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お使いのブラウザがJavaScriptがオフになっている場合、正しく閲覧できない場合があります。, 1890年のオスマン帝国(トルコ)軍艦・エルトゥールル号の遭難事故から今年で125年。500人超とされる乗組員らが犠牲となったが、和歌山・串本の紀伊大島の住民らの献身的な救助で、69人が生きて古里に戻ることができ、後に日本とトルコの友情の起点と認識されるようになった。東西隔てた日本とトルコは、どんな関係を築いていったのだろうか。12月5日に日本・トルコ合作映画「海難1890」が全国公開となり、両国の関係が改めてクローズアップされる中、毎日新聞の過去の報道などを基に史実を振り返った。【最上聡】, 1985年3月12日の毎日新聞夕刊は「テヘラン爆撃 イラク軍報復 市民5人が死亡 日本人の大多数が住む地区」と伝える。「2軒隣の中庭に爆弾が落ちた」と話す縣正樹さん(62)の住んでいた家は、窓ガラスが割れたり壁が崩れたりし、住める状態ではなくなった。83年からイランの首都テヘランの日本人学校に赴任していた縣さん。妻や子供と地下に避難した際、ずっと大人の悲鳴やうめき声が聞こえていたという。「亡くなった人の声だったかもしれない」と振り返る。周囲のイラン人ともども事態を楽観していたが、対空砲火のごう音などにおびえ泣き叫ぶ子供らを見て「頭上に爆弾が落ちてくるかもしれない」と初めて恐怖を覚えた。, 80年、イラン・イラク戦争が勃発した。石油輸出のルートが絡む国境線、河川航行権を巡る争いが発端とされる。79年、ホメイニ師を指導者とする革命で親米のパーレビ朝が倒れ、イラン・イスラム共和国が成立。イラクのサダム・フセイン大統領(当時)は、軍制などの混乱の隙(すき)を付く形で攻撃を開始した。シーア派、スンニ派というイスラム教内の宗派対立も背景に、石油利権やイラン革命に対する欧米各国、周辺諸国の思惑が絡み、複雑な経過をたどった。たびたび攻防は逆転し、戦闘は拡大と沈静を繰り返した。戦争初期にテヘランの空港が攻撃を受けたりはしたが、基本的には国境付近の争いだった。, しかし85年3月、互いの都市を無差別攻撃し合う事態にまでなる。航空機による空爆などが行われた。米国の支援などで軍備で優位なイラクが、こう着状態の打破を図って報復合戦のエスカレーションを狙ったのが背景の一つとみられる。自動車会社に勤務していた沼田凖一さん(73)は同年2月、現地工場の生産性向上のため、4人の技術者を連れイランに出張したばかりだった。「情報を集めた結果、テヘランが危険な事態には発展しないと思われた。危機感はなかった」と振り返る。テヘラン空爆で事態は急変することになった。, イランは日本にとってサウジアラビアやアラブ首長国連邦に次ぐ原油輸入先で、商社マンや技術者らをはじめ、約500人がテヘランに滞在していた。イラク軍のテヘランへの攻撃は続き、さらに大規模な攻撃が行われるとの情報も飛び交い、在留外国人の脱出が続いた。3月18日朝刊は、西ドイツ(当時)のルフトハンザ航空とオーストリア航空の特別機で、十数組の日本人家族が脱出したことを報じつつ、現地日本人会が同16日、事態の変化に備え大使館に日本航空の特別機の派遣を要請するよう申し入れたと伝える。, そんな中の同17日、イラク政府のスポークスマンは19日午後8時(日本時間20日午前2時)以降、イラン領空全域を戦闘地域とし、すべて民間航空機が攻撃を受ける可能性があるとの警告を出す。20日以降、国際便が飛ぶ望みはほとんどなくなった。テヘラン・メヘラバード国際空港に乗り入れる各国航空会社は、自国民の搭乗を優先した。出国を希望する日本人の多くが空港に殺到するも、取り残されかねない事態となった。, 政府はイラン・イラク両国から、飛行の安全が保障されることが特別機派遣の前提とし、両国と折衝した。しかしイラク側から明確な返事は得られなかった。結局、特別機は派遣されなかった。いきさつを20日朝刊は「日航は18日昼過ぎからジャンボ機を待機させたものの外務省は『何人の在留邦人が救援機を必要とするのかわからなかった』と決断せず——」と伝える。, 「日本からの救援機が来ないと聞いたとき、当時は背景も分からず、ただ悲しい気持ちになった」と沼田さんは振り返る。車での脱出も検討したが、国境を越えるための書類が必要で準備ができなかった。「国境付近で山賊に襲われるといううわさもあった」。毎日、チケットを求め航空会社の窓口に通ったが、イラクの警告以降の混乱の中では入手できない。「4人は何事もなく日本に返さないと」と思い詰めた。そんな同19日未明、大使館から「トルコ航空が来てくれる」という話を受けた。, 20日朝刊は「大使館の努力で、トルコ航空が日本人乗客を優先的に乗せることで話しがついた」と報じる。大使館員が各国大使館や航空会社と折衝する中、トルコが応えて本国に救援機の増派を要請してくれた。一方、当時トルコ駐在の商社マンで、日本・トルコ協会理事を務めた故・森永堯さんの著書「トルコ 世界一の親日国」によると、森永さんらが旧知のトルグト・オザル首相(当時)に「航空機を在留邦人を救うために派遣してください」と依頼。