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ハーフィズ・アル=アサド(حافظ الاسد Hāfiz al-Asad, 1930年10月6日 - 2000年6月10日)は、シリアの軍人、政治家、大統領(在任1971年 - 2000年)。一般に独裁者とみなされている。日本語ではハーフェズ・アル=アサドとも表記し、アサドが姓として認識される場合が多い。, シリア北部のアンサーリーヤ山地にあるアラウィー派の小村カルダーハで、カルビイヤ部族の貧しい家庭の9番目の子として生まれた。高校在学中の1946年、16歳でバアス党に入党するなど早くから積極的な政治活動に取り組んでいた。ラタキアの高校を首席で卒業した後、経済上の理由から大学進学をあきらめ1952年にアレッポの飛行士官学校に入校し、ソビエト連邦(ソ連)での訓練を経た1955年の卒業後、少尉に任官し、シリア空軍に入隊した。なお、後に後継者と目された長男バースィル・アル=アサド(العربية版、English版)もソ連に留学させることになる。, アラブ連合共和国成立後、カイロに派遣され戦闘飛行隊長となり、後のエジプト大統領ホスニー・ムバラクとともに訓練を受けるが[1]、エジプトとの連合への懐疑的な見解により軍から解雇された。カイロでは、秘密軍事委員会を組織して同じアラウィー派のサラーフ・ジャディード、ムハンマド・ウムラーンと共にアラブ社会主義バアス党の運動に参加し、シリア帰国後、1963年のクーデター(3月8日革命)に参加した。バアス党政権が樹立されると国防相を務めた。1966年から1970年まで空軍司令官を兼任。, 1967年の第3次中東戦争でゴラン高原を失うと、バアス党内ではジャディード党地域指導部書記長率いる急進派と穏健・現実主義派が対立し、アサド(当時国防相)がリーダーとなった穏健派が1969年2月28日の政変で実権を握った。アサドはジャディードに肩入れしたソ連による干渉に激怒し、腹心のムスタファ・タラースを中ソ対立から中ソ国境紛争を起こしたばかりの中国に派遣して武器支援を獲得させ[2][3][4]、毛主席語録を掲げさせた[5][6]。1970年11月、ジャディードはアサドとタラースへの反撃を試みたが、1970年11月にアサドはクーデター(矯正運動)でジャディードを失脚させて全権を握った。アサドは首相と国防相を兼ね、さらにバアス党の地域指導部書記長に就任し、翌1971年には国民投票により大統領に選出された。以後は対外的にはゴラン高原の奪還を目標として、アラブ諸国間の対イスラエル強硬派としてエジプトのアンワル・アッ=サーダート大統領と組み、第四次中東戦争に参戦。また、エジプトとアラブ共和国連邦を樹立した。ソ連との結びつきも強め、タルトゥースにソ連軍の基地を設置させた。国内では事実上の一党独裁と軍事力による政治で民心の引き締めを行う一方、バアス党の世俗的民族主義の立場から「シリア・ムスリム同胞団」勢力を抑圧した。, 1976年からはアラブ連盟平和維持軍をシリア軍に主導させてレバノン内戦に介入し始め、レバノンを事実上の影響下に置くに至るが、1970年代後半から経済状況が悪化し、またシリアにおいては少数派に過ぎないアラウィー派を優遇したことから国内最大宗派のスンナ派の反発を招き、国内でムスリム同胞団などの台頭がみられるなど、政権基盤の不安定化がみられた。イラン革命に触発された1980年代前半にはイスラム主義者による政権に対する反抗が激化し、1982年には中部の都市ハマーなどでイスラム主義勢力による暴動が起こるが、アサド政権はこれを武力鎮圧した(ハマー虐殺)。これによってシリアにおけるムスリム同胞団の活動は衰退に向かう。, 翌1983年にアサドが心臓病で入院している最中、軍部で実力をもつ弟リファアト・アル=アサド革命防衛隊司令官がクーデターを計画、軍部はアサド派とリファアト派に分かれ内戦寸前となった。退院したアサドはいったんリファアトを安全保障担当の副大統領に据えて懐柔し、注意深くその勢力を削いだ後、1984年にフランスおよびスペインに追放した。, バアス党の正統性やユーフラテス河の水資源利用をめぐり、隣国イラクとは対立関係にあった。このためイラン・イラク戦争ではアラブ諸国で唯一イランを支持し、イラクとの国境を閉鎖した。1990年の湾岸戦争ではイラクのクウェート侵攻を受けてイラクと国交を断絶し、イラン・イラク戦争ではイラクを支持したアメリカ合衆国やサウジアラビアとの関係を改善し、多国籍軍の一員としてサウジアラビアにも派兵した。