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日本がバブル景気に突入する直前の1980年代、中東ではイランイラク戦争が10年近くにわたって行われていました。そのイランイラク戦争が発生した原因や背景にはどのようなものがあり、またこの戦争はどのような結果に終わったのでしょうか?わが国との関係にも触れつつイランイラク戦争について見ていきましょう。, イランイラク戦争は1980年から88年にかけて行われた中東の大国同士の戦争でした。一見すると中東における地域的な戦争のようにも見えますが、この戦争の背景や原因には当時の国際情勢が大きく影響していました。, この戦争の背景にはイスラム教内部のシーア派とスンニ派の長年にわたる対立や、アラブ人とペルシア人との対立であるという点があることも指摘されています。しかし、すべての始まりは1979年にイランにおいてイスラム革命が発生したことにありました。, この革命によってアメリカ寄りのパフレヴィー国王は国外に亡命し、代わりにホメイニが中心となった反アメリカのイスラム政権が成立しました。ただし、革命の影響でイランの国内は混乱し、一部保守派に対する粛清の動きも見られました。, そこで隣国イラクのサダム・フセイン政権はこの状況に乗じて、革命の余波を防ぐことやイランの反アメリカ政権の打倒を名目にし、さらに中東における石油をめぐる利権を守りたいアメリカの援助のもとにイランに軍を侵入させました。, ちなみにフセインと聞くと、後年にアメリカとの戦争で権力の座を追われることとなりますが、この頃はアメリカとは仲の良い関係でした。, イランイラク戦争は1980年に始まりましたが、一応の終息を見たのが1988年と、終結までに8年もの歳月が必要でした。これほど長い期間にわたって続いたのはなぜなのでしょうか?, そこで、この戦争の経過を詳しく見ることで、戦争の長期化の理由を探っていきましょう。, 戦争そのものは1980年9月22日にイラク軍がイランに奇襲を仕掛ける形で始まりました。アメリカの支援を受けていたこともあり、戦争開始当初は装備に勝るイラクに優位な形で進展していきました。ちなみにイラクを支援していたのはアメリカだけでなく、ソ連や中国、ヨーロッパの主な国々、さらにアラブ諸国も挙げられます。, このように世界中の多くの国を敵に回す羽目になったイランですが、支援する国がなかったわけではありません。特にイランを支援したのが北朝鮮で、現在のイランと北朝鮮の親密な関係はこの時の戦争がきっかけで構築されたといえます。, とはいえ、全体的にはイランは圧倒的に劣勢の状況で、このまま推移すればイランはイラクに降伏するとさえいわれたほどでした。そして、戦争そのものも当初から世界の多くの国も巻き込んだ国際戦争の色合いを帯びてきていました。, 緒戦はイラク優位に展開したイランイラク戦争ですが、外敵の直接侵攻という状況にさらされたイラン側も多くの民衆が義勇軍を組織し戦列に加わりました。さらに、アラブ諸国と敵対関係にあったイスラエルがここにきてイランを支援し始め、さらにシリアやリビアがイラン側につきました。, このように状況が好転してきたイランは次第にイラクに対して反撃に転じるようになっていきました。さらにこのような状況の中でシリア経由でイラクに通じていたパイプラインが止められたことが本格的な形勢逆転のきっかけとなりました。, この状況に乗じてイラン軍は1982年4月に大々的な反撃に乗り出し、イラク軍に奪われていた領土を回復しただけでなく、国境を越えてイラク国内にも侵入しました。今度はイラク側が休戦を呼び掛けますが、イラン側はそれを一蹴しました。, イランが反撃を開始した1982年、シリアの隣国のレバノンで内戦が発生、さらに同時期にソ連のアフガニスタン侵攻や南米でのフォークランド紛争の影響もあって欧米各国はイランイラク戦争に関与するどころではなくなりました。, その影響で戦争も一時下火となりますが、間もなく1984年には再燃し、両国とも民間人をも巻き込んだ凄惨な殺戮を繰り広げることとなりました。, 長引く戦争は特に開戦当初有利であったイラクに経済面で深刻な影響を及ぼしていました。そこでイラク側はアメリカをも巻き込んで早期の戦争終結を図ろうと、ペルシャ湾を航行する石油タンカーを危機にさらす状況を作り出します。, そのため、アメリカはイラクをそれまで以上に支援し、さらにペルシャ湾の制海権を守ろうと躍起になりました。このような経過もあってイランはようやくイラクとの停戦を考え始め、1988年8月に両国間で結ばれた停戦協定が発効したことで8年にも及ぶ戦争は終結しました。