である福岡Yahoo! また、「Lions」のロゴも一新される ことが2009年1月1日、公式ホームページにて発表された。それに伴ってユニフォームのデザインも一新。基本デザインは西鉄ライオンズ時代のユニフォームデザインを踏襲しており、ホーム用は白地に紺の前掛けライン。 ライオンズクラブ紋章(ロゴのみ)一式 . 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/27 07:50 UTC 版), 埼玉西武ライオンズのページの著作権Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。, ビジネス|業界用語|コンピュータ|電車|自動車・バイク|船|工学|建築・不動産|学問文化|生活|ヘルスケア|趣味|スポーツ|生物|食品|人名|方言|辞書・百科事典, 設立日については『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』では28日、「プロ野球12球団全選手百科名鑑」シリーズ(, 西日本新聞の体面を考え「吸収合併」ではなく「球団合併」だったが、事実上の吸収合併であった。, 8月22日から9月21日にかけて18連勝。9月22日の西鉄戦に2-7で敗れた後、翌日から8連勝。, クラウンガスライターは6月に関東クラウン工業、廣済堂印刷と合併し廣済堂クラウンに社名変更した。, この年以後、同一チームの日本シリーズの連覇は2014年-2015年に福岡ソフトバンクホークスが達成するまで23年間なかった。また、この年はゴールデングラブ9部門中、西武は8部門を独占。, 同年、一時期は2位であってもマジックが点灯していたことがある。これは西武の残り試合数が日本ハムの残り試合数よりも多かったことによるもので、一時期は3位転落でもマジックが点灯していたことがある。現時点では3位球団におけるマジック点灯は同年の西武しか前例がない。, 西武だけでなく、日本ハム以外のパ・リーグ各球団が主催する札幌ドームでの試合は2004年以降行われず、2009年の巨人主催を最後にセ・リーグ球団各球団が主催する札幌ドームでの試合は行われていない。, 日本ハム以外のパ・リーグ球団の東京ドームでの主催試合に関しては、西武は2007年にオリックス、2012年にソフトバンク、2014年に楽天の主催試合の対戦相手として行ったことがある。また交流戦では巨人主催試合での対戦相手として行われている。, 球団はロッテなどのように、平日のデーゲームでの検討も行ったが、照明なしでのプレーは白球が見えづらく、西武ドームでは困難と判断した。, パ・リーグでは地方球場での主催試合開催で観客動員数を高める営業戦略を採るチームが多く、西武の方針は異例だった。参照:, 1980年代から1990年代の一時期、子供のレオ(レオの子供のルネとも解釈可)の着ぐるみが登場したこともあった。, 「ライオンズ・クラシック」等の復刻企画では広告ステッカー貼付の都合上この仕様通りに再現されない場合がある。, 24番から変更した当初は「_」のないユニフォームを着用していた。「_」付いた時期は不明。その後秋山との交換でダイエーから加入した, このマークは広告扱いのため、交流戦ビジターゲームで着用するユニフォームには入らない。, 太平洋からクラウンに球団名が変更された後も、同じデザインのキャラクター(帽子のマークを変えて)を使用。, 例として、ファンブックなどで国土計画の旧クラウン球団買収を「ライオンズ球団の誕生」と記述していたため、「福岡時代からライオンズを名乗る球団が存在したのに、新たに創設されたかのような記述はおかしい」と指摘され、この記述については「西武ライオンズ球団の誕生」と改めた。また、1986年のパ・リーグ優勝の際に発売された西武鉄道の優勝記念乗車券では「西武ライオンズは1986年度パ・リーグ公式戦優勝。4度目の制覇を達成することができました。皆さまのご声援ありがとうございました。」を全文とする感謝の意を示し、西鉄が達成した5度のリーグ優勝には触れなかった。ただし、マスメディアでは「西武として◎度目の優勝、球団創立からは(「西鉄時代を含めると」という表現などもあり)△度目の優勝」という報道がなされた。, 1962年限りで国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)へ移籍し、監督・コーチとしての西武在籍経験もない, 『ALL STAR SERIES JAPAN 2002 日米野球公式プログラム』 53頁 読売新聞東京本社発行, 【12月17日】1975年(昭50) えっ「五分五分」なのに発表!ライオンズ、幻のドローチャー監督, 【10月12日】1978年(昭53) “福岡”ライオンズの歴史に幕、西武がついに球界進出, https://web.archive.org/web/20111022164813/http://www.sanspo.com/baseball/news/111018/bsr1110182111004-n1.htm, ライオンズ・クラシック 稲尾和久 生誕75周年 永久欠番メモリアルゲーム 〜背番号「24」の記憶〜, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/02/kiji/K20120702003587740.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/02/kiji/K20121002004245450.html, http://mainichi.jp/sports/news/20121218k0000e050141000c.html, https://web.archive.org/web/20121230222810/http://mainichi.jp/sports/news/20121219k0000e050153000c.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130414-1112454.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/09/kiji/K20130509005771910.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/22/kiji/K20130522005858710.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/06/29/kiji/K20130629006113910.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/28/kiji/K20130728006312710.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/15/kiji/K20130815006426560.html, https://web.archive.org/web/20131012035026/http://www.sanspo.com/baseball/news/20131009/lio13100905060003-n1.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/04/kiji/K20131004006742360.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/05/kiji/K20131005006753080.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/08/kiji/K20131008006773370.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/14/kiji/K20131014006808990.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/06/04/kiji/K20140604008300810.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/06/27/kiji/K20140627008453540.html, http://www.sanspo.com/baseball/news/20140922/lio14092205010002-n1.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/27/kiji/K20140927009006730.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/1455964.