当時のアメリカ国務長官ジェイムズ・ベイカーによれば、このシリアの決定にはアサドと個人的に交流があったエジプトのムバラク大統領が関わってたとされる[7]。1990年代にはマドリードで行われた中東和平会議に参加するなどイスラエルとの交渉を開始するが、ゴラン高原の全面返還という原則を譲らず、状況の打開を見出せないまま交渉は一度の中断を挟んで停滞した。, 1994年には、長男バースィルを交通事故で失い、後継者問題が不安定化したことで大きな打撃を被ったが、ロンドンで医師として生活していた次男バッシャールを急遽呼び寄せて後継者としての帝王教育を施した。それでも後継者としてのバッシャールに対する不安感は拭えなかったため、ロンドン留学で身につけた学歴や開かれた国際感覚といった息子の「博識」さを特徴づける試みとして、父ハーフィズは情報科学協会の会長にバッシャールを就任させた。若手官僚の育成やインターネットの導入など、バッシャールをシリアの近代化や若い世代の旗手として位置付けようとしたほか、彼を軍医としてシリア軍に勤務させるなどバッシャール自身にも高級軍人としての経験や実績を積ませようとした。, また、バッシャールの政治手腕を疑問視あるいは後継指名に反発していたアリー・ハイダル前特殊部隊司令官を逮捕し、ヒクマト・アル=シハービー軍参謀総長とムハンマド・フーリー空軍司令官を退役させ、ムハンマド・ナースィーフ総合情報部次長兼内務部長とアリー・ドゥーバ軍事情報部長を降格するなど、今までハーフィズ・アサド体制を支えてきた古参軍幹部や情報将校を粛清する政策を進め、政権の世襲化と息子の軍・治安機関部門における基盤強化を図った。, 持病の心臓病を抱えながら晩年も精力的に政務をこなしていたが、2000年6月10日にレバノンのサリーム・アル=フッス(English版)首相との電話会談中に心臓発作で死去。後継大統領には予定通り次男のバッシャールが就任した。. I: Iraq, Syria, Lebanon and Jordan, Volume 2, The Middle East and North Africa, Volume 43, The Soviet Policy Toward the Middle East Since 1970, Moscow and the Middle East: Soviet policy since the invasion of Afghanistan, http://mymemo.xyz/wiki/index.php?title=ハーフィズ・アル=アサド&oldid=52863. ハーフィズ・アル=アサド(حافظ الاسد Hāfiz al-Asad, 1930年 10月6日 - 2000年 6月10日)は、シリアの政治家、大統領(在任1971年 - 2000年)。 一般に独裁者とみなされている。 日本語ではハーフェズ・アル=アサドとも表記し、アサドが姓として認識される場合が多い。 このバッシャールの父親がハーフィズ・アル=アサドといって前大統領です。 1963年に軍事クーデターが置き政権を略奪しハーフィズ前大統領が誕生しました。その後親子2代で50年以上独裁政権を続けいていました。 シリアの内戦はいつから始まったの? Greenwood Publishing Group. The Middle East: a political and economic survey, Revolutions and Military Rule in the Middle East: The Arab states pt. ハーフィズ・アル=アサド(حافظ الاسد Hāfiz al-Asad, 1930年10月6日 - 2000年6月10日)は、シリアの政治家、大統領(在任1971年 - 2000年)。一般に独裁者とみなされている。日本語ではハーフェズ・アル=アサドとも表記し、アサドが姓として認識される場合が多い。, シリア北部のアンサーリーヤ山地にあるアラウィー派の小村カルダーハで、カルビイヤ部族の貧しい家庭の9番目の子として生まれた。高校在学中の1946年、16歳の若さでバアス党に入党するなど早くから積極的な政治活動に取り組んでいた。ラタキヤの高校を首席で卒業した後、経済上の理由から大学進学をあきらめ1952年にアレッポの飛行士官学校に入校し、ソビエト連邦での訓練を経た1955年の卒業後、少尉に任官し、シリア空軍に入隊した。, アラブ連合共和国成立後、カイロに派遣され戦闘飛行隊長となるが、エジプトとの連合への懐疑的な見解により軍から解雇された。