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1: 風吹けば名無し 2020/11/03(火) 06:14:22.28 ID:Etl/TOlha 1位竹下 2017年限りで戦力外 2位風張 2020年限りで戦力外 ←New! 現役引退選手のお知らせ 2020年プロ野球ドラフト会議について 現役引退選手のお知らせ チームのニュース一覧 選手プロフィール 監督・コーチ 吉田 大喜(よしだ だいき、1997年 7月27日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属する大阪府 茨木市出身のプロ野球選手(投手)。 右投右打。 青木 宣親(あおき のりちか、1982年 1月5日 - )は、宮崎県 日向市出身のプロ野球選手(外野手)。 右投左打。東京ヤクルトスワローズ所属。愛称はノリ(Nori) 。. 結局、現役選手として最後に出場した試合は、9月26日のイースタン・リーグ対ロッテ戦であった 。12月2日付で、npbから自由契約選手として公示 。 現役引退後. 村上 宗隆(むらかみ むねたか、2000年 2月2日 - )は、熊本県 熊本市出身のプロ野球選手(内野手)。 右投左打。東京ヤクルトスワローズ所属。 変化球の多い日本人投手の攻め方の研究を欠かさないなど、勉強熱心でもある[94]。ただし、左翼手の守備については、ソフトバンクに移籍した後の週刊ポスト2020年2月14日号でアルフレド・デスパイネとの比較で「バレンティンもセ球団のコーチから走者が二塁にいたら『レフトの打球は全部ホームに還ってこい』と言われていたほど」と報じられている[95]。また、飯田哲也は日刊ゲンダイのコラムで「2011年のヤクルト入団当初は、むしろ上手な方だったが、ホームランを打つごとに意識が打撃のみに傾いて、守備では横着するようになってしまった」と評している[96]。, バレンティンをスカウトしたヤクルトの編成部次長の奥村政之によれば、本塁打を期待しての入団ではなく、2010年7月にバレンティンを初めて見た3A[注 5]では、3試合観戦して「肩の強さが強烈な印象に残った」と述べ、打撃では走者一塁の場面で右方向への進塁打を放ち、3Aはメジャーへのアピールの場で派手なプレーをしたがる選手の多い中、「状況に応じた打撃ができることがチーム打撃で得点を重ねるヤクルトにぴったりだった」と述べている。奥村は入団するまではバレンティンの本塁打は1本も見なかったとしている[97]。, アメリカのベースボール・アメリカ社刊の「プロスペクト・ハンドブック」(2006年版)ではシアトル・マリナーズ11番目の期待の選手として挙げられており、マイナーリーグで彼ほど楽しみな選手はいないと紹介された[5]。, ヤクルト在籍9年間のうち15試合の出場に留まった2015年を除いた8年間全てでシーズン30本塁打をマークした[98]。, スイングのフォロースルーが大きく、振り切ったバットを捕手の頭に当てて捕手を負傷退場させる事故を2016年だけで2度起こしている(7月24日の中日杉山翔大、8月2日の広島石原慶幸)。これについて、打者と捕手のどちらが気を付けるべきか、議論が巻き起こった[99][注 6]。, 2017年シーズン終了時点で球団最多の通算5度の退場処分を受けている。審判の判定に対しての暴言や侮辱行為が3度、暴力や危険行為が2度である[100][101][102]。2017年は3度の退場処分により計2試合の出場停止を科されたため、事態を重く見た球団は2018年度の契約書に球団初となる「退場もしくは出場停止で罰金を科す」という条項を明文化し、退場処分を受けた場合はNPBとは別の罰金を徴収する方針を決めた[103]。なお、2018年度は1度も退場処分を受けなかった。, チーム内での愛称は、幼い頃から家族に呼ばれていたココ(愛称の由来は「頭がココナッツに似ているから」[104]だという)[105]。またココという愛称にちなんで、「CoCo壱番屋」に模したボードを掲げて応援するスタイルがスワローズファンに定着している。その他にも、女子プロレスラーのアジャ・コングに容姿が似ていると言われており、2011年には激励のメッセージを送られている[106]。なお、アジャ・コングに似ていると言われていることは本人も認識しており、2016年には「アジャ・コング? ウラディミール・ラモン・バレンティン(Wladimir Ramon Balentien, 1984年 7月2日 - )は、オランダ王国 キュラソー島 ウィレムスタット出身のプロ野球選手(外野手)。 右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。. 監督・コーチ 投手 捕手 内野手 外野手 スタッフ. 青木 宣親(あおき のりちか、1982年1月5日 - )は、宮崎県日向市出身のプロ野球選手(外野手)。右投左打。東京ヤクルトスワローズ所属。愛称はノリ(Nori)[3]。, NPB史上2人目のシーズン200安打達成者およびNPB史上唯一の2度のシーズン200安打達成者(2005年、2010年)であり、NPB歴代4位のシーズン安打記録(209安打)を保持する(いずれも2019年シーズン終了時点)。2019年シーズン終了時点で、NPB歴代最高通算打率.326を誇る[4]。 投手成績 1軍 打撃成績 1軍 投手成績 ファーム 打撃成績 ファーム. 村上 宗隆(むらかみ むねたか、2000年2月2日 - )は、熊本県熊本市出身のプロ野球選手(内野手)。右投左打。東京ヤクルトスワローズ所属。, 九州学院高等学校では1年から一塁手のレギュラーに定着。チームメイトに2年先輩の伊勢大夢を擁した夏の熊本大会で優勝し甲子園出場、4番打者として出場するも無安打で初戦敗退であった。1年秋より捕手を務め、2年夏と3年夏ともに熊本大会決勝まで進むも、ともに秀岳館に敗れ甲子園に出場したのは1年夏の1回だけであった。通算52本塁打[2]。その並外れた長打力から一部からは「肥後のベーブ・ルース」と言われていた[3]。, 2017年10月26日のドラフト会議において、抽選で清宮幸太郎を外した東京ヤクルトスワローズと読売ジャイアンツと東北楽天ゴールデンイーグルスの3球団が競合し、抽選の末に東京ヤクルトスワローズが交渉権を獲得し[4]、11月12日に年俸720万円で仮契約を結んだ。背番号は55[5]。高校時代の守備位置は捕手と一塁手であったが、プロ入り後は三塁手にコンバートされ、登録も内野手での入団となった[6]。12月22日には山田哲人とウラディミール・バレンティンに、弟子入りを志願することを明かしていた[2]。, 2018年は4月終了時点で、イースタン・リーグでは28試合で4番三塁手として先発出場し、打率.311、3本塁打、20打点という成績を残した[7]。6月には打率.315、6本塁打、14打点、7盗塁で月間MVPを受賞したが、ヤクルトの高卒新人が月間MVPを受賞するのは2011年の山田哲人以来であった[8]。7月12日のフレッシュオールスターゲーム(はるか夢球場)に4番・一塁手で先発出場を果たし、1安打1盗塁を記録した[9]。9月16日に一軍昇格、同日の広島東洋カープ戦に6番・三塁手で先発出場し、2回に初打席初本塁打を記録した[10]。初打席本塁打は同年8月19日の山本祐大(DeNA)以来64人目で、ヤクルトでは2016年9月29日の廣岡大志以来2年ぶり8人目となった。また、高卒新人の初打席本塁打は2017年の細川成也(DeNA)以来7人目で、チームでは廣岡に次いで2人目となった[11]。なお、この本塁打は2000年生まれ選手の初本塁打となった。この日の試合に関して「初回のエラーを取り返そうと思って打席に入った。プロ初打席がホームランになってよかった」とコメントをしていた[12]。同年は一軍での安打はこの本塁打のみに留まったが、二軍での成績は打率.288、17本塁打、70打点、16盗塁と高卒新人としては異例の好成績を残した。11月27日、イースタン・リーグにて優秀選手賞、新人賞、努力賞を表彰された[13]。, 2019年はオープン戦から結果を残し、6番・三塁手で自身初の開幕スタメンを勝ち取った。19歳1カ月で開幕戦に先発し、1959年の西岡清吉(21歳10カ月)の球団記録を塗り替えた[14]。5月11日の巨人戦で2リーグ制後では史上18人目となる高卒2年目以内での2桁本塁打となる10号本塁打を打ち、チーム38試合目での到達は高卒2年目以内では最速となった[15]。5月12日の巨人戦でプロ入り初の4番に座った[16]。6月以降は、守備難や坂口智隆の離脱のため、ほぼ一塁手として出場した。オールスターゲームには三塁手部門でファン投票1位で選出され、ホームラン競争にも出場した[17][18]。8月12日の横浜戦では山﨑康晃から25号逆転サヨナラ2ランホームランを放ち、最年少記録を更新[19]。8月22日に、高卒2年目の選手としてはセ・リーグ初となるシーズン30号本塁打を放った[20]。9月4日の広島戦でのタイムリーで87打点に到達し、中西太が持つ高卒2年目以内シーズン最多打点日本記録を超えた[21]。また9月21日に36号本塁打を放ち、中西以来となる高卒2年目以内におけるシーズン最多本塁打日本記録に並んだ[22]。上述の通り本塁打や打点に関する数々の高卒2年目以内、未成年での記録を塗り替え、最終的にチーム唯一となる全143試合に出場を果たし、36本塁打、96打点(どちらもリーグ3位)を記録した一方、打率はリーグ最低となる.231、三振数に至っては2004年に岩村明憲が記録した173を上回る184を記録し、セ・リーグ記録を更新した[23]。前述の実績が認められ、2019年の最優秀新人(新人王)に輝いた[24]。, 2020年は3年目にして開幕戦から4番サードでの起用となった。6・7月は打率.339、6本塁打、37打点と開幕から好成績を残し球団最年少の20歳での月間MVPに選ばれた[25]。また、7月に31打点を挙げ、1991年6月に広沢克実が記録した球団の日本人月間打点記録(29打点)を更新した。11月5日のタイガース戦2回にヒットで出塁すると二盗・三盗・本盗と1イニング3盗塁に成功した。1イニング3盗塁成功は、セ・リーグでは1953年の土屋伍郎(国鉄)以来67年ぶり3人目、NPB全体でも1979年の島田誠(日本ハム)以来41年ぶり17人目の記録となった[26]。, スイングスピードの速さと桁外れの飛距離が特徴[27]。逆方向への長打力を備え[28]、柳裕也は、2019年の成長ぶりを「インコースに落としておけばよかったのに、シーズン途中から肘を畳んで内角を打てるようになった」と評価している[29]。, 50メートル走6秒1、捕手での二塁送球タイムは最速1秒84[30]。内野手として守備力が課題となっている[31]。, デッドリフト200kg、ベンチプレス110kg、右手握力72kg、左手握力71kg[32]。