, イランイラク戦争は結局のところ、イランとイラク両国の停戦という形で終結し、さらに1990年には国交回復まで達成しました。しかし、この戦争の影響はその後の中東情勢、ひいては国際情勢に暗い影を落とすこととなりました。, イラクはこの戦争に乗じて軍備を拡大し、そのことによって中東きっての軍事大国となったため、支援してきた欧米各国、特にアメリカが警戒するようになりました。加えて、この戦争によって経済的に疲弊したイラクに対し、戦争中に支援した湾岸諸国は支援で投下した資金の返済を要求してきました。, このように経済的に苦境にあえぐようになったイラクは状況を打開しようと1990年8月に隣国のクウェートに侵攻、やがてアメリカなど世界各国を敵に回して湾岸戦争に突入することとなりました。, さらに、湾岸戦争以降険悪な関係となったアメリカとフセイン率いるイラクはその後も対立、2003年のイラク戦争を招き、最終的にフセイン政権の崩壊へとつながりました。, イランイラク戦争は日本には一見関係ないように見えますが、実は戦争中の1985年、日本もこの戦争に対して無関心を装っているわけにはいかない状況に巻き込まれる事件が発生しました。, この年の3月17日、イラク大統領フセインは48時間の猶予期限を過ぎた後にイラン上空を飛行する航空機を国籍に関係なく撃墜するという宣言を発表しました。この際にイランに在留する200名以上もの日本人がイラン国外への脱出手段が見つからないという危機的状況に陥ってしまいました。, 当初日本政府やイランの日本大使館は日本航空に特別にチャーター便を依頼しましたが、日本航空側では労働組合の反対もあって拒絶せざるを得ない状態となりました。さらに自衛隊も当時は在外の自国民救出活動の法的根拠がなかったため、動くことができませんでした。, やむを得ず、他国に日本人救出を依頼しますが、他の国々にも自国民の救出で手いっぱいの状況*のため当てになりませんでした。, そんな危機的状況にあったイラン在留の日本人たちに救いの手を差し伸べたのがトルコでした。トルコ政府は自国民を救出するための航空機の特別便を増やすことで日本人の救出も可能にし、そのおかげでイラン在留の日本人は全員無事にイラン国外に退去することができました。なお、脱出できたのはフセインが通告したタイムリミットの1時間15分前という極めてギリギリの状況でした。, それではなぜ多くの国が日本人救出に対してそれどころではなかった状況でトルコ政府はそれに応じてくれたのでしょうか?それは、イランイラク戦争からさかのぼることおよそ1世紀前の1890年に日本の和歌山県沖でトルコの軍艦が遭難する事件が発生した際に、地元の日本人が献身的に救助活動をやってくれたことに恩義を感じていたためでした。, そのため、その時の恩返しということでトルコ政府がイラン在留の日本人の救出に積極的になったといわれています。, 1980年から88年の長きにわたって繰り広げられたイランイラク戦争は、1979年のイランイスラム革命がきっかけとなって当時の国際情勢を巻き込んで発生した戦争でした。当初はイラク優勢でしたが、やがてイランも反撃を開始し、両国の民間人をも巻き込んだ殺戮の応酬を経てようやく停戦に至ったという流れです。, しかし、この戦争はその後のアメリカとイラクとの対立をも引き起こし、やがて両国は湾岸戦争とイラク戦争で争い、現在の中東情勢にも大きな影響を及ぼすに至りました。, またこの戦争のさなかにイラン在留の日本人が生命の危機に陥りましたが、トルコの援助のおかげで全員無事に国外退去することができました。その点では一見すると日本に関係のない戦争のようですが、実は戦争の裏側で非常に大きく関係していたことを忘れてはいけないといえます。, 「お金のコトをもっと身近に」というミッションで、みんなのお金ドットコム(みんかね)を運営しています。 イランイラク戦争とは? 日本がバブル景気に突入する直前の1980年代、中東ではイランイラク戦争が10年近くにわたって行われていました。そのイランイラク戦争が発生した原因や背景にはどのようなものがあり、またこの戦争はどのような結果に終わったのでしょうか? イラクがイランに侵攻し、近代中東史上最も血なまぐさい戦争が始まる2週間前のことだ。おそらく100万人の戦闘員と数えきれないほどの民間人が死んだ。40年後、私たちは今もその結果を背負って生 … 投資・節税・保険・ローン・クレカ・節約などのテーマの情報を各領域の専門家や編集部を通して記事配信していきます。. イラク戦争とは一体なんなのか?その原因や目的をわかりやすく解説していきます。未だに議論が続き、中東の混乱を引き起こしたイラク戦争について理解を深めていきましょう。