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/1492253.html, http://www.sanspo.com/baseball/news/20150615/lio15061505040002-n1.html, http://www.sanspo.com/baseball/news/20150829/lio15082905020002-n1.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/08/29/kiji/K20150829011023280.html, http://www.daily.co.jp/baseball/2015/08/29/0008346535.shtml, http://www.nikkansports.com/baseball/news/1529880.html, http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/453912/, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/01/16/kiji/20170116s00001173154000c.html, 株式会社西武ライオンズ 40周年事業の実施を発表 メットライフドームエリアの改修計画・周年イベントの内容が決定! 〜過去最大規模となる改修を実施、2021年春完成へ〜, 4/17(火)、球団史上初の東京ドーム主催試合で来場者全員に「ライオンズ・クラシック2018」ユニフォームを配布!, https://www.nishinippon.co.jp/nsp/baseball_lions/article/410497/, “西武63年ぶり貯金10 怪童中西太氏も強さに◎ - プロ野球 : 日刊スポーツ”, https://www.nikkansports.com/baseball/news/201804220000078.html, 西武 11点快勝!球団記録更新の開幕から本拠地9連勝 - スポニチ Sponichi Annex 野球, https://www.sanspo.com/baseball/news/20180510/lio18051005000003-n1.html, 西武、5試合連続9得点!パ・リーグ新記録達成! - スポニチ Sponichi Annex 野球, 西武、14年ぶり4月に2度目の5連勝!山川の2本塁打などで12点圧勝 - スポニチ Sponichi Annex 野球, “【西武】10年ぶり22度目のリーグ優勝 「獅子おどし打線」でパ制圧…辻監督8度舞う”, https://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20180930-OHT1T50233.html, https://www.asahi.com/articles/ASL9Y53PRL9YUTQP01Z.html, “西武の辻発彦監督がCS敗退に男泣き 嗚咽がスタジアム内に響き渡る - ライブドアニュース”, http://news.livedoor.com/article/detail/15477192/, 西武、個人打撃タイトル6部門中5部門を占める。中村剛也は「『ランナーをかえす』ということを意識して打席に入った結果」、山川穂高は「正直悔しい」, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/28/kiji/K20120428003139200.html, ライオンズ 3rdユニフォームとして「Saitama」ユニフォームを2013シーズン着用!. 3_紋章_白1色:png2種/eps. ライオンズのスピードスター金子侑司選手が通算200盗塁を達成!その記録達成を記念して限定デザインのメモリアルグッズを発売します。定番のフェイスタオルやキーホルダーをはじめ、受注販売限定のtシャツやフォトパネルなど盛りだくさんのラインナップ。 2010 ホーム・ビジター2種使用 1994-1998. 西武ライオンズ歴代ピッチャーを振り返ってみた【豪華な顔ぶれ!】:まとめ. 埼玉西武ライオンズ ストアオンラインの公式Twitterアカウントです。たくさんのグッズ情報をお届けします♪ !|埼玉西武ライオンズ, 7/19(金)~「ライオンズ フェスティバルズ 2019」は期間限定“令王≪レオ≫”ユニフォームで、新時代“令和”初の王座をつかみ獲る!|埼玉西武ライオンズ, ライオンズ70周年「SPIRIT of KING」が始動!70周年ユニフォーム発表&4/21東京ドーム開催を含む3試合でビジター外野除く来場者全員配布(※)|埼玉西武ライオンズ, 西武、2020年出陣式開催で“黄金期ユニ”披露 年間16試合で70周年シリーズ開催, 球団応援歌を初のリニューアル!「吠えろライオンズ LIONS 70th バージョン」歌い手は広瀬香美さん!ラッキー7を一緒に盛り上げてくれるファンクラブ会員も募集!, 西武ライオンズの先祖に“幻の球団歌” 1950年に1シーズンだけ存在「西鉄クリッパース」, “九州の礎を築いた群像 西鉄編 (10) ライオンズ 復興支えた栄光の「野武士集団」 創設の裏に白洲次郎、GHQ… (6/8ページ)”, http://sankei.jp.msn.com/economy/news/131217/biz13121722550025-n6.htm, 球団情報 | 西武ライオンズ (Internet Archive 2008年2月3日時点でのアーカイブ), “九州の礎を築いた群像 西鉄編 (10) ライオンズ 復興支えた栄光の「野武士集団」 創設の裏に白洲次郎、GHQ… (7/8ページ)”, http://sankei.jp.msn.com/economy/news/131217/biz13121722550025-n7.htm, “夜行高速バス 福岡〜横浜・池袋(大宮)線「Lions Express」 デザイン決定!”, http://www.nishitetsu.co.jp/release/2011/11_141.pdf, “[高速バス]福岡〜横浜・池袋(大宮)線「Lions Express」 12/8から運行開始”, http://www.nishitetsu.co.jp/release/2011/11_127.pdf, asahi.com:「本人、知らなかったことに」西武が偽装指示 早大会見 - ドラフト裏金, asahi.com:西武調査委が最終報告書 処分は連休明け以降に  - ドラフト裏金, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=埼玉西武ライオンズ&oldid=80363903, (1954年、1956年 - 1958年、1963年、1982年 - 1983年、1985年 - 1988年、1990年 - 1994年、1997年 - 1998年、2002年、2004年、2008年、2018年 - 2020年), (1956年 - 1958年、1982年 - 1983年、1986年 - 1988年、1990年 - 1992年、2004年、2008年), (1951年 - 1952年、1954年 - 1958年、1960年 - 1963年、1965年 - 1967年、1975年、1982年 - 2006年、2008年、2010年 - 2013年、2017年 - 2019年), (1950年、1953年、1959年、1964年、1968年 - 1974年、1976年 - 1981年、2007年、2009年、2014年 - 2016年), 連続Aクラス入り最長記録 25年[日本プロ野球記録](1982年 - 2006年), 1952年より正式なフランチャイズ制が敷かれる。なお、1950年は西日本パイレーツの本拠地としても規定されていた。, 西武球場の完全ドーム化は1999年。名称は第1期工事(スタンド外周部に屋根を架設する工事)が完成した1998年に「西武ドーム」に変更されている, 作者の手塚によると、堤オーナーから直接「引退中のジャングル大帝レオを球団マークとして復帰させてみる気はないですか」との連絡があり、さらに「子供のレオではなく、大人になってからのレオに衣服(ユニフォーム等)を着用させて使いたい」との意向も示され, 生え抜き選手での200勝投手は稲尾和久(276勝)、東尾修(251勝)がいる一方、2000本安打を記録した打者はいない(2019年レギュラーシーズン終了時点で栗山巧の1825安打が球団記録), 1951年 - 1972年 - 球団名が西鉄ライオンズへの変更に伴い「CLIPPERS」の部分を「LIONS」に変更。書体はその後数度にわたって変更されている。, 1973年 - 1976年 - 球団買収により、球団名が太平洋クラブライオンズへの変更に伴い、上が青・下が赤のセパレート型、間に白の細い線。上には太平洋クラブの社章。下には白文字の筆記体で「Lions」。, 1977年 - 1978年 - メインスポンサーがクラウンガスライターとなり、球団名がクラウンライターライオンズへの変更に伴い、上が赤・下が青のセパレート型と太平洋時代のものとは上下反対に、中心の白線が太くなる。