, http://www.sanspo.com/baseball/news/20171223/swa17122305020001-n1.html, http://www.sanspo.com/baseball/news/20171027/swa17102705030002-n2.htmlaccessdate=2020-05-23, https://www.nikkansports.com/baseball/news/201710260000596.html, https://www.nikkansports.com/baseball/news/201711120000453.html, https://www.nikkansports.com/baseball/news/201712200000392.html, “【球界ここだけの話(1258)】ヤクルトD1・村上宗隆、イースタンで不動のレギュラー 三木2軍チーフコーチが魅力を語る”, http://www.sanspo.com/baseball/news/20180502/swa18050213000003-n1.html, https://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20180711-OHT1T50122.html, https://www.nikkansports.com/baseball/news/201807120001028.html, https://www.daily.co.jp/baseball/2018/09/16/0011646408.shtml, “ヤクルト村上、高卒新人ではチームで2人目の快挙 - プロ野球 : 日刊スポーツ”, https://www.nikkansports.com/baseball/news/201809160001211.html, https://www.sanspo.com/baseball/news/20190329/swa19032905040002-n2.html, https://www.nikkansports.com/baseball/news/202011050000778.html, https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/853993, 3要素重なり珍現象…ツバメを“カモ”と呼べぬ中日・柳『ヤクルト戦9先発』の怪 「最初は良かったけど…」, 捕手でもとにかく走りたがる? ドラフト“外れ1位”で3球団が欲しがった肥後のベーブ・ルース、村上宗隆のスゴさ - スポーツ - ニュース, https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/255605, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=村上宗隆&oldid=80314018, NPBに於ける打撃タイトルは、首位打者、最多本塁打、最多打点、最多盗塁、最多安打、最高出塁率. 3位山川 2019年限りで戦力外 4位寺田 2016年限りで戦力外 5位中元 2016年限りで戦力外 6位土肥 2017年限りで戦力外 7位原泉 2017 知っているよ、プロレスラーだろ」と答えている[107]。, 応援歌は同じオランダ領アンティル・キュラソー島出身のヘンスリー・ミューレン(その後高橋智にも使用された)のものが使用されている。なお、二人は故郷では近所同士で、互いに面識がある[105]。また2013年、2017年のWBCでは監督と選手の関係になった。, 元チームメイトのラスティングス・ミレッジとは大の仲良しで、お互いに尊敬しプレーに刺激を与える関係となっている[108]。他球団の選手では、シアトル・マリナーズ時代のチームメイトであった横浜DeNAベイスターズのホセ・ロペスやオリックス・バファローズのアダム・ジョーンズと仲が良い[109]。, またヤクルトスワローズのマスコット、つば九郎とも仲が良く、ブログにも度々登場する。, キュラソー名物のイグアナ食が大の好物。日本ではイグアナを食べる文化が存在しないため、バレンティン曰く、食感が似ているフライドチキンも好物である。首脳陣から試合中のプレーの件で説教を受けている際にもフライドチキンを口にしたことがあり、球団がフライドチキン禁止を検討した程だという[110]。豚骨ラーメンも好物であり、バレンティンは神宮球場の試合が終わると『伝丸 青山店』に向かう常連客である。ただ2017年6月時点では、体重を気にして食す回数が減ったという[111]。, 2013年オフにはキリンビールの新ジャンル「澄みきり」のCMに出演した[112][113]。, シーズン60本塁打の日本新記録を達成する前にシーズン本塁打記録(55本)を持っていた王貞治を非常にリスペクトしており、ソフトバンクへの移籍時に球団会長であった王貞治と一緒のチームで野球ができることを喜んでいた。週刊ベースボールのインタビューで「2013年はシーズン60本塁打をマークして、王さんの55本を超えることができたんだけど、そのときに、よりリスペクトしたよ。(自分が記録を更新してみて)難しさを実感したからね」と述べている[114]。, 2019年5月25日の中日戦での山田の盗塁時にフォロースルーが大野捕手に直撃した際には、送球妨害を取られている。, Reds acquire Balentien from Mariners Cincinnati ships reliever Manuel to Seattle in deal, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/07/05/kiji/K20110705001147820.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/14/kiji/K20110514000816340.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20121216-1060279.html, Kingdom of the Netherlands at the 2013 World Baseball Classic, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/06/12/kiji/K20130612005998310.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/04/kiji/K20130804006356770.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/22/kiji/K20130822006467830.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/24/kiji/K20130824006474030.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/27/kiji/K20130827006497000.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/28/kiji/K20130828006503890.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130906-1185064.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20131121-1221293.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/11/26/kiji/K20131126007088720.html, Bernadina en Jones in selectie voor Premier 12, Definitieve selectie Kingdom of the Netherlands voor de Premier12, バレンティン選手がソロホームラン!マツダオールスターゲーム2016第1戦(ヤフオクドーム), Homerun King Balentien en All-Star Jurrjens naar WBC, Wladimir Balentien in All-Tournament Team, Yadi, Balentien among All-Classic Team standouts, ヤクルト・バレ、8月2本目のグランドスラム「切れるかと思ったけど入ってくれて良かった」, ヤクルト“30発トリオ”完成 バレ4年連続30号 バット折れてもバックスクリーンへ, http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20110502-769506.html, https://full-count.jp/2016/08/29/post43828/, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/04/05/kiji/20170405s00001173136000c.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/05/24/kiji/20170524s00001173241000c.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/09/30/kiji/20170930s00001173358000c.html, http://web.archive.org/web/20130915055157/https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/06/kiji/K20110906001563450.html, http://web.archive.org/web/20120720061639/http://www.sanspo.com/baseball/news/120129/bsf1201290504001-n2.htm, ズズッとすするエルドレッド(広島)。マックオンリーの偏食・クルーンらに見る「助っ人選手と日本食」, ソフトバンク・W.