2003年から始まったイラク戦争は、過去100年間のアメリアの外交政策の中で恐 1980年9月22日、イラク軍機がイランの航空基地10カ所を空爆し、8年間続く残忍な戦争が始まった。, 戦争の直接的な引き金となったのは、1979年のイラン革命がイラクや他の湾岸諸国に波及するのではないかというサダム・フセインの危惧であった。また、両国にはシャット・アル・アラブ水路の支配権をめぐる長い対立の歴史があり、サダムは石油が豊富なイランのクゼスタン州の掌握を望んでいた。, 1981年、イラクがイランの港を発着する船舶を攻撃し始めたことで、陸戦は「タンカー戦争」として知られる戦いにエスカレートした。イランがこれに反発して中立国の石油タンカーを攻撃したことを受け、アメリカ海軍はペルシア湾の海運を保護するために護衛船団を導入した。, 紛争が膠着状態に陥り、1988年に国連の仲裁による和平協定が結ばれるまでに、この紛争は最大100万人の命を奪った。あるコメンテーターが書いたように、「近代史の中で、高い犠牲を払って戦争を始めたにもかかわらず、これほど指導者の野心が達成されなかった戦争はほとんどなかった」。, ロンドン:1980年9月、私は英国の外務英連邦事務所に入所した。イラクがイランに侵攻し、近代中東史上最も血なまぐさい戦争が始まる2週間前のことだ。おそらく100万人の戦闘員と数えきれないほどの民間人が死んだ。40年後、私たちは今もその結果を背負って生きている。, イランのイスラム革命に触発された反政府暴動を受け、イラクはイランに大使の撤退を要求。, イラクは、イランのアヤトラ・ホメイニ支持者ムハンマド・バキール・アル・サドル大アヤトラとその妹を処刑。, サダム・フセインは、イラクとイランが国境紛争の解決に合意した1975年のアルジェ協定からイラクが離脱することを発表。, 米国のフリゲート艦サミュエル・B・ロバーツ号が、イランが湾岸に敷設した機雷に接触。, イランは、戦闘の終結と戦前の国境への復帰を求め、停戦を要求する国連安全保障理事会決議598号を受け入れる。, 国連、米国、サウジアラビアなどアラブの同盟国からの圧力を受け、イラクはついに停戦に合意。, 両国の間には常に緊張関係があった。しかし、1979年がその舞台は訪れた。 それはすべてを変えた年であった。 国王が転覆させられ、ジュハイマン・アル・オタイビがマッカのグランドモスクを占拠し、ジア・ウル・ハクがズルフィカル・アリ・ブットを処刑し、シリアではイスラム主義者の反乱が加速し、ソビエトがアフガニスタンに侵攻した。これらの出来事は、激動と不安定の新たな憂慮すべき時代の幕開けとなった。, 中東では、サダム・フセインのイラクと革命的なイランとの間で敵対行為が勃発したことが、この時期の決定的な出来事となった。それは、2つの競合する近代性の衝突であった。神秘的なアラブのナショナリズムを夢見るバート主義者と、神話的な過去に基づいて、聖職者の権威に対する反動的な解釈から正統性を導き出したルホッラー・ホメイニの異端的なイスラム教の再定義である。どちらの制度も厳しい抑圧的なものであった。そして、それぞれに真の信者がいた。, イラクは自分たちが強いと思っていた。特にイランの革命派が将軍を一掃し、テヘランの伝統的な西側の軍事物資の供給源が枯渇した後、イラクは自分たちの方が強いと思っていた。しかし、イランは民衆の熱狂の波に乗って、予想以上に回復力があることを証明した。戦争は膠着状態に陥った。ホメイニは紛争を終結させようとするすべての訴えを拒否したが、双方に恐ろしい損失が発生した後、1988年についに終結を余儀なくされた。, この間、私は若い外交官としてアブダビでリングサイドの席に座っていた。湾岸アラブ諸国に与えた影響は大きかった。彼らはイラン革命が自分たちの領土にまで拡大することを恐れていた。新イラン憲法第154条は、イランがまさにこれを実行することを約束していた。この憲法は、アヤトラ・フセイン=アリ・モンタゼリにつながる組織の活動によって、また、レバノンのヒズボラと呼ばれる組織を通じて、クウェート、バーレーン、サウジアラビアのシーア派反体制派の運動、特に爆弾テロや飛行機のハイジャックを含む活動への支援によって発動されたのである。これは、1961 年から 1971 年の間に独立を達成したばかりの国々が直面した中で、その安定性と結束力に対する最も深刻な挑戦であった。国内の制度や軍事力はまだ弱かった。イランは物質的にもイデオロギー的にも脅威であった。アラブ系でスンニ派が支配し、人口が多く、教育を受け、親しみやすい(時として威圧的ではあるが)隣国であるイラクを財政的に支援することを選んだのは、驚くに値しないことであった。