中心の白地に青文字で「CROWN LIGHTER」の文字。上に王冠と「C」を模したクラウンのマークが入った。白文字の筆記体で「Lions」のロゴが大きくなる。, 1979年 - 西武グループが買収し、球団名が西武ライオンズへの変更に伴い、ライオンズブルー(水色)が地色。中央に手塚治虫デザインの「レオマーク」。上に白文字で「SEIBU」、下に白文字の筆記体で「Lions」。総合デザインはユニフォームを含めて, 2005年 - 2006年 - 二軍の球団名がインボイスに変更され、白地にインボイスのマーク。, 2007年 - 二軍の球団名がグッドウィルに変更され、白地にグッドウィルのマーク。, 1969年には背ネームが除外。番号がゴシック体風書体となる(公式戦使用終了後は練習用として使われ、西鉄最終年のみ在籍していた, 1970年には左袖に足を1本突き出すライオンのイラストワッペンを装着。ビジター用がブルーグレーに変更、また、ビジター用の胸のロゴが1951年から1958年途中まで使用されていた「NISITETSU」マークに変更される。, 帽子、アンダーシャツ、ストッキングがチームカラーのライトブルーとなり、袖、首、パンツに“太陽”と“草原”のイメージにより考案された赤、緑のラインが入る。, 背番号、胸番号の書体がゴシック体になり、パンツは腰ラインの入っていないベルトレスタイプになる。, ホーム用は、上下白で、胸ロゴ、胸番号、背番号はライトブルー。左袖にライトブルーの文字で, ビジター用は、上下ライトブルーで、胸ロゴ、胸番号、背番号は白。左袖には白文字でLionsのロゴが入った(1995年まで使用されたが、イースタンでは1996年まで使用された)。, 2002年からのビジター用は、ホーム用と同じくナイキの製造になり、大幅にモデルチェンジされ、ビジター用の上着の正面がグレー、脇・背中がライトブルーになり、パンツがグレーになる。胸のネームと番号は、発表時は白だったが、公式戦時にブルーへ変更された。また、札幌、長野での主催ゲーム用にサード・ユニフォームも登場した。ホーム用をアレンジしたもので、ネームと番号の縁取りが黒。番号のロゴは、ビジターと同じものを採用。ビジター用とサード用の帽子からは、緑の楕円がはずされた(ヘルメットは、ホーム用と同じ)。なお、3種類とも右袖にプライド・ロゴ(赤・緑の2色のホームベース型にLionsのロゴと日本一の回数の8個の星をあしらったもの)が入る。, ただし、キャップを除きこのユニフォームの使用は開幕戦からで、初年の春季キャンプ・オープン戦時は、上が新デザインを踏まえた紺のオリジナル仕様練習着、パンツおよびヘルメットは昨年までのライトブルーの時代のものを使用。, 1976年 - 基本的に前年と同じものを使用。帽子は同年の一軍と同じくTLマークを入れたものを使用。, 2005年 - 2006年 - 二軍の球団名がインボイスに変更され、帽子のマーク・ホーム用の西武百貨店マークがインボイス社の, 2007年に夏季特別企画として、7月10日から8月30日の主催ホームゲームで、特別ユニフォームと1979年から1996年まで使用されていたビジターユニフォーム(いわゆるライオンズブルー)の復刻版を使用。特別ユニフォームはフロント・わきの下の部分が水色、背中と肩の部分が白。胸ロゴの「LIONS」と背番号・胸番号は赤縁に白。背中にライオンの牙をモチーフにした赤い模様が入ったもの。, 2008年に交流戦限定ユニフォームを着用。肩から袖にかけての部分と脇からわき腹にかけての部分が白、それ以外の部分がライオンズブルー。右胸に所沢移転30周年記念ロゴのワッペン、肩の上には黒縁に白の☆、背番号の下に2008年のスローガン「No Limit!」をあしらったもの。, 2012年、球団の親会社である西武鉄道の設立100周年を記念し、全国の小中学生からユニホームのデザイン案を募集, 8月11日についてはライト外野自由以外のすべての入場者に対してレプリカユニフォームのプレゼントが行われた, 上述したとおり、好成績を残したことから8月27日、9月13日~9月21日の公式戦8試合での炎獅子ユニフォーム再着用が発表された。, 10月8日、4年ぶりに進出したクライマックスシリーズ(CS)に向けて、選手や監督からの要望により、CSファーストステージとファイナルステージ(進出の場合)で再々着用することが発表された(レギュラーシーズンと異なりファーストステージの対戦相手となる楽天はビジターユニフォームを着用するため同系色のユニフォームでの対決となる)。限定ユニフォームでCSを戦うのはクライマックスシリーズ創設以来初めてのこととなる。, 2000年:Hit!Foot!Get! 胸のロゴはSeibu、その上に小さくSaitamaと入っている。どことなく大人びた雰囲気のデザインでありながら、歴代のライオンズを象徴する黒(西鉄)、青(西武)、レジェンドブルー(埼玉西武)の3色を襟と袖口のラインに入れた野心作でもある。 近年の西武ライオンズは山賊打線と称されるその圧倒的な打撃力が目を見張りますが、歴代ピッチャーを振り返ってみると古くは「西鉄ライオンズ」時代から長きに渡ってたくさんの名投手を輩出する投手王国のチームであった事はあまりにも有名です。, チーム防御率12球団ワーストの現「西武ライオンズ」ではありますが…(>_<)令和の時代もライオンズが投手王国として復活する事を願いつつ…(笑)今回は西武ライオンズの素晴らしい歴代ピッチャー達の軌跡に触れてみたいと思います。, 西鉄ライオンズからの長い「ライオンズ」の歴史の中でライオンズに勝利をもたらしてくれた数、つまり通算勝利数のベスト5はこの投手達になります!, ナンバーワンはもちろんこの方、「神様、仏様、稲尾様」の名フレーズで有名な、NPB最高のシーズン42勝の記録を持つ稲尾投手です。今プロ野球の投手は分業制となっている為、恐らくこの記録は未来永劫破られる事はないでしょう。, ケンカ投法で有名な、娘にプロゴルファーの東尾理子さん、娘婿に石田純一さんを持つライオンズ史上屈指のイニングイーター(とにかく投げてくれる人)、今では文化放送で「もしかして酔ってる?」と聞いてるこちらをハラハラさせる解説でおなじみの東尾投手です。, ちなみにケンカ投法の由来となっている与死球165個はNPB記録となっています(ただしご本人は現役時代から一貫して「故意に当てたことは1回も無い」と仰っています)。, ダイナミックなフォームから繰り出されるスライダーで勝利を築いた西口投手が第3位、ただ西口投手はライオンズ史上最も「持っていない」投手として有名になってしまっています。, 3度のノーヒットノーラン未遂は語り草になっており、また自身の最後のピッチングとなった試合(ロッテ戦、2アウトから一人だけの限定登板)では渾身のスライダーが判定ボールとなり結果フォアボールで終了という何とも味気ないものに…, ※ちなみにこの試合は筆者も観戦しており、バッターの井口選手はあえて「三振でいい」と見送ってくれたにもかかわらずのあの判定に今も納得がいっていません!, 長身から繰り出される剛速球が持ち味、現ソフトバンク監督の工藤公康投手と共に「トレンディエース」として活躍した渡辺久信(現ライオンズGM)が4位にランキング。, この現GMが今のライオンズ投手陣の再建に燃えており「3年以内にライオンズ投手王国を復活させる」と仰っていますので是非期待したいものです。, 台湾からやってきた「オリエンタル・エクスプレス」の異名でお馴染みの郭投手が外国人投手であるにもかかわらず第5位にランキングされました。, とにかく郭投手のストレートと高速スライダーは絶品であり、あの落合博満さんが「俺が本当に打てないと思ったのは郭泰源」と降参してしまうほどのピッチングだったそうです。, 上記で挙げた歴代勝利数ベスト5の先発投手陣以外にもたくさんの名中継ぎ、名抑え投手がライオンズで活躍してくれました。ここでは筆者「湘南乃獅子」の独断と偏見でライオンズ「いぶし銀の中継ぎ・抑え投手達」をピックアップしてみたいと思います!, 1990年にジャイアンツからライオンズに移籍し、その後すぐに守護神として大車輪の活躍を見せるようになった鹿取投手はライオンズ時代だけで73セーブを挙げ常勝チームの大事なパーツとなります。, 実は子供の頃は大の巨人ファンだった筆者「湘南乃獅子」(※こちらについては「ご挨拶」に書かせて頂いています)にとってこの鹿取投手の西武での活躍は「おいおい、巨人にいる時より全然いいじゃないか!」と思わせるほどのものでした(笑), どうしても「巨人の水が合わない」という選手はいるようですし、当時の森祇晶監督に思い切って白羽の矢を立ててもらって本当に良かったと思います。, 上記鹿取投手と共に常勝西武の中継ぎ抑え部門を牽引したこの塩崎投手(現西武ライオンズ編成ディレクター)はライオンズファンにとっては絶対に忘れられない投手の一人でしょう。, 記録もさることながら塩崎投手のシンカーの軌道は今でも伝説となっており、魔球と称されています。