バレンティン インタビュー 勝ちへの渇望 「ホームランは魅力的で特別」, 2011 Japan Central League Batting Leaders, 2012 Japan Central League Batting Leaders, 2013 Japan Central League Batting Leaders, 2014 Japan Central League Batting Leaders, 2015 Japan Central League Batting Leaders, 2016 Japan Central League Batting Leaders, 2017 Japan Central League Batting Leaders, 2018 Japan Central League Batting Leaders, 2019 Japan Central League Batting Leaders, ヤクルト・バレンティン、250本塁打到達 在籍8年目、史上3位のスピード達成 - スポニチ Sponichi Annex 野球, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ウラディミール・バレンティン&oldid=80365442, 150本塁打:2014年8月21日、対読売ジャイアンツ戦(明治神宮野球場)、6回裏に, 250本塁打:2018年8月26日、対横浜DeNAベイスターズ19回戦(明治神宮野球場)、3回裏に, シーズン50本塁打:2013年8月27日、対中日ドラゴンズ19回戦(明治神宮野球場)、7回裏に, シーズン60本塁打:2013年10月4日、対阪神タイガース24回戦(明治神宮野球場)、6回裏に, 200本塁打:2016年9月18日、対中日ドラゴンズ最終戦(明治神宮野球場)、8回裏に, 300本塁打:2019年9月6日、対読売ジャイアンツ21回戦(明治神宮野球場)、1回裏に. 宮本 慎也(みやもと しんや、1970年 11月5日 - )は、大阪府 吹田市出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球コーチ。 元日本プロ野球選手会 会長。. 選手成績. !わかふじ国体では軟式野球の山口県代表に選出されている。, 四国アイランドリーグの入団テストを受験し、香川オリーブガイナーズに入団。リーグ2位の24盗塁を記録した。, 26犠打でリーグ最多犠打を記録。秋には松山でキャンプ中の東京ヤクルトスワローズと対戦し、攻守に活躍を見せた。監督の古田敦也の目に止まり賞賛された[要出典]が、ドラフト指名にはいたらなかった。, 当時のリーグ新記録となる40盗塁で、リーグ盗塁王のタイトルを獲得した。再び秋季キャンプ中のヤクルトと対戦し、監督の高田繁から評価を受ける[1]。11月19日のドラフト会議でヤクルトから6巡目で指名を受けた。四国アイランドリーグから内野手がドラフト会議で指名を受けたのは、三輪が最初である。香川では通算262試合に出場し打率.236(912打数215安打)・0本塁打・54打点・90盗塁。, 香川時代の三輪について、当時香川の投手コーチだった加藤博人は、「人一倍努力家だった」「オフの夜に屋外で壁当ての練習をして、近隣の住民から苦情が来たことがある」とのちに述べている[2]。, イースタン・リーグで80試合に出場し、二塁手としてレギュラーの梶本勇介に次ぐ50試合、遊撃手としても15試合守備についた。元々送球に難があるとされており、特に遊撃手としては失策が多かった。課題とされた打撃面は、打率.283、出塁率.349と1年目としては上々の結果を残した。イースタン・リーグ2位となる24盗塁を記録した。, イースタンリーグでの成績が評価され、6月26日に一軍選手登録されたが、翌日抹消された。7月9日に再び一軍登録され7月10日の横浜戦で代走で初出場、盗塁を試みるも失敗に終わった。イースタンリーグでは主に二塁手として出場し、盗塁王(36盗塁)と最高出塁率(.397)の二冠となり、打率もリーグ3位の.321であった。シーズン終了後、宮崎でフェニックスリーグに参加していたが、10月19日に三度目の一軍登録を受け、同日の中日ドラゴンズとのクライマックスシリーズ第3戦に代走として出場した。, 一軍キャンプスタートとなり、オープン戦でも主に代走として起用された。4月9日の対阪神タイガース戦に1番レフトでスタメン起用され、最初の打席で安藤優也からプロ入り初安打を放った。内野手登録だが、2010年は左翼手としての出場しかなかった。, スタメン出場は1試合に終わったが、故障した福地寿樹にかわり、代走の切り札としてリーグ2位の39回出場し、守備では外野全ポジションにサード、セカンドと5つのポジションを守った。この年、パ・リーグ球団からトレードの申し入れがあったことが後に明らかにされている[3]。, プロ入り初の二塁打をマークするなどと自己最多65試合に出場。代走としてチームトップの29回出場し、守備では昨年と同じく5つのポジションを守った。, 4月9日戸田球場で行われたファーム練習試合・新潟アルビレックスBC戦にてプロ入り初の「2番・捕手」でスタメン出場。同年の4月12日一軍に登録。4月17日の対中日戦で9回に畠山和洋の代走として出場したが、チームが同点に追いつき延長戦に入った際に選手を使い果たし、ベンチに一塁を守ることができる選手が一人もいなくなってしまったため、急遽プロ入り初めて一塁手として守備に就いた。4月25日の対広島戦に記録したプロ入り初打点が、「人生初」のサヨナラヒットとなった[4]。, 自己最多となる87試合に出場した。20安打、7打点も自己最多となる。日本シリーズでは第4戦の8回に代打として出場した(結果はサードゴロ)[5]。, 6月26日の中日戦、4-4の延長11回1死満塁の場面で代打で登場すると、センターに3年ぶりのサヨナラヒットを放った[6]。, 出場は16試合にとどまり、オフの契約更改後の会見では「結果を残さないと(試合に)出れないのは当たり前。仕方がないと思っている」と述べた[7]。この年5月のプロ野球実行委員会では、独立リーグ出身者の国内FA権取得に際して大学・社会人出身者と同じ条件(一軍登録日数で7年)を認めるかにつき、三輪の取得を念頭に置いた議論がおこなわれた[8]。香川に入る前に社会人の軟式野球部に所属していたことから、三輪が取得する場合は社会人出身者と同じ扱いとなることが確認されたが[8]、一軍登録日数が条件に届かず、2017年シーズンでの資格取得には至らなかった。, 7月30日、独立リーグ出身選手では初となる国内フリーエージェント資格を取得した[1][3][9]。出場機会は前年から微増し、2年ぶりの安打と打点を記録した。, イースタン・リーグの試合には出場していたものの一軍昇格の機会がないままシーズンを過ごし、9月17日に今シーズン限りで現役引退することが発表された[10]。9月22日の対巨人23回戦終了後に引退セレモニーが行われ(一軍登録されていなかったため試合には出場せず)、この日の試合が降雨コールドゲームだったこともあり、引退挨拶の後にはホームベース上のブルーシートにヘッドスライディングを二度披露した[11]。結局、現役選手として最後に出場した試合は、9月26日のイースタン・リーグ対ロッテ戦であった[12]。12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示[13]。, ヤクルト球団の職員として、2020年から広報部に配属。twitter上の球団公式アカウントの運営などに携わる一方で、球団が東京都内の小学校で実施しているボールの投げ方教室で講師を務めている[14]。, 内野手・外野手の全ポジションをこなせるユーティリティープレイヤー。二軍では捕手として出場したこともある。, 50m5秒7と俊足が持ち味であり、香川時代では通算261試合に対し90盗塁をマークし、イースタン・リーグでは2009年盗塁王(36盗塁)を獲得している。, 以下の数値は四国アイランドリーグplusウェブサイト掲載の各シーズン選手成績による[15]。, https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/08/10/kiji/20180810s00001173032000c.html, “元愛媛投手コーチ・加藤が語る「360°モンキーズ杉浦」獲得の理由と、忘れられないヤクルト・三輪正義のこと”, https://www.sanspo.com/baseball/news/20180804/swa18080405000003-n1.html, https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/12/04/kiji/20171204s00001173262000c.html, http://www.sanspo.com/baseball/news/20170510/swa17051008000004-n1.html, https://www.sanspo.com/baseball/news/20180731/swa18073105020003-n1.html, https://www.nikkansports.com/baseball/news/201909170000207.html, https://www.nikkansports.com/baseball/news/201909220001239.html, https://www.nikkansports.com/baseball/column/baseballcountry/news/201912120000273.html, “【球界ここだけの話(1932)】華麗なる転身! 東京ヤクルトスワローズ公式サイト。試合速報やスケジュール、チケット情報、イベント情報、ファンクラブ案内、グッズ情報、チームや選手の最新情報を掲載しています。 投手成績 1軍 打撃成績 1軍 投手成績 ファーム 打撃成績 ファーム. 選手登場曲 メディア出演情報 出場選手登録 公示 2020春 … 選手情報top 選手名鑑. 東京ヤクルトスワローズの選手のプロフィール情報を掲載 - 日刊スポーツ新聞社のニュースサイト、ニッカンスポーツ・コム(nikkansports.com)。 ウラディミール・ラモン・バレンティン(Wladimir Ramon Balentien, 1984年7月2日 - )は、オランダ王国キュラソー島ウィレムスタット出身のプロ野球選手(外野手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。, 2011年 - 2013年にかけてセ・リーグ史上2人目となる3年連続本塁打王獲得[2]。また、2013年にNPBのシーズン最多本塁打記録(60本)、シーズン最高長打率記録(.779)を樹立し、その記録保持者。, 初めて野球をしたのは5歳の頃で[3]、12歳で地元のリトルリーグのチームに入った。, 2000年7月9日に、16歳でメジャーリーグ・ベースボールのシアトル・マリナーズと契約[4]。, 2001年はルーキー級アリゾナリーグ・マリナーズに所属し、打率.206、本塁打0本、打点9に終わる[5]。, 2004年シーズン途中にアテネオリンピックの野球オランダ代表に選出された。シーズンではA級ウィスコンシン・ティンバーラトラーズで76試合に出場し、打率.277、15本塁打、46打点、10盗塁を記録した。8月にA+級インランド・エンパイア・シックスティシクサーズ(英語版)へ昇格し、10試合に出場した。, 2005年は昨年同様にA+級インランド・エンパイアでプレーし、自身初となるシーズン20本塁打以上となる25本塁打を記録した[5]。, 2007年はマイナーリーグのオールスターゲームに相当するオールスター・フューチャーズゲームに2年連続出場。その時点で打率.328、20本塁打、66打点と好成績を残した。