, 1988年の戦争終了後、イラクは他の湾岸諸国、特にクウェートに多額の負債を抱え、イラクの油田の大部分が集中しているバスラ周辺の南部を中心に、必要不可欠なインフラに甚大な被害を受けた。サダムはクウェートをいじめて損失を取り戻そうとしたが、クウェートは屈服を拒否した。それが1990年8月2日の侵攻につながった。彼は、クウェート北部の油田を支配できる取引ができると思っていたのかもしれない。しかし、軍事的にはボロボロになり、兵器開発は国際的な監視下に置かれ、経済は制裁によって機能不全に陥り、イラク社会の構造は引き裂かれてしまった。シーア派の南部とクルド派の北部で起きた反乱は、どちらも通常の意味では成功しなかったが、2003年にサダムが失脚した後、イラクが宗派や民族の境界線に沿って再構成されていく輪郭を描くのには役立った。, 「ほんの数週間前までは、イラクとイランがすぐに国境戦争をするのではないかという疑問を抱いていた。今日、この疑問が解消されたことで、もう一つの疑問が生じた。そのような戦争は限定的なものにとどまるのか、それとも全面的な紛争に発展するのか」, イランでは、孤立した時代の模範的な国家抵抗の一つとしての戦争という神話が、少なくとも政権とその支持者の間では強力に支持されてきた。この神話は、多くのシーア派の間ですでに歴史的・文化的に深く共鳴していた犠牲者の物語を生み出してきた。また、イランは従来の軍事的弱点を補うために、いわゆるモザイク防衛と代理戦争の戦略を倍増させることになった。このことは、イスラエルを破壊し、最終的には近隣諸国をイスラム教の支配下に置こうとするテヘランの意欲を減退させるものではないようだ。, そして、これが現在のサウジアラビアの活動の背景となっている。この戦争は、アメリカをはじめとする西側勢力がサウジに動員されて侵略に立ち向かうという直接的な影響をサウジに与えまた。いわゆる「サワ」の一派が政府と対立し、オサマ・ビンラディンを9.11テロへの道へと取り返しのつかない道を歩ませたのは、この戦争がきっかけであった。クウェートでは、民主主義の名の下に、暫定的な国民議会の復活を求める圧力が高まった。実際には、これにより、さまざまな部族や宗教団体が政府を叩くための武器を手に入れた。このことが、それ以来、クウェート政治を複雑にしている。, このような複雑な状況は今も続いている。2003年のサダム政権失脚は、連合軍が逃亡したイラク軍をバグダッドまで追跡できず、代わりにサダムとその支持者がクルド地域以外の国内支配権を取り戻すことを許した1991年の後遺症と広く見られていた。その後の10年間の外交工作は、食糧のための石油スキャンダルや、国連安全保障理事会の特定のメンバーによる執拗な妨害主義など、国際システムの一部を腐敗させた。しかし、実際には2003年はイランの勝利であり、2001年のタリバンの失脚と同様であった。, タリバンは復活し、イラクは混乱のままであり、イラン自身もおそらく、国内的には、旅客機撃墜やコロナウイルスへの対応が不祥事を起こしており、国外的には、シリアやイラクでの過剰な拡張の結果が現れ始めていることから、自らの能力の限界に直面している。, もしホメイニが1978年にナジャフから追放されていなかったら、もし国王が癌になっていなかったら、もし1979年にサダムがイランの挑発にもっと冷静に反応していたら、もしホメイニがコーラムシャール奪還後に停戦に合意していたら、もしサダムがクウェート侵攻に賭けていなかったら、もしイランがもっと普通の国になっていたら、我々は別の世界に住んでいるはずだ。しかし、そうではないのは残念なことだ。, © 2020 SAUDI RESEARCH & PUBLISHING COMPANY、利用規約に従い、当サイトの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を禁止します。, 次期首相と目される日本の菅氏、COVID-19の痛み緩和のための給付金追加もあり得ると発言, https://www.arabnews.jp/wp-content/uploads/2020/07/Iran-Iraq-war.mp4. 1982年、イランが2度目の対抗攻撃を開始したとき、イラン - イラク戦争は再び活発な段階に入りました。 今回は成功しました。 イラク人はKhorramshahrを去った。 それからAyatollahはそれ自身の平和の条件を提供した:フセインの辞任、賠償金の支払いおよび戦争の原因の調査。 イラクは拒否した。

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