, 当時のチームメイトの清原和博さんは塩崎投手のシンカーに関して「ボールがホームベース直前で視界から消える。消える球は打てない、同じチームで本当に良かった」と述べるほどです。, 西武の守護神と言えば…この投手を挙げる人が一番多いはず!ストレートとフォークが軸の豊田投手は非常にコントロールがいいピッチャーでした。, FAで2006年ジャイアンツへ移籍するまで135セーブをライオンズで挙げ、この記録は歴代ライオンズ抑え投手の中でのナンバーワンの記録となっています。, また2020年よりついにライオンズの投手コーチに就任!キャンプでも積極的な若手への指導が目立ち投手陣底上げに燃えています(どうか西武投手陣に制球力を伝授してあげてください!)。, 2020年の西武ライオンズの一番のニュースはあの松坂が古巣西武に復帰してくれたことでしょう!, 西武ライオンズ歴代通算勝利数でも第6位の108勝を挙げる松坂投手が我が西武ライオンズに帰ってきてくれたことは非常に心強いです!, ここ数年は怪我、コンディションとの戦いが続き満足いくピッチングが出来ないことが続く中での古巣復帰だったので僕も「せめて後進達に教えてくれれば…」と軽い期待を寄せていたのですが、本人はそんな風には全く考えていないようで、キャンプでは若手に交じってメニューを懸命にこなし「もうひと花咲かせたる」感がハンパないです!, 今の西武ライオンズは「エースとして君臨する」→「他球団へ移籍する」の図式が定型化されてしまい(笑)、涌井投手、岸投手、メジャーへ渡った菊池投手がチームを離れてしまっています。, ライオンズのエースとしての経験、メジャーでの経験、また様々な国際大会で投げ抜いてきた経験を、ぜひとも後輩達に伝えていくと共に、自身の有終の美を飾るべく、ライオンズ投手王国再建の一役となってくれることを期待しています!, という訳で今回は我が西武ライオンズの歴代ピッチャーを回顧させて頂きましたが、やはりどうしてもフォーカスが西武黄金時代(1986年~94年)に集中してしまいますね!, 2020年我が西武ライオンズがパリーグ三連覇を果たし、投手王国復活がなされていけば…!第二の黄金時代がやってくるかもしれないと今からワクワクが止まりません!, 辻監督、渡辺GM、塩崎編成ディレクター、豊田ピッチングコーチ…今シーズンも何卒よろしくお願いします!!, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。. 世界の至るところで、ライオンズは自ら汗を流して行動しています。ライオンズクラブ国際協会は、140万人以上の会員がいる世界最大の奉仕組織です。100年以上も前に誕生したライオンズは、今も当時と変わらず、献身的に恵まれない人々を支援しています。 【公式】埼玉西武ライオンズ グッズ @Lionsstore_web. 埼玉西武ライオンズ(さいたませいぶライオンズ、英語: Saitama Seibu Lions)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。, 埼玉県をフランチャイズとし、同県所沢市にあるメットライフドームを本拠地[2]、同さいたま市大宮区にある埼玉県営大宮公園野球場を準本拠地としている。また、二軍[注 1](イースタン・リーグ所属)の本拠地はドームと同じ敷地内にある西武第二球場である。, 西日本鉄道(西鉄)は、1943年にそれまでの大洋軍[注 2]を譲り受け、西鉄軍として経営していたが、同年限りで解散している[注 3]。, 戦後すぐの1946年6月には西鉄はノンプロチームを立ち上げ、1948年には都市対抗野球で優勝するなど、アマ球界では強豪チームとなっていた。西鉄初代社長の村上巧児は「戦後の福岡に明るい話題を提供したい」との思いから1949年初めに戦前の西鉄軍を復活させ、再びプロ野球チームを持とうとするが、西鉄軍が解散で球団消滅扱いになっていた事もあって、1949年3月に日本野球連盟から復帰申請を却下されている。, ところが、1949年暮れにプロ野球再編問題が発生した。1リーグ体制だった連盟がセントラル・リーグとパシフィック・リーグの2リーグに分裂。これを契機に村上は、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り[3]、福岡県福岡市で西鉄クリッパース(にしてつ-、Nishitetsu Clippers )を結成。11月26日に発足、パ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)。, 1月下旬に運営会社西鉄野球株式会社を設立登記した[注 4]。当初は西日本新聞社と共同で球団を設立しようとしたが、これには頓挫。西日本新聞は西鉄と同じ福岡県を本拠地として西日本パイレーツを立ち上げ、福岡県にプロ野球チームが2球団出来ることになった。, 選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チームから初代監督となる宮崎要を始め大津守、深見安博、河野昭修、塚本悦郎ら、八幡製鐵の鬼頭政一ら、星野組の新留国良ら九州地方のノンプロ選手に加え、佐賀県出身で読売ジャイアンツの川崎徳次、福岡県出身で前年度南海ホークスで20勝を挙げた武末悉昌、同じく福岡出身の野口正明ら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。川崎の移籍に関しては、巨人との契約が残っていたこともあり、当初巨人が移籍を認めず難航したが最終的に移籍させている。, シーズンはチームがアマチュア出身の選手が中心だったことや、エースと期待された川崎が初登板の毎日オリオンズ戦で3回に肘を故障するなどが災いし、7球団中5位に終わる。, 同じ福岡を本拠地とする西日本と比べると、西日本がドル箱の巨人戦などを抱えていたこともあって、人気、観客動員数の面で西鉄が下回っていたが、西日本も初年度のチーム成績は8球団中6位と西鉄同様に低迷、また西日本新聞がプロ野球の経営には素人で、福岡市での主催試合を自前で興行できずに、収益を興行師に持ち逃げされることもあり経営が安定せず、シーズン中の8月には選手への給料が遅配するなど経営悪化が進んでいた。6月に既に西日本の経営悪化の事実をつかんだ西鉄は西日本新聞がいずれ球団経営を手放すであろうと見て、パイレーツの吸収合併をもちかけ、9月に正式に合併調印している[注 5]。川崎徳次の提案で、次期監督には巨人の総監督で、水原茂の復帰に伴う排斥問題が起きていた三原脩を迎え入れようとするが、元からの西鉄選手の反発もあり、三原は当初は総監督に据えられ、宮崎要が選手兼任のまま監督を1952年まで続けた。, 1月30日、西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズ(にしてつ-、Nishitetsu Lions )となる(球団名変更は3月1日)[注 6]。西日本からは、後の黄金時代の主力となる関口清治・日比野武が加入。当初は旧クリッパーズ出身選手の反発が強く、球団上層部からも「クリッパーズの選手を使うように」と介入してくるが、三原は反発せずにクリッパーズの選手を使い続けることで、クリッパーズ出身選手が使えない事を証明させ、後にそれらの不満分子の選手を他球団に放出したり、解雇している。首位の南海と18.5ゲーム差の2位に終わる[4]。, シーズン途中に、契約が難航していた東急フライヤーズの大スター大下弘を深見安博、緒方俊明とのトレードで獲得。このシーズンは、首位の南海と8.5ゲーム差の3位。, Bクラスの4位に終わるも、中西太がホームラン王・打点王・最多安打。トリプルスリーも達成している。川崎徳次が最多勝・最優秀防御率を獲得。三原は1954年時には1951年ライオンズ発足時にいた34選手のうち、3/4にあたる26名を解雇や他球団に移籍させ、大幅に入れ替えている。, 西鉄が開幕から11連勝で首位に立つが、途中8月22日から10月5日にかけて26勝1敗[注 7]とした南海に追い上げられ一時首位に立たれるなど、南海と激しい首位争いとなったが、西鉄が残り1試合となった10月11日の阪急戦に勝利したことで、西鉄の初のパ・リーグ優勝が決定する。最終的に西鉄は90勝、南海は91勝だったが引き分け数の差で西鉄が勝率で上回った。このシーズンは2番打者豊田泰光の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(大下弘〈22本〉、中西太〈31本〉、関口清治〈27本〉)を記録するなど、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録。しかし、日本シリーズでは中日ドラゴンズに3勝4敗で敗れる。, 前年とは逆に開幕から南海が10連勝するが、序盤から西鉄との首位争いとなり25度に渡って首位が入れ替わる状況であった。6月4日の対近鉄戦で大津守が球団初のノーヒットノーランを達成。 8月24日以降は南海が首位を明け渡さず、南海は日本プロ野球記録の99勝で、前年に続き90勝だった西鉄に9ゲームをつけて優勝、西鉄は2位に終わる。