9月4日にメジャー初昇格を果し、同日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャーデビュー。8回に代打で打席に立ち左中間へ二塁打を放つ。9月26日のクリーブランド・インディアンス戦でメジャー初の本塁打を記録した[5]。僅か3試合の出場に終わるも、打率.667、1本塁打、4打点、出塁率.500と結果を残した。, 2008年は開幕をマイナーリーグで迎えたが、ブラッド・ウィルカーソンやグレッグ・ノートンらのDFAに伴い4月30日にメジャー昇格。71試合で打率.202、7本塁打、24打点、出塁率.250を記録するも、79三振と出場試合数より多い三振数を喫した。, 2009年は56試合に出場するも打率.213、4本塁打、13打点、出塁率.271にとどまり、7月25日にマイケル・ソーンダースの昇格に伴ってDFAとなり、ウェイバー公示された。, 2009年7月29日にロバート・マニエル(英語版)とのトレードでシンシナティ・レッズに移籍した[6]。10月2日の対ピッツバーグ・パイレーツ戦が、ヤクルト入団前としては最後のメジャーリーグ出場試合となったが、この時に放った推定飛距離151メートルの本塁打は「メジャーでは二度と出ない」とも言われた[5]。2球団を渡り歩き、96試合の出場で打率.234、7本塁打、24打点、出塁率.305を記録した。, 2010年は傘下のAAA級ルイビル・バッツで116試合に出場し、打率.282、25本塁打、78打点、12盗塁だった。オフの11月6日にマイナーリーグFAとなった。, 2010年11月18日に肩の強さと状況に応じられるチームバッティングが評価され(後述)、東京ヤクルトスワローズと2年契約(3年目は球団オプション)合意発表[7]。FA権取得まで球団の許可なく日本国内の他球団への移籍を禁じる項目が盛り込まれていた[8]。, 2011年開幕戦の読売ジャイアンツ戦(宇部市野球場)で「6番・右翼手」で先発初出場し、初打席は三振に倒れるが、7回の第3打席で初安打となる左越二塁打を放った[9]。5月13日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)では1試合3本塁打を記録し[10]、5月は7本塁打でリーグトップタイ、長打率、出塁率でリーグトップの成績を挙げるなどの活躍で月間MVPを初受賞した[11]。前半戦はリーグトップの19本塁打を放ち、オールスターゲームにはセ・リーグ外野手部門のファン投票・選手間投票共にチームメイトの青木宣親に次ぐ第2位で選出された。6月以降は低打率に苦しみ本塁打のペースも落ちたものの、セ・リーグでは唯一の30本台である31本塁打で本塁打王を獲得した。前述の他に76打点、出塁率.314を記録するも、打率.228、三振131は規定打席到達者の中でワースト記録だった。規定打席到達者中、打率最下位の本塁打王は日本プロ野球史上3人目であった。, 2012年シーズン前半は開幕当初から打撃好調で6月16日まで打率部門でトップだったものの、後半に入ると極度の打撃不振に陥り、7月以降の打率は2割を割り込んだ。7月28日の試合で張りを訴え8月1日に検査の結果、右臀部の肉離れと診断され[12]、翌日登録抹消となった[13]。2年連続でオールスターゲームにも選出された。最終的に106試合の出場で打率.272、31本塁打、81打点、出塁率.386を記録し、球団初となる2年連続、さらに2リーグ制後初となる規定打席未到達での本塁打王を獲得した[14]。また、打点と出塁率は共にリーグ2位となった。オフにはチームメイトのラスティングス・ミレッジを1票差で上回り、自身初となるベストナインにも選出された[15]。12月15日に翌年の球団オプションが行使され、さらに2014年からの3年総額750万ドル+出来高での契約を結んだ[16]。, 2013年シーズン開幕前の3月に開催された第3回WBCのオランダ代表に選出された[17][18]。キューバ戦で負傷し途中退場となり[19]、その後左内転筋肉離れと診断された[20]。, シーズンの開幕戦は二軍で迎えた。シーズン初出場は13試合目の4月12日の巨人戦で[21]、復帰から2戦続けて4打数0安打に終わり[5]、今季初本塁打は復帰から4試合目の4月16日の中日ドラゴンズ戦(明治神宮野球場)で2打席連続で右越本塁打を放った[22]。この時点で本塁打トップのトニ・ブランコとは6本差をつけられ、その後も最大で10本差をつけられていたが[3]、この後バレンティンがハイペースで追い上げることになった[21]。6月は打撃部門で月間三冠の活躍で3年連続で3度目の月間MVPを受賞した[21]。6月8日の北海道日本ハムファイターズ戦から、同月12日の福岡ソフトバンクホークス戦(ヤフオクドーム)にかけて2四球を挟んで、日本プロ野球タイ記録の「4打数連続本塁打」を記録した[23]。ブランコと1本差で迎えた6月27日の対DeNA戦でブランコが1本塁打、バレンティンが2本塁打で、共に25号本塁打でバレンティンが今季初めてトップに並び[3]、7月2日の対DeNA戦でバレンティンが今季初めて単独トップとなると、以降のセ・リーグの本塁打数はバレンティンの独走状態となり[5]、7月13日に30号本塁打をリーグ一番乗りをした頃より日本記録である55号越えが現実味を帯びてくるようになった[3]。オールスターゲームでは選手間投票で選ばれ3年連続出場した[24]。8月は月間本塁打の日本プロ野球新記録を樹立するなど本塁打を量産した。8月4日の広島東洋カープ戦(明治神宮野球場)で球団最速記録[25]の通算100本塁打[26]。8月22日の巨人戦(明治神宮野球場)で球団シーズン本塁打新記録の45号本塁打を記録[27]。8月23日の広島戦(明治神宮野球場)で47号本塁打で自身初の100打点と[28]、球団タイ記録の月間13本塁打を記録した[29]。8月27日の中日戦(明治神宮野球場)で2本塁打を記録しシーズン50号本塁打を達成した[注 1]。シーズン111試合目での50号本塁打は日本プロ野球史上最速、同時に門田博光に日本プロ野球タイ記録の月間16本塁打とした[30]。翌28日の同戦で日本プロ野球新記録の月間17本塁打[31]。8月は月間18本塁打の新記録と合わせて打率、打点でリーグ三冠の成績を挙げ、通算4度目の月間MVPを村田修一と同時受賞した[32]。9月は日本プロ野球、およびアジア野球のシーズン本塁打新記録を達成した。相手チームから勝負を避けられる敬遠や、厳しい内角攻めに遭うようになり[33]、50号本塁打以降の6試合で2敬遠を含む10四球を記録した[3]。9月8日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で7試合、28打席ぶりとなる53号本塁打を放ち[34]、続く9月10日の広島戦(明治神宮野球場)で54号本塁打を放ち日本プロ野球記録に王手をかけた[35]。9月11日の同戦の6回裏に大竹寛から日本プロ野球シーズン本塁打タイ記録で史上4人目となる55号本塁打を放った。シーズン122試合目での達成は史上最速であった[36]。この後の3試合は本塁打が出なかったが、9月15日の阪神タイガース戦(明治神宮野球場)において、1回裏の第1打席に榎田大樹から日本プロ野球シーズン本塁打新記録となる56号本塁打を左中間へ放った[注 2]。続く3回裏の第2打席で榎田から左翼へアジア新記録の[注 3]57号本塁打を放った[37]。10月4日の阪神戦(明治神宮野球場)でランディ・メッセンジャーから60号本塁打を放ち、日本プロ野球史上初のシーズン本塁打60本台とした[38]。最終戦までブランコとの打撃タイトル三冠争いとなったものの、僅かに逆転の可能性が残っていた[39]10月8日のシーズン最終戦の巨人戦(東京ドーム)では満塁の場面で四球を選び1打点を挙げるが、3回の守備から交代してシーズンを終えた。130試合で打率.330、60本塁打、131打点、出塁率.455を記録し、本塁打王と最高出塁率の二冠を獲得したが[40]、首位打者は3厘差、打点王は5点差でブランコが獲得し、バレンティンはいずれも2位に終わった[41]。また、シーズン長打率を.779として、ランディ・バースを抜いて日本プロ野球史上最高を記録[42]、2年連続のベストナインと[43]、初のMVPを受賞した。シーズン最下位球団からの受賞は史上初となった[44]。, 2014年は6月までにリーグ2位の18本塁打を記録していたものの、6月14日に持病のアキレス腱痛の悪化で一軍登録を抹消された[45]。その後二軍で調整を続けていたが、7月11日のイースタン・リーグのDeNA戦で実戦復帰した[46]。7月13日のDeNA戦(明治神宮野球場)で一軍に復帰した[47]。オールスターゲームでは3度目のファン投票選出で4年連続選出となった[48]。なお選手間投票ではセ・リーグトップの431票を獲得した[49]。オールスターゲームでは第2戦(阪神甲子園球場)で、大谷翔平から160キロの球を中前安打するなど2安打を記録した[50]。8月21日の巨人戦(明治神宮野球場)で史上4位のスピード記録となる463試合目で通算150本塁打を達成し[51]、9月7日の巨人戦(明治神宮球場)で来日1年目からの4年連続30本塁打に到達した[52]。シーズン終盤になり、ブラッド・エルドレッドと本塁打王争いをしていたが、左アキレス腱の検査の為、球団にシーズン途中での帰国を要求した[53]。規定打席に到達した9月21日がこのシーズン最後の出場試合となり、31本塁打で4年連続の本塁打王にはなれなかった[54]。その後、23日に帰国し[55]、10月1日にアメリカ国内の病院で左膝の手術が行われた[56]。怪我の影響もあり112試合の出場で、打率.301、リーグ2位となる31本塁打、69打点、出塁率.419を記録し、2年連続で最高出塁率のタイトルを獲得した。, 2015年4月24日に一軍初昇格しスタメン出場を果たしたものの、5回の守備で負傷。翌25日に左大腿直筋の肉離れと診断され、出場登録を抹消された[57]。その後アメリカに帰国するなど、予定より離脱が長期化するも、優勝争いが佳境となった9月18日の巨人戦から戦列に復帰し、いきなりホームランを放つと、翌19日は3安打の活躍を見せた。その後は連続打席無安打を続けるなど調整不足を露呈したが、チームは優勝を果たし初めて優勝を経験することとなった。しかし、このシーズンは僅か15試合の出場で、打率.186、1本塁打、6打点、出塁率.327と、来日以降記録していたシーズン30本塁打以上が4年連続で途切れた。オフの10月12日に第1回WBSCプレミア12のオランダ代表候補選手36名に選出され[58]、10月20日に第1回WBSCプレミア12のオランダ代表選手28名に選出された[59]。, 2016年は7月8の中日戦(明治神宮野球場)でジョーダン・ノルベルトから左腕上部に死球を受けた際、激昂してジョーダンに向かってヘルメットを投げつけた[60]。乱闘には至らなかったが、危険行為と見なされ退場処分となった[61]。2年ぶり5度目となるオールスターゲームにも選出され、第1戦(ヤフオクドーム)に東北楽天ゴールデンイーグルスの則本昂大からソロ本塁打を放った[62]。