カイロでは、秘密軍事委員会を組織して同じアラウィー派のサラーフ・ジャディード、ムハンマド・ウムラーンと共にバアス党の運動に参加し、シリア帰国後、クーデターに参加した。1963年のバアス党政権が樹立されると国防相を務めた。1966年~1970年まで空軍司令官を兼任。, 1967年の第3次中東戦争でゴラン高原を失うと、バアス党内ではジャディード党地域指導部書記長率いる急進派と穏健・現実主義派が対立するが、アサドがリーダーとなった穏健派が1970年にクーデターで実権を握った。アサドは首相と国防相を兼ね、さらにバアス党の地域指導部書記長に就任し、翌1971年には国民投票により大統領に選出された。以後は対外的にはゴラン高原の奪還を目標として、アラブ諸国間の対イスラエル強硬派としてエジプトのアンワル・アッ=サーダート大統領と組み、第四次中東戦争に参戦。また、ソビエト連邦との結びつきを強め、国内では事実上の一党独裁と軍事力による政治で民心の引き締めを行う一方、バアス党の世俗的民族主義の立場から「シリア・ムスリム同胞団」勢力を抑圧した。, 1976年からはレバノン内戦に介入し始め、レバノンを事実上の影響下に置くに至るが、1970年代後半から経済状況が悪化し、またシリアにおいては少数派に過ぎないアラウィー派を優遇したことから国内最大宗派のスンナ派の反発を招き、国内でムスリム同胞団などの台頭がみられるなど、政権基盤の不安定化がみられた。イラン革命に触発された1980年代前半にはイスラム主義の政権に対する反抗が激化し、1982年には中部の都市ハマーなどでイスラム主義勢力による暴動が起こるが、アサド政権はこれを武力鎮圧した。これによってシリアにおけるムスリム同胞団の活動は衰退に向かう。, 翌1983年にアサドが心臓病で入院している最中、軍部で実力をもつ弟リファアト・アル=アサド革命防衛隊司令官がクーデターを計画、軍部はアサド派とリファアト派に分かれ内戦寸前となった。退院したアサドはいったんリファアトを安全保障担当の副大統領に据えて懐柔し、注意深くその勢力を削いだ後、1984年にフランスおよびスペインに追放した。, バアス党の正統性やユーフラテス河の水資源利用をめぐり隣国イラクとは対立関係にあったため、イラン・イラク戦争ではアラブ諸国で唯一イランを支持、イラクとの国境を閉鎖した。1990年の湾岸危機ではイラクのクウェート侵攻を受けてイラクと国交を断絶し、アメリカ合衆国や、反イラク側の中心となったサウジアラビアとの関係を改善、サウジアラビアにも派兵した。1990年代には中東和平の機運に乗ってイスラエルとの交渉を開始するが、ゴラン高原全面返還という原則を譲らず、打開が見出せないまま交渉は一度の中断を挟んで停滞した。, 1994年には、後継者と目されていた長男バースィル・アル=アサドを事故死で失い、後継者問題が不安定化したことで大きな打撃を蒙ったが、ロンドンで生活している次男バッシャールを急遽呼び寄せ、後継者としての帝王教育を施した。それでも、後継者としてのバッシャールに対する不安感は拭えなかった為、父ハーフィズは、ロンドン留学を通じた高学歴、開かれた国際感覚、といった息子の「博識」さを特徴づける試みとして、情報科学協会の会長にバッシャールを就任させ、若手官僚育成、インターネットの導入など、バッシャールをシリアの近代化や若い世代の旗手として位置付けようとした。, また、バッシャールの政治手腕を疑問視、あるいは後継指名に反発していたアリー・ハイダル前特殊部隊司令官を逮捕、ヒクマト・アル=シハービー軍参謀総長、ムハンマド・フーリー空軍司令官を退役、ムハンマド・ナースィーフ総合情報部次長兼内務部長、アリー・ドゥーバ軍事情報部長を降格させるなど、今までハーフィズ・アサド体制を支えてきた古参軍幹部や情報将校を粛清する政策を進め、政権の世襲化と息子の軍・治安機関部門における基盤強化を計った。, 晩年は心臓病を抱えながらも政務をこなしていたが、2000年6月10日にレバノンのサリーム・アル=フッス(英語)首相との電話会談中に心臓発作で死去。後継大統領には予定通り次男のバッシャールが就任した。, ハーフィズ・アサドは妻アニーサ・マフルーフとの間に5人の子供がいる。長女ブシュラー(1960年生)は薬剤師で、長く父の秘書を務めていた。父ハーフィズの意向に反してアースィフ・シャウカト准将(現・軍参謀次長)と結婚している。, 長男バースィル(1962~1994)は土木技師で、1984年より亡命したリファアトの後任の革命防衛隊司令官に就任。事実上の後継者と見られていたが、1994年に自動車事故で死亡した。次男バッシャール(1965年生)は眼科医で、現在のシリア大統領である。