, 4月15日から6月の一時期を除いて南海が一貫して首位を守り、最大7.5ゲーム差9月上旬の時点でも南海が2位の西鉄に7ゲーム差をつけていた。同月下旬の南海との首位攻防4連戦で西鉄が3勝1分とし、9月30日には西鉄が一時首位に立ち、その後も南海と首位が入れ替わる状況だったが、10月6日の対阪急戦に西鉄が勝利したことで2年ぶりにリーグ優勝達成。南海と西鉄は共に96勝だったが、引き分け数の差で西鉄が勝率を上回った。読売ジャイアンツとの日本シリーズは4勝2敗で勝利し、初の日本一達成。, この年も南海との首位争いとなるが、7月下旬から8月にかけて西鉄は対南海戦7連勝を含む14連勝を記録し、この年の南海との対戦成績も15勝7敗と勝ち越した事もあり南海に7ゲーム差をつけて、10月13日に東映フライヤーズダブルヘッダーに連勝したことで、2年連続3度目のリーグ優勝を達成[9]。2年連続の対戦となった巨人との日本シリーズは負けなしの4勝1引き分けで巨人に勝利し、2年連続2度目の日本一達成。, 南海が新人の杉浦忠が前半戦だけで20勝3敗と活躍をみせて3年連続で開幕から首位を独走。一方西鉄は4月は12勝5敗と好スタートを見せたものの5月は9勝10敗1分け、6月は12勝10敗ともたつく。7月22日からの大阪球場での南海との直接対決3連戦に全敗し、最大11.5ゲーム差をつけられた。しかし後半に入ると杉浦は調子を落とし、稲尾和久が後半戦のチーム36勝のうち31勝に絡む鉄腕ぶりをみせる。9月27、28日には6厘差で南海との首位攻防2連戦となり、27日は先発の杉浦と途中からリリーフの稲尾との投げ合いで10回を引き分けとし、28日には連投の先発の杉浦を打ち崩して初回で降板させるなど7対2で勝利し、西鉄が首位となり、10月2日の対近鉄ダブルヘッダーに連勝したことで、3年連続で序盤から首位を走った南海を逆転しての優勝達成となった。3年連続の対戦となった巨人との日本シリーズでは3連敗の後、稲尾の好投で4連勝を飾る。, 稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西・豊田・仰木彬・高倉照幸らの好選手を擁し「野武士軍団」と呼ばれた。, 中西、大下、関口らの故障もあり、投手陣も稲尾以外は島原幸雄が12勝しただけで2桁勝利投手がなく、4位に終わる。三原は監督を辞任し、大洋ホエールズの監督に就任。西鉄の次期監督には川崎が就任。, この年も中西が故障で32試合の出場にとどまり、稲尾の出遅れもあり序盤は最下位になるなど低迷、前半戦は5割そこそこの成績で折り返すが、後半にかけ復調した稲尾が20勝を挙げるなど3位となるが、首位の大毎オリオンズや2位の南海に大きく負け越しての結果となった。, 稲尾が序盤から勝利を重ね7月11日には日本プロ野球史上最速の20勝到達となったが、この時点で他の投手全員の勝利数が19勝で稲尾が半分以上を占めていた[12]。稲尾はこの年シーズンの半分以上の78試合、404イニングを投げ日本プロ野球タイ記録となる42勝[注 8]を挙げ、また353奪三振のシーズン日本プロ野球記録(当時)を樹立するが[12]、チームは2年連続3位に終わり、川崎が監督を辞任。シーズン終了後、選手兼任監督の中西、選手兼任助監督の豊田、選手兼任投手コーチの稲尾による「青年内閣」が誕生する。, 前年に続き前半戦最下位から、後半戦は稲尾和久の復調など投手陣がふんばり、3年連続の3位となる。共に故障を抱えながら欠場した中西太と出場した豊田泰光との間がかみ合わず、オフには豊田は国鉄スワローズへ金銭トレードにより移籍。, 序盤から独走状態だった南海に6月には最大14.5ゲーム差をつけられ、オールスター戦直前でも10.5ゲーム差であったが、西鉄が8月に6連勝、9月に7連勝と追い上げて、9月末には3.5ゲーム差として、9月末から1分を挟んで9連勝で一時、南海に並ぶ。10月17日に南海が全日程を終了した時点では1ゲーム差で南海が首位、西鉄は残り4試合を、3勝1分以上で優勝、3勝1敗で西鉄と南海が同率でプレーオフを行い、2勝以下だと南海の優勝となる状況で、10月19、20日に共に対近鉄戦ダブルヘッダーが平和台で行われ、19日の第1戦を17対5、第2戦は3対2でそれぞれ勝利。続く20日の第1戦は5対4のサヨナラゲームで3連勝すると、勝てば優勝となる第4戦では若生忠男と安部和春の継投で2対0で勝利し、5年ぶり5度目のリーグ優勝となり、福岡時代最後のリーグ優勝となった。14.5ゲーム差の逆転優勝は2013年現在日本プロ野球史上最大。日本シリーズでは稲尾が故障を抱えていたこともあり、巨人に3勝4敗で敗れる。, 序盤首位にたつことはあったが、これまで8年連続20勝の稲尾和久が故障で0勝2敗に終わり、井上善夫がノーヒットノーランを含む17勝、田中勉が15勝を挙げるものの、5年ぶりのBクラスとなる5位に終わる。, 8年ぶりに開幕戦に敗れ、序盤から負け越し、前半戦終了時には首位と26.5ゲーム差となったものの、前年未勝利の稲尾和久が13勝、新人の池永正明が20勝を挙げ、3位となる。, 5月12日の南海戦(大阪)で球団史上初の完全試合を達成した田中勉が23勝、11勝ながら最優秀防御率を獲得した稲尾和久など安定した投手陣に比べ、打撃陣は振るわなかった。優勝した1963年同様、首位南海が全日程終了時点で西鉄が4試合を残し、西鉄が4連勝すれば同率で南海とのプレーオフだったが、初戦の東映フライヤーズ戦に敗れて2位に終わる。, 開幕戦から2連続完封勝利を含む5連勝で4月を首位としたものの、5月以降は連敗がつづき8月末には一時5位に転落。打撃陣は低調だったが、この年最多勝となった池永正明ら投手陣の活躍で2位となる。これが西鉄最後のAクラス入りとなった。, 開幕から4連敗。6月には9連敗で、前半戦終了時点で首位の阪急と12ゲーム差の最下位となる。池永正明が2年連続23勝。4年ぶりの5位となる。, 5月に9連敗で中西太が一時監督休養。9月には4位まで上がるものの、最終的には5位でシーズン終了。10月、永易将之が八百長行為を行ったとして永久追放処分となり、これがいわゆる「黒い霧事件」の発端となった。稲尾和久が現役引退し監督に就任。, 開幕直前、前年追放された永易将之が池永正明ら西鉄の6選手[注 9]が八百長行為を行っていたと暴露した。チームは序盤から5勝10敗と低迷、そのうち4勝は渦中の池永正明が挙げた。5月25日にコミッショナー委員会により池永、与田、益田らに永久追放処分[注 10][注 11]が下り、これにより西鉄は戦力を大きく低下させる(詳細は「黒い霧事件 (日本プロ野球)」参照)。投手では東尾修、三輪悟、打者では東田正義、竹之内雅史(トンタケコンビ)ら若手を起用。東尾は防御率5点台ながら11勝を挙げるが、チームは43勝78敗9分、勝率.355、首位のロッテオリオンズと34ゲーム差の球団初の最下位となる。, 巨人から移籍の高橋明が14勝を挙げるが、それ以外は前年2桁勝利の東尾と河原明が共に16敗でリーグ最多敗になるなど、一つ二つ勝っては連敗するという状況が続き、8月21日には高橋善正に完全試合、9月9日には鈴木啓示にノーヒットノーランをたてつづけに記録される。全球団に対し10勝以上挙げることができず15敗以上を喫する負け越し。勝率も前年を下回る.311で首位の阪急とは43.5ゲーム差の2年連続最下位に終わる。, 東尾が300イニングを投げ18勝、加藤初が17勝を挙げ新人王を獲得するが2年連続全球団負け越し。首位の阪急とも32ゲーム差で3年連続最下位。観客動員数も激減するなど経営が悪化、ついに西鉄は球団経営を手放すことになった[15]。, 11月にロッテオリオンズの中村長芳オーナーが球団を買い取り、「福岡野球株式会社」に商号変更。ペプシコ日本法人(日本のペプシコーラ販売会社)に買収させる案があったが、東映フライヤーズの身売り話が出てきたため(翌1973年2月、日拓ホームに身売りされることとなった)、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により破談となった。また、東映の買収を検討していた音響機器メーカーのパイオニアに買い取らせることも選択肢に挙げられたが、こちらも実現しなかった。このため、これらの売却を提案した中村が自ら買収した。資金面強化のため小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発会社の太平洋クラブと提携し、一種の命名権契約で球団名が太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-、Taiheiyo-Club Lions )となる(11月9日のパ・リーグ実行委員会で、会社株式の移動・球団名変更承認を受ける)。, この年からパリーグは前後期制度となる。開幕戦で新外国人のドン・ビュフォードのサヨナラ本塁打で勝利すると4月を10勝3敗で首位としたものの、その後は順位を下げ前期は4位。後期も序盤は好調だったが5位に終わり通年4位。この年から翌年にかけてロッテ監督・金田正一との遺恨対決が話題となった。