9月18日の中日戦(明治神宮野球場)で又吉克樹からソロ本塁打を放ち、日米通算200本塁打を達成した[63]。132試合に出場し、打率.269、共にリーグ4位となる31本塁打、96打点を挙げ、出塁率.369を記録した。, 2017年開幕前の1月31日に第4回WBCのオランダ代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした[64]。メジャーリーガーもいる中で四番打者を任され[注 4]、3月12日の日本戦では石川歩から一時同点となる本塁打を記録した。3月15日のキューバ戦では1試合2本塁打を記録し、コールド勝ちに貢献した[65]。結果、決勝トーナメント進出(ベスト4)に大きく貢献し、2次ラウンド全6試合で打率.591、3本塁打、10打点、出塁率.654を記録し、E組MVPを受賞した[66][67]。3月20日の準決勝プエルトリコ戦では初回に一時先制となる本塁打を記録し、延長10回にはエドウィン・ディアスからビーンボールを投じられ激昂し、乱闘になりかけた[68]。これについて試合後に「わざとだとは思わなかったけど、みんな感情的になっていた。必死にプレーしていればああいうことはある」、またメジャー復帰について尋ねられると「メジャーでもう一度やれるといつも思っている」とコメントした[69]。大会を通して7試合に出場し、打率.615、4本塁打、12打点の大会打撃三冠王を記録し[70]、3月22日にオランダ代表選手では唯一となる大会最優秀外野手となった[71][72]。, シーズンでは開幕から「4番・左翼手」で出場。4月4日の阪神戦(京セラドーム大阪)で3回に藤浪晋太郎からシーズン初本塁打を記録したが、5回に畠山和洋への死球を巡って乱闘となった際に阪神バッテリーコーチの矢野燿大を突き飛ばし、矢野と共に退場処分となった[73]。また、5月24日の広島戦(マツダスタジアム)で空振り三振した際に球審に呟いた言葉が暴言行為と見なされ、このシーズン2度目となる退場処分を受けた[74]。更に、9月30日の中日戦(明治神宮野球場)で見逃し三振した際、球審への抗議として打席に立ち尽くすも抗議は叶わず、去り際にホームベースに土をかけた行為が侮辱行為と見なされ、シーズン3度目となる退場処分を受けた[75]。しかし、8月20日の広島戦(マツダスタジアム)で前日の山田哲人に続く2日連続の満塁本塁打を放ち[76]、9月2日の同じく広島戦(明治神宮野球場)ではファウルゾーンから三塁ランナーを刺す強肩を見せつけ[77]、攻守で活躍を見せた。このシーズンは125試合に出場し、打率.254、アレックス・ゲレーロに1歩及ばずもリーグ2位となる32本塁打、80打点、出塁率.358を記録した。, 2018年はそれまで見られがちであった故障や精神面のムラがなくなったため好調を維持した[78]。2年ぶり6度目となるオールスターゲームに選出され、ホームランダービーにも出場。柳田悠岐、鈴木誠也らを下し、決勝では筒香嘉智と競うも惜しくも1本差で届かなかった[79]。9月4日の時点で33本塁打、113打点の打撃二冠だったが[80]、ネフタリ・ソトが9・10月で14本塁打を放ち[81]、自身初となる打撃二冠とはいかなかった。それでも142試合に出場し、打率.268、リーグ3位となる38本塁打、出塁率.370、そしてリーグトップとなる131打点を挙げ、自身初となる打点王のタイトルを獲得し、チームのリーグ2位に大きく貢献した。2度のシーズン130打点到達は藤村富美男以来、史上二人目の快挙となった。また、4年ぶりの盗塁もマークし、出場試合数が来日1年目以来となる140試合以上(142試合)に出場し、来日初となる600打席(602打席)と500打数(514打数)以上を記録した。, 2019年4月25日の巨人戦(明治神宮野球場)で菅野智之から青木宣親、山田哲人、バレンティンで「3者連続本塁打」を記録した[82]。1ヶ月後の5月26日の中日戦(明治神宮野球場)では清水達也から同じ3人で再び「3者連続本塁打」を記録し、セ・リーグ史上初の「同一シーズンに同じ3人で2度の3者連続本塁打」を達成した[83]。前者は平成最後の、後者は令和初の「3者連続本塁打」となった[84]。5月にはコンディション不良の為[85]、6月から7月にかけては夫人の出産に立ち会う為に登録を抹消されたが[86]、9月6日の巨人戦(明治神宮野球場)で高橋優貴から日米通算300本目となる30号本塁打を放った[87]。最終的には120試合に出場し33本塁打、93打点、出塁率.363を記録した。また、1992年のジャック・ハウエル、古田敦也、池山隆寛以来である「シーズン30発トリオ」をクリーンナップの山田、村上宗隆と共に達成し、実に27年ぶりの快挙となった[88]。シーズンオフにFA権を取得したが、行使することなく12月2日に自由契約公示された[89]。, 2019年12月16日、福岡ソフトバンクホークスに入団することが決定し、公式ホームページでその旨が発表された[90]。年俸は2年総額10億円で、背番号はヤクルト時代と同じ「4」。, 広角に長打を放つことのできる並外れたパワーが持ち味だが変化球に弱く[91]、メジャーでは三振率25.7パーセントを喫するなど確実性に欠けていた[92]。, 足と守備は平均的だが[92]、外野3ポジションを守ることができ、マリナーズ時代にはイチローとチーム1、2を争うといわれたほどの強肩が持ち味[93]。 吉田 大喜(よしだ だいき、1997年7月27日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属する大阪府茨木市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。, 茨木市立白川小学校の5年時に若鮎スポーツ少年団で軟式野球を始める[1]と、中学校時代には学内の軟式野球部に所属した[2]。ちなみに、中学2年時の夏までは内野手だったが、2年時の秋から投手に転向している[1]。, 中学校からの卒業後に大阪府立大冠高等学校へ進学すると、1年時夏の選手権大阪大会で、控え投手[1]ながらチームの全試合(4試合)に登板した。2年時春の大阪府大会では、私立の強豪校(PL学園高校・上宮太子高等学校)を相次いで撃破する[3]など、創部後初めての3位進出に貢献[4]。エースの座をつかんだ2年時夏の選手権大阪大会では、チームを3回戦まで導いたが、後に全国大会の春夏連覇を成し遂げた大阪桐蔭高等学校の前に4 - 9というスコアで敗れた[5]。3年生だった2015年夏の選手権大阪大会では、大阪府立香里丘高等学校との3回戦で毎回三振を奪った末に18奪三振で完投勝利。NPB4球団のスカウトが視察する前で先発した大阪市立汎愛高等学校との準々決勝でも完投勝利を収めるなど、府内の公立高校としては7年振りの準決勝進出に貢献した[2][6]。在学中は甲子園球場の全国大会と無縁であったが、最速140km台のストレートを武器に「公立の星」と呼ばれる[1]ほどの実績を残したことから、大会後にはプロ志望届を日本学生野球協会へ提出。しかし、秋のNPBドラフト会議でどの球団からも指名されなかったこと[2]から、卒業後に日本体育大学へ進学した[2]。, 日本体育大学では、1年時の秋から首都大学野球のリーグ戦7試合に登板すると、3勝1敗、防御率1.73という好成績をマーク。2年時の夏に右肘を痛めながらも、3年時の春からリーグ戦に復帰する[7]と、4年時には先発にもクローザーにも起用。春季リーグ戦では防御率1位(1.23)、秋季リーグの対大東文化大学戦では完封勝利を記録した[2]。また、4年時夏の日米大学野球選手権大会では、日本代表のセットアッパーとして全5試合に登板。全試合を通じて失点を1(自責点を0)にとどめる好投[8]で、代表チームの3大会振り優勝に貢献した[2]。在学中には、リーグ戦通算34試合の登板で、5勝5敗ながら1完投、1完封、防御率1.57を記録。1学年先輩には、自身と同じ右投手の松本航と東妻勇輔がいる。, 大学3年時には卒業後の社会人野球入りを検討していた[9]が、4年時の2019年の秋にプロ志望届を改めて提出したところ、提出後のNPBドラフト会議で東京ヤクルトスワローズから2巡目で指名。契約金7,500万円、年俸1,200万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は28[10]。ヤクルトにはこの年から吉田大成内野手が在籍しているため、入団を機に、報道などでは「吉田喜」[11]、スコアボードではフルネームの「吉田大喜」という表記が用いられている[10]。, 2020年には、春季キャンプを一軍でスタート[12]。オープン戦以降も、レギュラーシーズン開幕直前の練習試合まで、一軍で登板を重ねていた[11]。開幕一軍入りには至らなかった[13]ものの、7月17日の対広島東洋カープ戦(MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島)で、先発投手として一軍公式戦にデビュー[14]。2試合の先発登板をはさんで、8月7日の対横浜DeNAベイスターズ戦(明治神宮野球場)で公式戦初勝利を挙げた[9]。, 最速152km/hのストレート[15]と、大学3年時に投げ方を習得したスプリット[2][15]が武器。カーブやチェンジアップも投げる[15]ほか、大学時代には、投球の幅を広げるためにスライダーの投げ方も身に付けた[2]。, 日本体育大学硬式野球部のOB(中日ドラゴンズの元投手)で、同部投手コーチの立場で大学生時代の吉田を指導した辻孟彦によれば、入学の時点で投球フォームにほとんど欠点が見られなかったという。もっとも、身体が硬く、投手としては細身の体型だったこと[8]から、入学後のトレーニングで体幹の強化や右股関節の機能性向上を図った。その結果、ストレートの球速や球威が高まっている[16]。, 実父は、大阪府茨木市内で「すみれスポーツ」という野球用具店を営んでいる。元々は家業(仏事関連の会社)を引き継いでいたが、草野球好きが高じて、大喜の中学生時代(2010年)に「すみれスポーツ」を開業。大喜がヤクルトへ入団した時点(2020年)では、東京都内に1ヶ所、奈良県内に2ヶ所の用具工場を擁している[17]。大喜も、日本体育大学への在学中から、実父が手掛けたオーダーグラブを試合で使用[9][18]。2020年の時点で「すみれスポーツ」のグラブを使用するNPB選手は自身しかいないため、同年の一軍公式戦で初勝利を挙げた際には、「自分が活躍することで(すみれスポーツの)宣伝になれば良い」とのコメントを残している[9]。, 大阪府立大冠高校から日本体育大学へ進学したのは、大冠高校時代の監督が日本体育大学硬式野球部のOBである縁で、辻が吉田の投球を視察していたことにもよる。辻によれば、投手コーチとして2015年の春に同部へ復帰してから、自身のスカウティングによって入部に導いた高校生投手は吉田が初めてとされる[19]。