三男マーヒル(1967年生)は、共和国防衛隊の将校で、96年に少佐に任官している。現在は共和国防衛隊司令官と陸軍第4装甲師団長を兼任。四男マジド(1969~2009)は電気技師で、兄達とは違って政治の表舞台には一切登らなかった。長い闘病生活の末に09年12月に死去。. バッシャール・ハーフィズ・アル=アサド(アラビア語: بشار حافظ الأسد‎, Baššār Ḥāfiẓ al-ʾAsad, 1965年9月11日 - )は、シリアの大統領(在任2000年 - )、バアス党地域指導部書記長。宗教的にはアラウィー派に属す。前任のハーフィズ・アル=アサド大統領の次男。日本の報道機関ではバッシャール・アサドと表記される。, ハーフィズ・アル=アサドの次男としてダマスカスに生まれた。幼少の頃に父がクーデターでシリアの全権を掌握するなど、政治は常に身近な所にあったが、兄弟や姉と異なり本人は政治や軍事への関心は少なく、控えめで穏やかな人間として育ち、父とは政治の話をしたことがなかったという。, 学校時代は優秀で模範的な生徒だった。ダマスカス大学医学部を卒業後は軍医として働いた後、1992年に英国に留学、ロンドンのウェスタン眼科病院で研修していたが、当時も政治への関心は人並み程度だった。なおこの頃、後の妻アスマー・アル=アサドと出会っている。彼女は英国で生まれ育ったスンニ派シリア人で、ロンドン大学キングス・カレッジを卒業後JPモルガン(英語版)の投資銀行部門でM&Aを手がけるキャリアウーマンだった。ファッション誌『ヴォーグ』では、「優雅で若く、同国の改革の象徴」などと紹介され、英王室ダイアナ元妃になぞらえ、「中東のダイアナ」とまで称賛された。記事のタイトルには「砂漠のバラ」と冠されている[1]。, 一族で後継者とみなされていたのは、兄でハーフィズ・アル=アサドの長男にあたるバースィル・アル=アサドである。しかしバースィル少佐が交通事故で事故死したことから、やむを得ず留学を中断、シリアに帰国して後継者となった。このことに関する2つの逸話として、父ハーフィズに電話で「バースィル兄さんが志した道を歩む」と後継者になる決意を述べた。あるいは、周囲の親しい人々には「別に大統領になりたいわけでは無い」とも語ったとされる。また帰国時にマスコミに対しては「医者と違って政治家は血が流れないから楽だよ」というジョークで応じていた。, しかし、すでに職業軍人として活躍していた父や兄に対して、眼科医のバッシャールに国を率いるだけの能力があるのか疑問視された。それでも医務局付き大尉の肩書を持ち、軍医としての軍務経験を持っていたので、帰国後は再度シリア陸軍の軍務に付き、ホムス士官学校・機甲師団局での勤務を経て1994年よりダマスカスの軍事高等アカデミー参謀コースで学ぶなど、高級軍人としてのキャリアを歩むようになった。その終了後は機甲師団司令官に昇進、1995年1月には少佐に、1997年には参謀本部付き中佐に、1999年1月に同大佐に昇進した。, また、兄の権力基盤だった共和国防衛隊の実質的な指揮権を掌握し、さらに政治実績を積むためにレバノン問題担当大統領顧問として、同国の親シリア派政治家であるエミール・ラッフード大統領の就任やサリーム・フッス首相の選出を後押ししてレバノン内政に介入した。このことが後の対レバノン関係に禍根を残すことになる。, 1999年には、ヨルダン、サウジアラビア、クウェート、バーレーンなどのアラブ諸国を訪問。さらにフランスのジャック・シラク大統領とも会談し、シリア政府の次期後継者として周辺国にアピールした。, 2000年、バッシャールは「古参と新たな血の融合」「腐敗との戦い」といった新たな運動を唱え、体制内部の腐敗一掃とあらゆる分野での改革を訴えた。それに呼応するように3月8日、汚職疑惑があったマフムード・ズウビー(英語版)首相率いる内閣が総辞職し、新たに清廉で実直として評価が高かったアレッポ県知事ムスタファー・ミールー(英語版)がバアス党大会で首相に指名され、3月14日にミールー内閣が発足した。この内閣には、バッシャールが指名した23名の実務や行政手腕が買われた50歳以下の中堅・若手閣僚も含まれていた。今までのシリアの内閣は、大統領が国防・外務・情報・経済担当大臣を選び、他の大臣については情報・治安機関が人選を行っていたが、今回は実質的にバッシャールが人選を行った。, 「腐敗との戦い」において最初のターゲットになったのは、前首相のズウビーであった。2月には「首相在任中の行動規範が、党の価値観、道徳に反し、法を逸脱して国家の名誉、党の名声に被害をもたらした」としてバアス党地域指導部にて党を除名され、首相辞任後は公金横領容疑で起訴され、資産を凍結する懲罰措置が取られた。