オフにはメジャーリーグ382本塁打のフランク・ハワードを獲得する[注 12], 期待されたフランク・ハワードは開幕戦に出場しただけで離脱、5月にはアメリカに帰国している。東尾、加藤初らが投手陣が不調の上、打線も安定感がなく、前期3位、後期4位、通年では4位に終わる。シーズン終了後、稲尾は監督を解任される[17]。後任には大洋から江藤愼一をトレードで獲得し、選手兼任監督とした。近鉄から土井正博、日本ハムから白仁天をトレードで獲得。, 54人中17人が新戦力となり、新監督・江藤による打撃重視の豪快な打ち勝つ野球を目指す方針で、土井正博、白仁天らの打線は「山賊打線」と呼ばれ他球団の脅威となり、前期は2位としたものの、後期は打線に疲れが出て4位。通年では8年ぶりとなるAクラス入りで3位となり、土井は本塁打王、白が首位打者、東尾修が最多勝を獲得した。オフ、メジャーリーグで名将として知られるレオ・ドローチャーを監督に招聘、江藤は選手兼打撃コーチという実質的な「降格」発表に江藤が反発、退団してロッテに移籍[18]。, 新監督に就任したレオ・ドローチャーが来日直前に急病で倒れ、春季キャンプは監督不在のまま実施。しかし「オープン戦までには来日できる」「再び健康状態が悪化した」というドローチャー側の二転三転の応答に業を煮やし契約を解除。ヘッドコーチの鬼頭政一が緊急昇格し監督に就任。戦力不足や前年からのゴタゴタの影響もありこの年は前後期とも6位の最下位に終わる。吉岡悟がプロ入り9年目で初の首位打者。10月12日に命名権を持つ冠スポンサーが桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターとなり、球団名が改まることが決定した。, シーズンからクラウンガスライターと提携し、球団名をクラウンライターライオンズ(Crown-Lighter Lions に変更。本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうため省略。同年10月15日にパ・リーグより承認)。しかし太平洋クラブから若干の資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームの右袖には太平洋クラブのロゴマークが付けられる。, 投手陣は大洋から移籍の山下律夫がチームトップの12勝を挙げるものの、エース東尾、前年11勝の古賀正明がそろって不調。打撃陣は本塁打129本はリーグ2位だったが、ボブ・ハンセンの.269がチーム規定打席到達者で最高打率だったなど打線が低迷。前期6位、後期は8月中旬まで2位をキープするなど健闘したものの、最終的には5位に転落。通年では2年連続6位の最下位に終わる。11月のドラフト会議では法政大学の江川卓を指名するものの入団を拒否される。鬼頭監督が辞任し、後任には根本陸夫が監督に就任した。, 真弓明信、立花義家など若手が台頭しレギュラー定着、中日から移籍のウィリー・デービスも打率.293と活躍したものの、23勝した東尾修以外の投手陣の駒不足が露呈。前期は4位。後期は開幕から10試合で0勝7敗3分けで、その後は一時5割まで到達するものの、優勝争いに加わることなく5位。通年では2年連続の最下位は免れ5位。オフ、球団は西武鉄道グループの国土計画に買収されることになる。, レギュラーシーズン終了後の10月12日、廣済堂クラウン[注 13]がライオンズ球団の売却・埼玉県所沢市への移転を発表[19]。国土計画の堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズを買取り、西武ライオンズ(Seibu Lions )となる。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。, 10月17日、球団事務所を東京都豊島区東池袋のサンシャイン60内に開設。10月25日、運営会社の商号を福岡野球株式会社から、現在の「株式会社西武ライオンズ」に変更。12月5日、ペットマーク・シンボルカラーの発表。12月18日当時建設中であった新本拠地球場の名前が西武ライオンズ球場に決定。堤は新球団の目玉にロッテから野村克也と山崎裕之、阪神から田淵幸一を獲得。クラウン時代の77年ドラフトで指名し交渉権を得た江川卓入団にも執念を燃やしたが失敗、これにより読売グループとの関係が悪化した(江川事件)。, 西武ライオンズとして最初のシーズンは、春季キャンプでの調整失敗[注 14]もあり前期は開幕から2引き分けを挟み12連敗を喫するなど最下位、後期も5位で通算成績も最下位であった。しかし、斬新な球場や「がんばれライオンズ」(TBSで関東一円で放送)等のミニ番組を放送してPRに努めた結果観客動員数は前年の77万人から136万人と75%も増えパ・リーグトップに躍り出た。なお西武はこの年以降、一度も最下位になっていない。, 前期最下位、スティーブ・オンティベロスが加入し、打線が強化された後期は9月に首位に立つが終盤6連敗し、後期優勝を逃し結局4位となった。通算でも4位。, 前期は終盤まで優勝を争うもロッテに敗れ2位に終わる。だが後期は失速して5位に沈み、通算では4位。このシーズン限りで根本陸夫が監督を退任した。, この年より監督に就任した広岡達朗の下、チームの改革を実施した。その効果はすぐに現れ、前期優勝を果たす。後期は序盤つまずくと残り試合をプレーオフ対策に費やし、1982年のパシフィック・リーグプレーオフでは後期優勝の日本ハムの江夏豊を攻略し、3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を達成。日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、チームとして24年ぶり、西武としては初の日本一を達成する。, 序盤から首位を独走し始め、86勝40敗4分、2位阪急と17ゲームという大差をつけての2年連続リーグ優勝。日本シリーズは巨人に4勝3敗で勝利し、2年連続日本一を達成。, 田淵や山崎など2連覇を支えたベテラン選手が衰え序盤から低迷し、3位に終わった。このシーズン終了後、田淵と山崎が現役を引退した。, 中日ドラゴンズの田尾安志をトレードで獲得、5年目の秋山幸二がホームラン王を争い投手陣では2年目の渡辺久信、4年目の工藤公康が主力投手となるなど若い力が台頭、2年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズでは阪神タイガースの前に2勝4敗で敗れた。シーズン終了後、広岡監督が自身の健康問題(痛風)などを理由に契約年数を1年残して辞任した。後任には1982年から1984年まで広岡監督の下、バッテリーコーチ(ヘッド格)を務めた森昌彦が就任した。この年のドラフトで、甲子園通算本塁打記録を持つPL学園の清原和博を6球団競合の末[注 15]、交渉権を獲得している。, この時期は投打ともに戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ、清原和博、石毛宏典、伊東勤、辻発彦、平野謙、田辺徳雄、バークレオ、安部理など)がそろい、特に渡辺久信(最多勝利1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源(シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、渡辺智男(最優秀防御率1991年)、鹿取義隆(最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲と呼ばれた秋山・清原の打力が光り、森の任期の1986年から1994年には、1989年を除くすべての年でリーグ優勝し、また1992年までリーグ優勝した年には必ず日本一にもなり、「西武黄金時代」[20]を築いた。, ドラフト1位で入団した清原和博らの活躍で近鉄とのデッドヒートを制し、2年連続のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは広島東洋カープと対戦するが、第1戦で引き分け3連敗とした後、第5戦から日本シリーズ史上初の第8戦までの4連勝で逆転勝利し3年ぶりの日本一に輝く。, 8月5日に球団事務所を現在の西武球場敷地内に移転した。球団の諸施設(事務所・本拠地球場・練習場・合宿所)が全て埼玉県所沢市上山口に集まった(会社の登記上本店は、引き続きサンシャイン60と同地に残る)。, 序盤は清原の不振、辻や渡辺など故障者続出で苦戦するが、徐々に盛り返して8月に首位・阪急を逆転、3年連続のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは巨人と対戦、4勝2敗で勝利し2年連続日本一。シーズンオフにこの年15勝をあげた東尾が麻雀賭博容疑で書類送検され、翌年6月まで出場停止処分となった。, 開幕から謹慎の東尾修の抜けた穴が懸念されたが、開幕すると工藤、渡辺、郭泰源、松沼博久ら安定した投手陣に、この年より一軍出場のバークレオが加わった打線で開幕から貯金を重ねた。