, “2019ドラフト会議【ドラフト】ヤクルト2位 吉田大喜(日体大) 大学4年間で大きく成長した「公立の星」/プロ野球ドラフト会議”, https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=103-20191017-15, https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/10/16/kiji/20191016s00001089028000c.html, https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/1508022.html, https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/1507577.html, “気づけばドラフト上位候補に浮上。ブレずに着実に成長を遂げた職人肌の右腕吉田大喜(日本体育大)【時は来た!ドラフト指名を待つ男たち 大学生編】”, https://number.bunshun.jp/articles/-/841696?page=2, https://www.nikkansports.com/baseball/news/202008070001274.html, https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/06/11/kiji/20200611s00001173100000c.html, “ヤクルト・ドラフト2位吉田喜“痛い”3回2失点 嶋の送球が後頭部に直撃するアクシデントも”, https://www.nikkansports.com/baseball/news/202006180000399.html, https://www.nikkansports.com/baseball/news/202007170001234.html, https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/01/28/kiji/20200127s00001173407000c.html, https://number.bunshun.jp/articles/-/841696?page=3, https://www.sanspo.com/baseball/news/20200812/swa20081213520003-n1.html, “ヤクルトドラ2 吉田が入寮、「自家製グラブ」持参 父が店長のスポーツ店アピール”, https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/01/05/kiji/20200105s00001173235000c.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=吉田大喜&oldid=79445777. 青木 宣親(あおき のりちか、1982年 1月5日 - )は、宮崎県 日向市出身のプロ野球選手(外野手)。 右投左打。東京ヤクルトスワローズ所属。愛称はノリ(Nori) 。. ヤクルト球団の職員として、2020年から … 妻は元テレビ東京アナウンサー・フリーアナウンサーの青木佐知(旧姓:大竹)、2児の父。, 日向市立日知屋小学校に入学した後に1年生時から正式に全日知屋スポーツ少年団の一員となり、6年生時には投手として県大会優勝を果たす[5]。しかし日向市立富島中学校ではチームがそれほど強くなく、県大会の上位進出は果たせなかった[5]。宮崎県立日向高等学校では2年生時からエースとなり、3年生時の1999年春季九州大会では県予選を勝ち抜くが、2回戦で東海大五高に9回裏サヨナラ負け。同年夏の宮崎大会は準々決勝で鵬翔高に敗れた[5]。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科(現・スポーツ科学部)に指定校推薦で進学。本人は「とにかく勉強するよりなかった」と語っている[6]。高校時代に肩を壊したため、大学では野手へ転向した[5]。, 早大の同期には鳥谷敬・比嘉寿光・由田慎太郎、1学年上には和田毅、1学年下には田中浩康、2学年下には武内晋一・越智大祐がおり、後に6人全員がプロ入りした強力打線「1番・田中、2番・青木、3番・鳥谷、4番・比嘉、5番・武内、6番・由田」でチャンスメーカーとして活躍し、早稲田大学野球部史上初のリーグ戦4連覇に貢献している。2002年の3年春の東京大学1回戦では5打数5安打5打点1四球の活躍で、1試合6得点という六大学野球記録を達成した。同年の東京六大学野球秋季リーグ戦では、打率.436で首位打者のタイトルを獲得した。同リーグにおいて、ベストナインを3回受賞している。通算58試合出場で190打数63安打(打率.332)、0本塁打、20打点。この大学時代、鳥谷敬を視察に来たヤクルトスカウト陣が足の早いセンターであった青木に着目し、ドラフト指名に繋がった[7]。, 2003年11月19日に行われたドラフト会議でヤクルトスワローズから4巡目指名を受け、入団した。背番号は「23」。, 2004年は一軍での出場は10試合に終わったものの、二軍では打率.372でイースタン・リーグ首位打者と最高出塁率を獲得。リーグ2位の21盗塁を記録した。同年のフレッシュオールスターゲームではMVPを獲得した。, 2005年は稲葉篤紀の移籍により手薄になった外野手争いで台頭。開幕から中堅手としてレギュラーに定着。2番を打っていた序盤は低打率で三振を量産していたが、徐々に安打が出始め、6月からは1番に定着した。10月6日にはセ・リーグ記録の192安打を更新。10月11日、イチロー以来史上2人目となるシーズン200安打を達成。最終的には210安打に届かなかったものの、プロ野球新記録のシーズン169単打を記録するなど、202安打を放って最多安打、打率.344でセ・リーグ首位打者、新人王にも選出された。, 2006年開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。同大会では中堅手として6試合に出場して日本の優勝に貢献。, シーズンでは7月21日に行われたオールスターゲームの第1戦目(明治神宮野球場)ではMVPを獲得(フレッシュオールスターMVP経験者によるオールスターMVP受賞は簑田浩二(阪急)・石井浩郎(近鉄)以来となる3人目。翌日にも藤本敦士(阪神タイガース)がMVPを受賞し、4人目のダブル受賞者となっている)。オールスター第1戦目でMVPを獲得した際は、松坂大輔から先頭打者安打、二盗成功後に三盗失敗、平凡な右翼フライを落球(打者はSHINJO(日本ハム))、吉井理人から本塁打を打つなどした。2006年1月1日に放送されたスポーツマンNo.1決定戦の「ショットガン・タッチ」で世界新記録となる13m60cmを記録。パワーフォースでもNo.1を獲得し、総合3位に輝いた。シーズンでは首位打者こそ逃したものの、両リーグトップの192安打を放ち2年連続の最多安打のタイトルを獲得。課題であった三振が減少、四球が増加し、本塁打や打点、出塁率も大幅に向上した。得点圏打率.399はリーグトップ。また、41盗塁を記録して赤星憲広の6年連続を阻止し、自身初の盗塁王を受賞した。, 2007年7月10日に出場373試合目での史上最速500本安打を達成。チームメイトのアレックス・ラミレスとはシーズン終盤までハイレベルな首位打者争いを繰り広げ、リーグ4位の80四球と警戒されたが、打率.346で2度目の首位打者と初の最高出塁率のタイトルを獲得。安打数はリーグ1位のラミレスの204安打に次ぐ193安打を記録。2005年に記録した自身のセ・リーグシーズン最多安打記録(202安打)はラミレスに抜かれた。また3年連続100得点以上となる114得点でリーグ最多得点を記録。本塁打も20本の大台に乗せ、長打率は初めて5割を超えた。2番が犠打の少ないアダム・リグスから犠打の多い田中浩康に変わったことにより出塁後に犠打による進塁のパターンが増えたため、盗塁数は41から17と激減した。前年まで3番だった岩村明憲の移籍や俊足の飯原誉士の台頭などで、シーズン中は1番だけでなく2番・3番での起用も多かった。古田敦也の引退試合では、古田の前の4番を打った。オフには足の回転を速くする新たなバッティングフォームに変えている。, 2008年5月5日に脇腹痛で初の怪我による登録抹消を経験するが、5月29日に復帰後は着実に安打を積み重ね、例年以上の高打率を記録。同じく杉村繁の指導を受けた経験のある内川聖一と共に首位打者争いを繰り広げた。シーズン途中の8月には宮本慎也とともに北京オリンピックの野球日本代表に選出された。西武から移籍した福地寿樹が1番打者として定着したため、シーズンでは主に3番打者として起用。得点圏打率が前年より下がり、首位打者・最高出塁率も内川に譲ったものの、自己最高の打率.347を記録。規定打席到達者でリーグ最少の47三振と安定感を見せ、チームでは盗塁王に輝いた福地に次ぐ31盗塁も記録した。, 2009年開幕前の3月に開催された第2回WBCの日本代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。同大会では左翼を本職とする選手がいないチーム事情から、経験の少ない左翼手を中心に出場するも、堅実な守備を披露。3番打者として全試合に出場し、37打数12安打・打率.324・0本塁打・7打点の好成績で、大会ベストナインに選出された。3月26日、WBCの活躍により宮崎県知事の東国原英夫から宮崎県民栄誉賞を授与された。, シーズンでは体を痛め調整が上手く出来なかった影響でレギュラー定着以降では初めての大不振に陥り、前半戦を通した打率は.249と大きく低迷。更に怠慢守備も指摘され、一時期は福地との配置転換で左翼手に回される(後述)など苦しんだ。不振に喘ぐ中、ファン投票でオールスターゲームに4年連続で選出され、第1戦では9回に武田久から逆転2ラン本塁打を放って自身2度目のオールスターMVPを獲得。そしてオールスター明けの後半戦からバットを変えるなどの試行錯誤を繰り返した結果、打率4割台と復活を見せ、4番を務めるなどチーム3年ぶりのAクラスの確保、クライマックスシリーズ出場に貢献した。打率は.303と3割以上を保ち、前年苦手としていた得点圏打率も.307を記録し、出塁率.400で自身2度目の最高出塁率のタイトルを獲得した。クライマックスシリーズでも打点を記録するなど活躍したが、3点差の2死一、二塁の場面で岩瀬仁紀の前に空振り三振を喫した。シーズン終了後にテレビ東京のアナウンサー・青木佐知(旧姓・大竹)と結婚し、11月5日に痛みの原因だった両足首三角骨を摘出するために手術を受けた。球団から背番号「1」への変更を打診され続けていたが、ヤクルトの背番号1番はこれまで若松勉、池山隆寛、岩村明憲といった生え抜きスターが背負ってきた名誉ある背番号であるため、青木本人が時期尚早と固辞し続けていた。しかし、12月3日、若松の殿堂入りを祝う会に出席したことをきっかけに、2010年から背番号「1」を背負うことを決意した[8]。