そして逮捕日当日の5月21日、ズウビーは自宅で拳銃自殺を遂げた。この事件についてはさまざまな説が飛び交い、数日前からズウビーの健康悪化や自殺未遂の噂が流れ、政権による暗殺との憶測も呼んだ。一説によると、ハーフィズ・アサドの妻の一族であるマフルーフ家の指示により、北朝鮮との天然ガス密売の取引に失敗したため、詰め腹を切らされたとの説もある。, ズウビー自殺を皮切りに、党や政府の高官が次々と腐敗の容疑で逮捕されていった。これは体制内部の粛清と、綱紀粛正を進めるバッシャールに対して恐威の念を抱かせるという二重の意味があったとされる。, 2000年6月10日に父ハーフィズが死去すると翌日陸軍大将に昇進、軍最高司令官に任命され、6月18日にはバアス党書記長に就任。7月10日に信任を問う国民投票を実施し、7月17日に後継大統領に就任した。, 2001年にはアスマー・アル=アサドと結婚した。スンニ派の夫人は、アサド父子の出身母体である少数派のアラウィー派による最大宗派のスンニ派支配というイメージを払拭することが期待された。また英国育ちでもある彼女は、とかく閉鎖的な印象をもたれがちなシリアを西側諸国にアピールするスポークスマンとしての役割をも果たしてきた。, バッシャールは大きな波乱なく権力を継承したが、政治的経験がほとんど無いためあまり国政で主導権を握ることはせず、もっぱらハーフィズ時代以来の首脳が政務を行っているのが政権の実態である。憲法で承認された絶大な大統領権力はバッシャール時代になるとあまり行使されなくなった。2007年5月には大統領に再任された。, 2010年末よりはじまったアラブの春はシリアにもシリア内戦として飛び火し、批判の矛先はシリアの国家元首であるバッシャールにも向けられることとなった。反政府デモに対して当初は憲法改正や内閣改造、社会保障の拡大など妥協案も示されたが、デモの拡大に際し武力による鎮圧を企図したため、多数の死者を出すこととなった。このことにより国際社会からの批判も高まっているが、いまだ解決の糸口は見えていない。騒乱が内戦となって長期化するなか、欧米に支援された自由シリア軍・シリア国民連合の統治能力に対する懐疑や、占領地域で厳格なシャリーアに基づいた統治を行う過激派組織ISILやアル=ヌスラ戦線等のアルカイダ系反政府勢力の跋扈から、シリア国内では少数派ムスリム(アラウィー派・ドゥルーズ派・十二イマーム派など)やキリスト教徒を中心にアサド政権を支持する声も決して少ないとはいえず、また周辺諸国の利害関係や、独立を望む各地のクルド人勢力の動きも絡みあって、事態は複雑化している[2][3]。2014年の大統領選では88.7%の得票率を得て三選された[4]。, 2020年8月12日、議会演説中に体調を崩して一時退出。その後、議場へ戻り演説を再開したが体調面での不安が報道された。大統領側は体調不良の理由を、前日から何も食べていなかったためと説明している[5]。, 米紙ワシントンポストの週刊誌「パレード」の「世界最悪の独裁者」ランキングにて第12位に選ばれている。ブッシュ前政権は、シリア封じ込め策をとっていた。アサド政権は対イスラエル闘争を続けるパレスチナのハマスやレバノンのヒズボラを支援しているとの嫌疑をかけられており、欧米から「テロ支援国家」と名指しされている。, 2003年のイラク戦争後は、イラクからの難民や、逆にイラクに潜入する武装勢力がシリアに集まり、アメリカ合衆国との関係が悪化。さらに2005年のラフィーク・ハリーリー前レバノン首相暗殺事件をきっかけに米欧を中心とする国際的な圧力を受け、シリア軍のレバノンからの全面撤退を強いられた。レバノンや中東和平問題をめぐり、イスラエルとの関係は現在も悪いままである。伝統的な友好国のロシアだけでなく、2004年6月に訪中して胡錦濤国家主席と会談を行うなど中国との関係も重視しており[6]、中国は2つのシリア最大の産油企業の大株主であり[7]、国連のシリア非難決議でもロシアとともに拒否権を行使することも多い[8]。北朝鮮と核開発で協力しているという疑いをアメリカに持たれ、2007年9月にはイスラエル空軍によるシリア空爆が行われたと報じられている。後に北朝鮮と核開発で協力しているという見解をアメリカは公式見解として発表する。, イスラム協力機構・アラブ連盟から追放されるまでスンニ派諸国と対立する一方で、先代以来の友好関係にあるイランとの関係を強固なものとし、また隣国トルコやイラクとの関係を劇的に改善しているため、イラク戦争後の不安定な中東の政治状況の中で孤立を回避するよう努めていることがうかがえる。