29試合目で20勝、6月15日には貯金20としたものの、皮肉にも東尾が復帰して以降は工藤らが不調、郭が故障するなど投手陣が総崩れとなり、それでも6月には2位近鉄に8ゲーム差をつけ、9月に入っても6ゲーム差をつけていたがそこから近鉄の猛追撃を受けた。9月13日に近鉄に勝利し、そこで西武の優勝は決まったかのように見えたが、西武はそこから10試合を4勝6敗として、9月29日には近鉄に1.5ゲーム差に詰められ、10月5日にはゲーム差無しで近鉄に並ばれるなど熾烈な優勝争いとなった。西武も終盤10試合を8勝2敗で乗り切り、10月16日に西武が全日程を終了した時点では、近鉄が残り4試合を3勝以上で近鉄の優勝、2勝以下は西武が優勝という状況だった。近鉄がそこから1勝1敗で、2連勝が優勝の絶対条件となった10月19日の川崎球場でのロッテ対近鉄のダブルヘッダーの第2試合が4対4の引き分けに終わったことにより、2厘差(ゲーム差なし)で西武の4年連続リーグ優勝が決定した。日本シリーズでは4勝1敗で中日に勝利し、3年連続日本一となった。, 序盤から低迷し、7月途中まで3連勝すらない状況であった。シーズン中盤よりオレステス・デストラーデが加入する。後半戦は巻き返し、9月には首位に立つが10月12日の近鉄とのダブルヘッダーでラルフ・ブライアントに4打席連続ホームランを打たれるなどして連敗したのが大きく響き、近鉄に優勝を許しリーグ5連覇を逃した。結果は優勝した近鉄に勝率2厘(0.5ゲーム)差、2位のオリックスに勝率1厘差の3位に終わった。, 3年連続最多セーブ数が一桁だった反省を生かし、リリーフ陣の強化を図った。巨人から鹿取義隆、ドラフトで潮崎哲也を獲得。この2人がリリーフ陣を支え序盤から首位を独走、6月に8連敗した以外は安定感ある戦いで、2位オリックスに12ゲーム差をつけてリーグ優勝を奪回し、日本シリーズでは巨人を4連勝で破り2年ぶりの日本一を達成した[注 16]。, 開幕から8連勝を果たした。序盤は首位を独走するが、中盤からは調子を上げてきた近鉄との一騎討ちとなった。しかし、9月に12連勝して近鉄を突き放し2年連続のリーグ優勝を飾る。日本シリーズでは山本浩二監督率いる広島と対戦し、先に2勝3敗で王手をかけられるも第6・7戦で勝利し4勝3敗、逆転で広島を破って2年連続日本一。, 6月に近鉄を抜いて首位に出るとそのまま独走し、3年連続リーグ優勝、日本シリーズでも野村克也監督率いるヤクルトを4勝3敗で破り3年連続日本一に輝いた[注 17]。, デストラーデがメジャー復帰のため退団、攻撃力低下が懸念されたものの、日本ハムとの争いを制して4年連続リーグ優勝、しかし日本シリーズではヤクルトに3勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、福岡ダイエーホークスと秋山幸二、渡辺智男、内山智之と佐々木誠、橋本武広、村田勝喜による3対3の交換トレードが成立する。また、この年からそれまで禁止されていた所属選手のCM出演が解禁となり、その第1弾として清原がエースコックのスーパーカップのCMに起用された。, オリックス、近鉄、ダイエーとの優勝争いになるが西武が9月に抜け出すとそのままリーグ優勝、パ新記録のリーグ5連覇を果たした。しかし、日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗れ2年連続のシリーズ敗退。森監督はこの年限りで勇退した。, 東尾修が監督に就任しデストラーデが復帰したが、石毛や工藤といった黄金期の主力メンバーが次々とダイエーに移籍し戦力が低下、残った主力もベテランが増え成績が低迷、序盤は優勝争いに加わっていたが、イチローを擁する首位オリックスの独走を許す。またロッテにも抜かれ、オリックスと12.5ゲーム差、ロッテと0.5ゲーム差の3位に終わり連続優勝も途絶えた。辻が戦力外通告され、球団はコーチとして慰留したが、現役続行を希望したため退団しヤクルトへ移籍した。, 序盤から低迷しBクラスをさまよっていたが、2年目の西口文也が最多勝のキップ・グロス(日本ハム)より1勝少ない16勝をあげ活躍。6月に渡辺久信がノーヒットノーランを記録したがチームの状態は上がらず黄金期を支えていた郭・石井丈裕が未勝利に終わり田辺・佐々木の絶不調などあったが、終盤の若手が奮起し猛攻で最終的には62勝64敗4分、負け越しではあったが2年連続の3位。不動の4番として活躍した清原がシーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。, 松井稼頭央・大友進・髙木大成・石井貴・豊田清といった若手の台頭もあり2連覇中のオリックスを突き放し、マジック1で迎えた試合では鈴木健のサヨナラホームランで3年ぶりにリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で敗れ日本一を逃した。, 西武球場がドーム球場化工事の一部を施され、西武ドームに改称。チームは7月に首位日本ハムに10ゲーム差となり、その後日本ハム、ダイエー、近鉄との熾烈な首位争いを制しリーグ2連覇を達成する[注 18]。日本シリーズでは、横浜ベイスターズと対戦し下馬評は西武有利と予想されたが[21]、2勝4敗で敗れた。ドラフトでは、この年の高校野球春夏連覇を果たした横浜高校の松坂大輔を1巡目で指名し日本ハム、横浜との競合の末、抽選で松坂の交渉権を獲得している。, 西武ドームのドーム球場化工事が完成。ルーキーの松坂は1年目にして最多勝となる16勝をあげ、新人王に選ばれる。松坂への関心もあって観客動員数とテレビ中継が増加した。しかし、チームはこの年に優勝したダイエーに一歩及ばず、ダイエーと4ゲーム差の2位でシーズンを終えた。, 前年に続きダイエーに一歩及ばず、首位ダイエーと2.5ゲーム差の2位。しかしオリックスには6年ぶりに勝ち越した。同年秋のドラフトで系列企業のプリンスホテル硬式野球部から, の3人を獲得。松坂世代の2人は「高卒で社会人野球加入した選手は3年間ドラフト指名不可能」の規則で2001年まで指名不可能だったが、プリンスホテル硬式野球部の廃部に伴い救済措置・特例でプロ入り。, 松坂が3年連続の最多勝となる15勝、西口が14勝、来日2年目の許銘傑が11勝をあげ活躍するも、優勝した近鉄と6ゲーム差、2位のダイエーとは3.5ゲーム差の3位と3年連続で僅差で優勝を逃した。この年を最後に東尾監督が勇退し、シーズンオフ、伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため伊原春樹作戦・守備走塁コーチが監督に昇格、伊東は総合コーチ兼捕手に昇格となった。, 開幕直後から首位を独走し、2位の近鉄・ダイエーに16.5ゲーム差をつける大差でリーグ優勝を果たす[22]。しかし日本シリーズは巨人に4連敗を喫した[23]。個人記録では10月2日にアレックス・カブレラが日本プロ野球タイ記録(当時)の年間本塁打55本を記録。同日松井稼頭央が年間長打数の日本記録を更新した[24]。, この年の西武の開幕戦は西武主催試合だが、西武ドームではなく札幌ドームで行った。これはNPBが全国各地の主要6都市(札幌、東京、名古屋、大阪、広島、福岡)で開幕戦を行うことを目的とした他、札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるコクドが携わっていたからである。, 西武は札幌ドームを翌2003年から準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを計画していた。ところが2002年のシーズン開幕前に、当時東京ドームを本拠地にしていた日本ハムが2004年から北海道に移転することにより札幌ドームを本拠地として使用する計画を発表した。上記の企画をしていた西武は一旦はこれに難色を示したものの、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化に同意した。しかし、結局2003年は当初20試合程度の予定であった西武の主催試合は6試合しか行われず、2004年以降は、西武の札幌ドームでの主催試合は行われていない[注 19]。, 日本ハムは札幌移転の2004年以降も公式戦の年間数試合を準本拠地として東京ドームで開催しているが、西武は東京ドームでの日本ハム主催試合に関しては、日本ハムの札幌ドーム移転前の2003年9月28日の試合の後、2015年4月7日・8日に2連戦が行われるまで途絶えていた[注 20]。, ダイエーと優勝を争ったが投手陣の不振が響き、最終的にダイエーと5.5ゲーム差の2位でシーズンを終えた。同年シーズン終了直前に伊東勤が現役引退を表明し、同時に監督就任を承諾。伊原監督は退任し、オリックスの監督に就任した。, 伊東勤が、総合コーチから監督に昇格。松井のメジャー移籍。開幕から主砲のカブレラが長期離脱、投手陣でも先発・リリーフで主力投手が年間通して働けなかったものの投打に渡り全員野球ができた結果、レギュラーシーズンは総合2位。この年導入されたプレーオフの第1ステージにおいて日本ハムを2勝1敗で破り、続く第2ステージではダイエーと対戦。