, 2010年は監督代行の小川淳司によって3番固定だった打順から再び1番固定に戻ると、例年よりハイペースで安打を重ね、日本プロ野球史上初となる2度目のシーズン200安打を達成(最終的には2005年に記録した202安打を更新し、歴代4位となる209安打を放った)。また自己最高の打率.3585を記録し、自身三度目となる首位打者を獲得すると同時に、若松勉の持つシーズン打率.3583の球団記録を更新。この年は出塁率、OPSにおいても自己最高の数字を記録した。, 2011年は全試合に出場したが、この年より導入された統一球の影響からかシーズン当初より不調が続いた。最終的に安打数こそセリーグ2位の170本を記録したが打率は.292に終わり、6年連続で継続していたシーズン打率3割の記録が途切れた。この年までの日本での通算打率は.329だが、通算4000打数以上が条件である通算打率へのランクインには100打数足りていない(のちに2018年日本球界復帰後達成[9])。10月28日に第1子である長女が誕生[10]。11月10日にはポスティングシステムを行使してのメジャー挑戦を表明[11][12]。12月18日に250万ドルでミルウォーキー・ブルワーズが交渉権を得たことが発表された[13]。, 2012年1月にアリゾナ州メリーベール(英語版)の球団施設でワークアウトを受け、球団首脳のプレーチェックを受けた[14]。17日に交渉が纏まり、総額250万ドルの2年契約(3年目は年俸190万ドルの球団オプション)でブルワーズへの入団が決定[15]。背番号は「7」。それまで着けていた背番号「1」はコーリー・ハートが、「23」はリッキー・ウィークスがそれぞれ着けていたため、それ以外の空き番号から選ぶ必要があった。スプリングトレーニングでは27試合の出場で打率.299、1本塁打、9打点、OPS.801を残し、スプリングトレーニング参加選手最多の4三塁打を記録。4月6日のセントルイス・カージナルス戦の5回に代打でメジャーデビュー。ハイメ・ガルシアと対戦し、1打数無安打に終わった。20日のコロラド・ロッキーズ戦ではメジャー初本塁打かつプロ入り後初となるランニング本塁打を記録[16]。4月は主に代打や守備固め要員として起用されたが、5月から先発での起用が増え、5月下旬からスタメンに定着。6月7日のシカゴ・カブス戦では日本人初となる、サヨナラ本塁打を含む1試合2本塁打を記録した[17]。前半戦は77試合の出場で打率.301、5本塁打、OPS.818、11盗塁の成績を残し、日本人選手としてはイチロー以来となる打率3割での折り返しを達成[18]。後半戦当初は無安打が続き、7月は打率.260に終わるが、20試合連続出塁を記録するなど出塁率は.342を記録。8月以降は復調し、9月28日のシンシナティ・レッズ戦では10号本塁打を含むメジャー移籍後初の3長打を記録し、日本人ルーキー史上3人目の二桁本塁打・二桁盗塁を達成[19]。10月2日のサンディエゴ・パドレス戦で日本人ルーキーではイチロー以来となる30盗塁に到達[20]。後半戦は74試合の出場で打率.278、5本塁打、OPS.763、19盗塁を記録。日本人史上8人目の規定打席に到達し、シーズン通算では打率.288、ナ・リーグのルーキー中4位の出塁率.355、同7位タイの10本塁打、同1位の30盗塁などを記録し、新人王の投票では5位であった。1番打者としての出塁率.353はリーグ2位だった。, 2013年は開幕から1番・右翼手としてスタメン起用され、開幕戦となった4月1日のコロラド・ロッキーズ戦では日本人史上4人目となる開幕戦での本塁打を記録[21]。4月は打率.250に終わるが、5月は14試合でマルチ安打を記録し打率.343と復調する[22]。6月5日のオークランド・アスレチックス戦でNPB/MLB通算1500安打に到達[23]。5月25日のピッツバーグ・パイレーツ戦の第3打席から6月10日のマイアミ・マーリンズ戦の第1打席まで、球団タイ記録となる72打席連続無三振を記録[24]。19日には育休リスト入りし第2子となる長男の誕生に立ち会う[25]。7月8日のレッズ戦でシーズン100安打に到達した[26]。前半戦は88試合の出場で打率.294、4本塁打、出塁率.360、10盗塁の成績を残す。28日のロッキーズ戦でNPB/MLB通算100本塁打に到達[27]。8月10日のシアトル・マリナーズ戦では岩隈久志とメジャー移籍後初対戦するが4打数無安打を喫する[28]。9月7日のカブス戦ではヤクルト時代のチームメイトの林昌勇から安打を放ちシーズン150安打に到達[29]。後半戦は66試合の出場で打率.276、4本塁打、出塁率.350、10盗塁を記録し、シーズン通算では最終的に155試合の出場で打率.286、8本塁打、出塁率.356、リーグ11位の20盗塁の成績を残し、三振率5.9パーセントは両リーグで最も少なく、140本の単打はリーグ最多であった。シーズン終了後には全米野球記者協会ミルウォーキー支部の会員投票によりブランドン・キンツラーと共にチームの“unsung hero(縁の下の力持ち)”に選ばれる[30]。10月29日にチームが翌年の契約オプションを行使[31]。, 2013年12月5日にウィル・スミスとのトレードで、カンザスシティ・ロイヤルズへ移籍した[32][33]。ロイヤルズでは東京ヤクルト入団時と同じ背番号「23」を着用することが12月10日に決定し[34]、登録名は「Norichika Aoki」から「Nori Aoki」へ変更された。, 2014年は開幕から1番・右翼手としてスタメン起用される。4月26日のボルチモア・オリオールズ戦ではチェン・ウェインとメジャー移籍後初対戦[35]。6月10日のニューヨーク・ヤンキース戦では黒田博樹とメジャー移籍後初対戦する[36]。5月下旬から死球による腕や足の痛みに苦しみ[37][38]、5日のカージナルス戦ではヤディアー・モリーナの投手への返球が頭部に当たることもあった[39]。6月17日のデトロイト・タイガース戦では左脚を痛め途中交代し[40]、21日に軽度の肉離れと診断されてメジャー移籍後初の故障者リスト入りする[41]。後半戦から復帰する予定だったが、アレックス・ゴードンの故障に伴い7月11日に復帰する[42]。前半戦は69試合の出場で打率.260、本塁打なし、出塁率.328、7盗塁の成績で折り返す。7月24日のクリーブランド・インディアンス戦ではプロ入り後初の指名打者として出場し、延長14回にサヨナラ安打を記録[43]。8月5日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではロイヤルズ移籍後初本塁打となる満塁本塁打を記録[44]。14日のアスレチックス戦ではNPB/MLB通算500打点を記録[45]。8月24日まではシーズン通算打率.261、出塁率.330を喫し、この月絶好調だったジャロッド・ダイソンの起用に伴い出場のない日もあった。しかし27日のミネソタ・ツインズ戦から9月3日のテキサス・レンジャーズ戦まで6試合連続安打を記録してからは復調[46]。15日にはこの日から3連戦となったシカゴ・ホワイトソックス戦で4安打を記録し[47]、翌日の第2戦でも4安打を記録[48]。さらに翌々日の第3戦でもクリス・セールから3安打を放ち、ジョージ・ブレットが持つ3連戦での球団安打記録を更新[49]。15日からの1週間で14安打、長打3本、打率.636などと活躍して週間MVP受賞が期待されたが、実際の受賞者は先発投手として2勝0敗などを記録したコーリー・クルーバーであった。9月は打率.379と絶好調で、後半戦は61試合の出場で打率.317、1本塁打、出塁率.377、10盗塁の成績を残す。シーズントータルでは、故障の影響もあって打撃面ではメジャー挑戦後最低の成績で、盗塁数も最低の17に留まったが、守備面では初めてDefでプラス(0.2)になった。チームは1勝差で地区優勝には届かなかったがワイルドカードを獲得し[50]、29年ぶりのポストシーズン進出を果たした[51]。, オークランド・アスレチックスとのワイルドカードゲームでポストシーズン初出場。9回に同点犠飛を放ち、チームは延長12回で勝利[52]。ロサンゼルス・エンゼルスとのディビジョンシリーズ第1戦でポストシーズン初安打を記録[53]。第3戦では1985年のフランク・ホワイトとジョージ・ブレットに次ぐ球団史上3人目のポストシーズン全打席出塁を記録し[54]、チームも3連勝でシリーズを突破する[55]。ボルチモア・オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズも4連勝で突破し、チームのポストシーズン8連勝はメジャー歴代最長記録となった[56]。サンフランシスコ・ジャイアンツとのワールドシリーズでは、第1戦は1-7で敗れチームの連勝が止まる[57]。チームは第2戦で29年ぶりとなるワールドシリーズ初勝利を挙げるが[58]、2試合連続無安打で第3戦から先発を外れ[59]風邪も発症[60]。第4戦では代打で出場するも併殺打を喫し[61]、第5戦でも先発を外れ守備のみの途中出場に終わる[62]。第6戦で先発に復帰。2打席目でワールドシリーズ初安打となる適時打を放ち、チームも10-0で勝利し3勝3敗となる[63]。第7戦も先発出場するが3打数無安打を喫し、チームも2-3で敗れシーズンを終えた[64]。ポストシーズン通算成績は41打数8安打で打率.195、出塁率.292、OPS.487、特にワールドシリーズでは14打数1安打で打率.071[65][66]と精彩を欠いた。シーズン終了後にFAとなった[67]。, 2015年1月19日に、年俸470万ドル+出来高の単年契約(翌年の契約は年俸550万ドルの球団オプション)でサンフランシスコ・ジャイアンツと契約を結んだ[68][69]。背番号は、ロイヤルズ時代と同じ「23」で、ベンチコーチのロン・ウォタス(英語版)が着用していた背番号を譲ってもらう形となった[70]。開幕から1番・左翼手としてスタメン起用され[71]、開幕から9試合連続安打を記録[72]。5月25日から27日のブルワーズ戦では3試合で9安打を記録し[73][74][75]、28日のアトランタ・ブレーブス戦まで自己最長となる5戦連続マルチ安打を記録[76]。6月は11日のニューヨーク・メッツ戦まで8試合連続安打を記録し[77]、20日までにリーグ5位の打率.317を記録。オールスターファン投票の中間発表でも外野手部門4位に位置づけるほど好調を維持していたが[78][79]、20日のロサンゼルス・ドジャース戦で右足に死球を受け右足腓骨を骨折し[80]、21日に故障者リストに登録された[81]。7月21日にAAA級サクラメント・リバーキャッツにリハビリ登録され[82]、その後メジャーに復帰。8月9日、シカゴ・カブス戦でジェイク・アリエータから頭部に死球を受け途中交代[83]。12日のヒューストン・アストロズ戦で復帰したが、4回が終わったところでめまいの症状を訴え、5回の守備からベンチに退いた[84]。7日間の故障者リスト入りを経て20日に復帰したものの、その日から5試合連続で三振を喫するなど調子を落とした。そのまま試合に出続けていたが、打率は頭部死球前の.302から.287にまで急降下した。