, ただ、2009年のオバマ政権発足直後からアメリカが上院外交委員長らを相次ぎシリアに送ったことを「まず対話を始めて互いに問題解決にかかわることが大切だ」と歓迎しており、若干対米関係を修復させる態度を示している。, 日本では2011年(平成23年)9月9日に、バッシャールが資産凍結の対象者となった[9]。, 2017年4月6日 米軍はシリアに対して「化学兵器を使用した報復」として、トマホークミサイル59発を使用してアサド政権軍の空軍基地に対するミサイル攻撃を実施した。 ハーフィズ・アル=アサド(حافظ الاسد Hāfiz al-Asad, 1930年10月6日 - 2000年6月10日)は、シリアの軍人、政治家、大統領(在任1971年 - 2000年)。一般に独裁者とみなされている。日本語ではハーフェズ・アル=アサドとも表記し、アサドが姓として認識される場合が多い。 Political Leaders of the Contemporary Middle East and North Africa: A Biographical Dictionary. これはトランプ政権の、軍事介入に慎重だった前オバマ政権との違いをアピールした物と見られており、シリアとアメリカの関係悪化が懸念される。, 2017年4月、AFPでのインタビューで、シリアで起きた化学兵器攻撃への関与を否定した。「テロリストと結託しているという我々の印象は米国を中心とする西側諸国がミサイル攻撃の口実を得るために作ったものだ。」と反論した。国連内では「世界のあらゆる首都で計画されている陰謀の一部」と主張した[10]。, 2011年(平成23年)9月9日外務省告示第315号「国際平和のための国際的な努力に我が国として寄与するために講ずる資産凍結等の措置の対象となるシリアのアル・アサド大統領及びその関係者等を指定する件」, http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2012/04/post-2504.php, http://www.cnn.co.jp/special/interactive/35036542.html, http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/45694-シリア大統領選で、アサド氏の再選に国民が歓喜, http://www.chinadaily.com.cn/english/doc/2004-06/22/content_341612.htm, “Belt and Road: Middle East takes the slow road to China”, https://www.euromoney.com/article/b14r59l2nbv4g6/belt-and-road-middle-east-takes-the-slow-road-to-china, http://oneboxnews.com/articles/assad-is-denying-chemical-weapons-attacks-2017-4, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=バッシャール・アル=アサド&oldid=80265004. バッシャール・ハーフィズ・アル=アサド(アラビア語: بشار حافظ الأسد ‎, Baššār Ḥāfiẓ al-ʾAsad, 1965年 9月11日 - )は、シリアの大統領(在任2000年 - )、バアス党地域指導部書記長。 宗教的にはアラウィー派に属す。 前任のハーフィズ・アル=アサド大統領の次男。 ハーフィズアル・アサドは元々小さい村の出身者で、 イスラム教 シーア派 の中の 『アラウィ派』 とゆー少数の派閥でした。 1970年、ヨルダン対シリアでヨルダンに負けた時に、 アラウィ派 の人達と組んで軍事クーデターを起こし成功。 Reich, Bernard (1990). ISBN 978-0-313-26213-5. p. 53. ハーフィズ・アル=アサド(حافظ الاسد Hāfiz al-Asad, 1930年 10月6日 - 2000年 6月10日)は、シリアの軍人、政治家、大統領(在任1971年 - 2000年)。 一般に独裁者とみなされている。 日本語ではハーフェズ・アル=アサドとも表記し、アサドが姓として認識される場合が多い。

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