2勝2敗のタイで迎えた第5戦は9回に同点に追いつかれ、なおも2死2、3塁のピンチでレギュラーシーズン三冠王の松中信彦を迎え撃つ(ただし松中はこの5試合で1本塁打含む2安打と不振だった)。ここでランナーが帰れば目前まで迫ったリーグ優勝を逃し、逆にダイエーのサヨナラ逆転リーグ優勝を許してしまう大ピンチであったが、松中を打ち取り同点で切り抜け、延長戦に入る。そして延長10回に勝ち越し、そのまま勝利し、最終成績3勝2敗で破り2年ぶり20回目の優勝を果たす。日本シリーズでは中日と対戦し先に王手をかけられるものの、4勝3敗で12年ぶりの日本一に輝いた。この年、経営改善策の一環として本拠地・西武ドームの施設名称と二軍のチーム名称について命名権を売却することとなった。企業向け通信料金一括請求サービスを主たる事業としているインボイスが取得に名乗りを上げ、12月29日に二軍の命名権を3年契約で取得することに合意した。, シーズンから二軍の球団名を「インボイス」、球場名を「インボイスSEIBUドーム」とすることを発表した。レギュラーシーズンは総合3位、プレーオフでロッテに敗れた。シーズンオフ、当時の親会社コクドの事業不振に加え、コクドの系列会社で現在の親会社である西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により財務体質の悪化が進行したため、西武グループの経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を2004年の球団の新規参入を楽天と争って敗れたライブドアなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件であったため交渉はまとまらず、結局2005年も西武ライオンズとして引き続き経営された。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ2005年シーズンオフに再び球団売却を検討するとしていたが、当時西武グループ経営改革委員会委員長を務めていた諸井虔が売却に反対して計画が立ち消えとなり、2006年以降も球団を保有することとなった。2005年11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来、25年ぶりの開催となった(以後、毎年同日に開催する)。, この年のオフには、リリーフの中心として活躍した抑えの豊田清がFA宣言して巨人に移籍、中継ぎの森慎二がポスティングシステムでメジャーリーグのタンパベイ・デビルレイズに移籍した。, 日本ハムとのシーズン1位争いの末、最終戦までもつれるがわずか1ゲーム差で2位に終わった。プレーオフでは第1ステージで福岡ソフトバンクホークスに1勝2敗で敗退となった。オフに、エースの松坂大輔がボストンレッドソックスに移籍し、同年12月2日、西武は任期満了となったインボイスに代わり人材派遣・介護サービス大手のグッドウィル・グループ(現:テクノプロ・ホールディングス)と5年間の命名権取得契約に合意し、西武ドームを「グッドウィルドーム」、二軍のチーム名称を「グッドウィル」に変更することを発表、同月4日の実行委員会で正式に承認され2007年1月1日から改称した。, 1月17日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が埼玉県庁を訪問し、上田埼玉県知事に2008年より球団名に地域名を入れる方針であることが報告された。この段階では「埼玉ライオンズ」もしくは「所沢ライオンズ」が最有力候補であったが、「武蔵国の西部」として地域名を表現する球団会社名の「西武ライオンズ」も候補になっていた。また、2008年以降、さいたま市の埼玉県営大宮公園野球場で一軍の公式戦やクライマックスシリーズを開催する方針であることも伝えられた。, チームは交流戦で10連敗を記録するなどして、その後も連敗するなど低迷。9月26日、対ロッテ戦に敗れた時点で1981年以来26年ぶりのBクラスが確定し、連続Aクラスの日本プロ野球記録(25年連続Aクラス)が途切れ、首位日本ハムと14ゲーム差、最下位オリックスと2.5ゲーム差の5位に終わった。シーズン最終戦の直前、伊東は不振の責任を取り辞意を表明し、シーズン終了と同時に監督を退任した。, 11月6日、2008年より「埼玉西武ライオンズ」と球団名を変更することをプロ野球実行委員会に申請し、2007年11月14日のプロ野球オーナー会議で承認され、球団名が正式に変更された。これにより、保護地域である埼玉県の球団であることを明確にし地域密着を図った。, この年には二軍チームと球場の命名権契約を結んでいたグッドウィル・グループにおいて、子会社であるグッドウィルの違法派遣などの不祥事が発覚したことから、12月にグッドウィル・グループからの申し入れと双方合意により命名権取得契約を解除することが決定された。2008年1月8日、正式に命名権契約の解除が発表され、1月9日より、本拠地名称が「西武ドーム」、二軍のチーム名称が一軍同様「埼玉西武ライオンズ」となることが発表された。, 1月1日付で球団名を埼玉西武ライオンズに変更(運営会社は「株式会社西武ライオンズ」のまま)。渡辺久信が二軍監督から一軍監督に昇格し、黒江透修をヘッドコーチに、大久保博元を打撃コーチにするなどコーチ陣を一新した。その結果、打撃力がアップし、渡辺はNo Limit打線と名付けた。8月11日には西鉄クリッパース創設以来通算4000勝を達成。これは日本プロ野球では6球団目(2リーグ分裂後にできた球団の中では初)の記録であり、2リーグ分裂後の4000勝は読売ジャイアンツに次いで2球団目である。4月に首位になって以来一度もその座を明け渡さず、9月26日、埼玉西武ライオンズとなって初めての年で4年ぶり21回目のリーグ優勝を決めた。クライマックスシリーズでは、日本ハムとファイナルステージで対戦。4勝2敗で2004年以来、4年ぶりの日本シリーズ出場を決めた。巨人との日本シリーズでは、先に巨人に2勝3敗で王手をかけられたもののその後連勝し、4勝3敗で4年ぶりの日本一を達成する。アジアシリーズでは決勝戦の台湾の統一ライオンズ戦をサヨナラ勝ちで初優勝を達成した。彩の国功労賞を受賞。, 1月1日、公式ホームページにて、チームカラーがこれまでのライトブルーから紺(レジェンド・ブルー:西鉄の黒と西武の青の合体)に変更され、ペットマーク、チームネームロゴ、ユニフォームも変更されることが発表された(ただし、球団旗およびマスコットは変更しない)。1月28日、新ペットマークおよびチームネームロゴを用いた公式戦用新ユニフォームが発表された。この年より西武ドームの3塁側をホームとすることも発表されている[25]。昨シーズンの守護神であったアレックス・グラマンの故障離脱などにより、リリーフ投手に安定感がなく、リーグワーストの14試合のサヨナラ負けを喫する。それでも終盤には帆足和幸が4試合連続完投勝利するなど先発投手陣が踏ん張り、楽天やソフトバンクなどと激しくAクラス争いをするが最終的な順位は4位に終わった。前年日本一からBクラスへの転落は球団として50年ぶりとなった。ドラフト会議で花巻東高校の菊池雄星との交渉権を阪神、ヤクルト、楽天、中日、日本ハムとの6球団による競合の末に獲得に成功した。, 前半はリリーフ投手が安定し、主力選手の故障が相次ぎながらも前半戦を首位で折り返した。だが終盤にリリーフ投手陣が崩壊して失速したため、優勝したソフトバンクにわずか2厘差(ゲーム差なし)の2位に終わった。クライマックスシリーズはファーストステージでロッテに2連敗し、敗退した。ドラフトでは1位希望の早稲田大学の大石達也を横浜、楽天、広島、オリックス、阪神との6球団による競合の末に獲得した。, 東日本大震災による計画停電の影響を受け、4月中は本拠地西武ドームでの試合を自粛することとなった[注 21][注 22]。セパ交流戦の後半から失速し、8月終了時点で最大借金15を経験して最下位に低迷する。しかし9月は19勝5敗2分の成績で[26]、クライマックスシリーズ出場権をめぐる3位争いに加わった。10月18日の最終戦前まで4位であったが最終戦で勝利し68勝67敗9分で勝率.50370となり、前日まで3位だったオリックスが同日に敗戦して69勝68敗7分、勝率.50365となってシーズンを終了したため勝率を5糸(0.5毛)上回り、シーズン3位が確定しクライマックスシリーズ出場を決めた[27]。クライマックスシリーズではファーストステージで日本ハムに2連勝するが、ファイナルステージではソフトバンクに3連敗で敗退した。オフにはFA移籍で帆足和幸がソフトバンクに、許銘傑がオリックスにそれぞれ移籍した。, 5月1日には2007年に死去した稲尾和久の背番号「24」を永久欠番とすることを発表[28]、7月1日の西武ドームでの対日本ハム戦にはメモリアルゲームとしてこの試合に出場した選手全員が稲尾の背番号である24を着用した[29]。

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