9月5日、練習前に脳震盪のような症状が再発した為スタメンを外れた。その後、数週間のリハビリが必要と診断され休養。シーズン中の復帰を目指していたが、そのままシーズンを終えた[85]。最終的にMLB挑戦後初めて規定打席に到達出来なかった。11月4日に球団が契約オプションを行使せずFAとなった[86]。, 2015年12月3日にシアトル・マリナーズと1年契約(2017年の相互オプション付き)を結んだ[87]。背番号は「8」[88]。同チームで岩隈久志とチームメイトとなる。, 2016年は開幕から不振に陥り、4月の月間打率が.205と出遅れた。5月は月間.284と持ち直したが、6月は再び不調で、6月24日にAAA級タコマ・レイニアーズへ降格となった。降格までの成績はMLB挑戦後ワーストとなる打率.247、OPS.636。特にこれまでのシーズンで得意にしていた対左投手との対戦成績が打率.177と苦しんだ。降格の理由の一つとして、監督のスコット・サーバイスもこの点を指摘している。AAA級では打率.369と結果を残し、約一か月後の7月21日に再昇格。復帰後は主に相手先発が右投手の時に先発起用され、打率.316と好調だったが、直近の対戦投手に左投手が集中するという理由で8月27日に再降格。9月6日に再昇格すると、20試合の出場で打率.379、3本塁打を放つなど復調、チームのポストシーズン争いに貢献した。シーズントータルでは規定打席には届かず、メジャー5年間で、打率、出塁率はキャリアワースト。守備面でもレフト、センターの守備でDRS-4、UZR/150-8.0を記録した。走塁面では盗塁成功率.438(7盗塁9盗塁死)に、牽制死も目立ち、守備走塁に精彩を欠き、総合指標はfWARで+1.2、rWARで1.5だった。, 2016年11月3日にウェイバー公示を経てアストロズへ移籍した[89]。この時点では保有権がマリナーズからアストロズに移っただけであり、青木は年俸調停権を持っているため、2017年の契約は確定していなかった[90]。11月30日にアストロズと1年550万ドルで契約した[91]。背番号は、かつて同チームに所属した松井稼頭央と同じ「3」。12月21日に第4回WBCの日本代表に選出され、2大会ぶり3度目の選出となり[92]、神宮球場で記者会見を行った[93]。, 2017年開幕前の3月に選出されていたWBCに参加。シーズンでは6月11日の対ロサンゼルス・エンゼルス戦(ヒューストン・ミニッツメイド・パーク)で日本人選手で史上7人目となるNPB/MLB通算2000本安打を達成した。6回の第3打席、無死から左前安打を放っての達成だった[94]。6月30日の対ヤンキース戦(ヒューストン・ミニッツメイド・パーク)で投手メジャー初登板(NPB時代も含め自身プロ初)。9回の1イニングを投げ、3失点を喫した[95][96]。日本人野手の登板は2015年のイチロー以来の2人目。, 2017年7月31日にフランシスコ・リリアーノとの交換トレードでテオスカー・ヘルナンデスとともにトロント・ブルージェイズに移籍した[97]。背番号はヤクルト、ロイヤルズ、ジャイアンツ時代と同じ「23」。8月4日の古巣アストロズ戦の9回に代打で出場し、移籍後初出場となった[98]。8月6日のアストロズ戦で8番左翼手で先発出場し、7回表の第3打席で第3号本塁打を打ち、移籍後初安打が本塁打となった[99]。移籍後の成績は12試合の出場で打率.281、3本塁打、8打点であった[100]が、8月28日にブレット・アンダーソンをメジャーに昇格させる方針となったため、DFAとなった[101]。翌29日に自由契約となった[102]。ブルージェイズに在籍した期間は1ヶ月に満たなかった。, 2017年9月2日にニューヨーク・メッツと契約を結んだ[103]。背番号は「11」。同日の古巣アストロズ戦で1番・右翼手で先発し移籍後初出場、5打数1安打であった[104]。これで所属球団数が7となり野茂英雄とならんで日本人選手最多タイとなった。また、MLBの両リーグ全地区に所属した初めての日本人選手となった[105]。なお、同チームの監督は青木がヤクルト在籍時、2007年~2008年の間 オリックスで指揮を執ったテリー・コリンズである。シーズン終了後の10月30日に自由契約となった[106][102]。, 2018年2月6日、古巣・ヤクルトへの復帰会見を行った。背番号は第一次在籍時に背負っていた「23」[107]。契約内容は3年総額10億円(金額は推定)[2]。, 開幕戦の横浜DeNA戦(横浜スタジアム)に4番・中堅でスタメン出場し、1打席目に肘に死球を受けたが、5打席目で日本復帰後初安打を放った。同年5月3日の対中日ドラゴンズ6回戦(明治神宮野球場)の第4打席でNPB通算打率記録の対象となる4000打数に到達。この時点の通算打率が.328となり、1977年から1987年までNPBでプレーしたレロン・リーの.320を抜きNPBの通算打率ランキングで1位になった。リー以外の選手が通算打率ランキングの1位になったのは、1989年の落合博満(当時中日ドラゴンズ)・2007年の小笠原道大(当時読売ジャイアンツ)に続く3例目。6月14日の交流戦・西武戦(メットライフドーム)では1回表に史上9人目[108]の初回先頭打者ランニング本塁打を打ち、36歳5ヶ月での達成は木村勉(近鉄)の35歳8ヶ月を62年ぶりに更新する最年長記録となった[109]。6月30日の阪神戦で岩貞祐太から頭部に死球を受けて退場した[110]。その後試合を欠場して様子を見たが、脳震盪の症状が発生したため登録抹消された[111]。それでも6月は打率.388、4本塁打、22打点を記録し、小川泰弘とともに月間MVPに選ばれた[112]。精神的支柱としてもチームをけん引する中で開幕当初は打撃のアジャストに苦しみ、4番以外にも1番、3番、5番の打順をこなすなど起用も一定しなかったが、交流戦頃から2番打者に定着すると状態を上げ、最終的に打率.327、OPS.884、キャリアハイの67打点をマークし、チームのCS進出、前年の最下位から2位への躍進に大きく貢献した。, 2019年も2番・中堅手で開幕から出場。4月6日の対中日戦(神宮)では延長12回2死走者なしの場面で代打出場し、小熊凌祐からサヨナラソロ本塁打を放った。代打での本塁打は自身初とのこと[113]。4月25日の対巨人戦では菅野智之から青木・山田哲人・ウラディミール・バレンティンで3者連続本塁打を記録した。1か月後の5月26日には同じ3人で再度3者連続本塁打を記録した。前者は平成最後の、後者は令和初の3者連続本塁打となった[114][115][116]。最終的に134試合に出場しチームトップの打率.297を記録した。, 日本プロ野球では通算打率.326(2019年終了時点で歴代1位)を記録、首位打者を3度獲得。安打を量産することから「安打製造機」と称される。メジャーリーグのスカウトからは「MLB以外でプレーしている選手の中で最高の選手。めっきり少なくなった理想的なリードオフマン」[117]「パワー以外の全てを兼ね備える。コンタクト能力に秀でており、2番打者として理想的な選手」[118]と評されていた。, 卓越したミート感覚で安打を量産し[119]、2ストライク後の打率は2007年には両リーグ通じて1位、2010年にもリーグ1位を記録[120][121]。「強く振ること」を心がけ本塁打数が前年から10本増加した2006年からは二桁本塁打を記録する長打力も備えた[122]。プロ入り当初は左投手を苦手としていたが[123]、2005年から2011年にかけては右投手に対し打率.327、左投手に対し打率.333と左右の違いを苦にしなくなった。MLB挑戦後の2013年~2015年にかけては、毎年打率.330以上を記録し、対左を得意とするようになっている。10打数に1個以上の割合で四球を選ぶ選球眼も備え、2007年から2010年まで4年連続で出塁率4割以上を記録した。メジャーリーグ移籍後も三振率で両リーグトップを記録し、ブルワーズ時代に監督を務めていたロン・レニキーから「天賦の才を持っている。あんなに手と目をうまく連動させる選手は、これまで見たことがない」と絶賛された[124]。, 打撃フォームは例年マイナーチェンジしており[125]、「打てない時期が続くとき、元に戻せるなら問題は簡単です。なかなかそうはいかないから、逆にフォームをちょっとずつ切り替えていくことで打てない時期を短くできる」と言い、何通りかの打撃フォームを状態によって使い分ける[126]。, 守備ではジャイアンツ移籍後は第2回WBCでも経験した左翼手として起用されている。ブルワーズ時代とロイヤルズ時代は主に右翼手として起用され、2014年まで右翼手としてDRS13、UZR12.9を記録。外野守備では捕球経路の取り方の不安定さとフェンス際の飛球処理に難があることが指摘されているが[127]、スピードを生かした守備範囲の広さが高く評価されている[127][128]。ヤクルト時代にはメジャーのスカウトから「肩は20-80段階で45(やや平均未満)。レフトが向いている」と評される[117]など肩は特別強いわけではないものの、正確な送球を持ち味としている[125]。一方で、FanGraphsにおけるDef指標では2012年から2017年の合計で-18.0としており、平均以下となっていたものの、UZR/150指標では2012年から2017年の合計で年平均2.5としており、平均以上となっている[129]。, ヤクルト時代は中堅手として起用され、2006年・2007年と2年連続で300刺殺以上を記録(セ・リーグ1位)し、ゴールデングラブ賞に選出された。2008年には失策を減らしリーグ1位の守備率.996を記録。2005年から2009年までは簡易RFでリーグトップ3に入っていたが[130]、2010年は右翼方向の打球の処理が悪くUZR-6.3と平均を下回り[131]、失策や記録に残らない雑なプレーを見せることもあった[125]。2009年には監督の高田繁から守備の怠慢さを指摘されており、特に2009年7月30日の広島東洋カープ戦での中堅守備では、田中浩康が弾いた打球に対するカバーを怠ったことで東出輝裕の二塁進塁を許した(記録は田中の失策)ことを試合後に厳しく叱責され、翌日から数試合、左翼手の福地寿樹とポジションを入れ替えられたことがあった[132]。「複数ポジションをこなせるように」との当時の監督の古田敦也の方針で2006年に1試合(8月19日)だけ二塁手として起用されたこともある。, 走塁面ではコンスタントに一塁到達4秒を切り[125][133]、バント安打時には3.68秒を記録[134]。2006年に盗塁王を獲得している。盗塁成功率はNPB通算7割6分を記録している。メジャー移籍後は2014年までの通算7割と成功率が落ち(メジャー通算69%)、またロイヤルズ時代は、メジャー屈指の俊足として知られるジャロッド・ダイソンの存在もあり、試合終盤には代走を送られることもあった。, WBCで輝いたMLB未経験選手9人の評価は?

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