オザル首相は「親友の森永さん、心配するな」と答え、派遣を決定したという。, 「信じられなかった。なぜこんな状況で来てくれるのか、理由が分からなかった」。沼田さんは飛行機に乗り、国境を越えた瞬間、緊張と恐怖が解き放たれ、涙が止まらなかった。イラクの警告期限の約3時間前に離陸した1番機に日本人198人、期限1時間前の2番機に17人が搭乗した。2番機に乗れた縣さんは壊れた自宅からの避難先で、心労もあって体調を崩した中で空港に向かっていた。初め、ソ連(当時)のアエロフロートに乗れる予定で空港に入る長い行列を待った。しかし、乗れなかった。「道は閉ざされた。戻ろう。知り合いのイラン人も逃げていないのだから」。踏ん切りを付けようとしたところで、2番機への搭乗を呼びかけられた。, 21日朝刊は安倍晋太郎外相(当時)がトルコ外相に「トルコ政府の配慮に感謝する」とのお礼のメッセージを送ったと報じる。近年の首脳往来などを挙げ、日本側が「友好関係の成果」と評価したとしている。, 縣さんは「いくら親日的とはいえ、ここまでしてくれるとは」という疑問を解き明かそうと、帰国してから図書館で調べ、エルトゥールル号の遭難事故のことを知った。「これだったのか」と自身の中で合点がいったという。地元・串本では、節目に慰霊祭を営むなど受け継がれてきた記憶だが、日本国内において、エ号の出来事は99年のトルコ北西部地震の救援や、2002年のサッカー・ワールドカップ(W杯)での対戦などを経て、トルコへの注目が集まる中でインターネットなどで広まり、マスメディアも取り上げるようになった。沼田さんはテレビ番組でエ号のことを知り、トルコ大使館にお礼に出向くなど活動を始めた。10年にイスタンブールを訪問し、当時の機長や乗務員と面会する機会があった。お礼に対する女性乗務員の「日本人を助けるため、テヘランに行けるのを誇りに思った」との言葉に涙した。, オスマン帝国は13世紀末、アナトリア半島北西部に現れたトルコ系部族集団を起源とするとされる。1453年、東ローマ帝国の首都・コンスタンティノープル(イスタンブール)を攻め落とし、16世紀の最盛期には現在の東欧から中央アジア、北アフリカにまで勢力が及び、古代ローマや東ローマの最盛期に匹敵する、地中海世界に覇を唱えた大帝国となった。宗教や言語の異なる、さまざまな文化背景を持つ人々を抱えた。しかし17世紀末の第2次ウィーン包囲の失敗に象徴されるように、自身の軍事・民政の制度疲労も手伝って、産業革命などで国力を付ける欧州世界に対して劣勢となる。1789年のフランス革命を経て決定的となる「民族自決」の流れは、19世紀に入るとギリシャなど次々と勢力下の地域の独立を招き、オスマン帝国を「瀕死(ひんし)の病人」へと追いやった。自身が優勢だった時代の制度を逆用されて不平等条約を結ばされ、経済的にも欧州列強の半植民地化が進んだ。特に不凍港を求めるロシアから直接の南下圧力を受ける中、オスマン帝国は1876年のミドハト憲法の発布など、欧州に倣った近代化改革を進めようとしたが、必ずしも成功しなかった。, 89年のエ号の日本への派遣は、87年の小松宮彰仁親王が皇帝(スルタン)アブドゥルハミト2世に面会、明治天皇の親書を手渡したことへの返礼の意味合いで、友好親善が目的だった。エ号は破損事故などに見舞われ、日本到着後には乗組員がコレラに感染するなど困難を極めたがアラビア半島、インド、東南アジアなどイスラム教徒が数多く住む各地に寄港しながらの長旅は、列強の脅威にさらされる中、「イスラムの盟主」としての威を示す目的もあったとされる。, 明治天皇と無事に会見して目的を果たした帰途、エ号は台風に巻き込まれ岩場に座礁、大破した。生存者は近くの灯台にたどり着き、職員に事故を通報。嵐の夜の中、救助活動が始まる。灯台守や地元村長が残した記録だけでも、血まみれの船員を手当てし、私物の衣服や食料を分け与え、住民参加で捜索をした様子がうかがえる。後にオスマン帝国から寄せられた謝礼について、救助に関わった医師が「遺族にあげてほしい」としたためた手紙も残るなど、見返りを求めない善意も見える。, エ号の訪日について、新聞各紙はそれほど大きく報じていなかったが、遭難事故には多大な関心が寄せられた。毎日新聞の前身、東京日日新聞は事故から3日後の90年9月19日、号外を発行。「土耳古(トルコ)軍艦の沈没」との見出しで、乗組員が多数死亡し、生存者六十余名も大半が負傷したと伝え、「惨状目も当てられず」と記す。翌20日発行の紙面では、1ページの大半を割いて詳報を伝えつつ、いち早く「同情相愍(あわれ)む」とする社説を掲載し、ようやく帰途に就けた乗組員へのあわれみを述べ、「アジア諸国の連帯」などを訴えつつ、義援金を呼びかけるなどした。日本の台風シーズンにおけるエ号の強行帰国の背景には、「イスラムの盟主」として弱みを見せられないという帝国の思惑もあったとされる。, 地元・串本では事故翌年に追悼碑が建立された。追悼歌が作られたりし、節目に慰霊祭を営んできた。日本とトルコの正式な国交樹立は第一次世界大戦後、オスマン帝国が解体し、アナトリア半島にトルコ共和国が成立してからの1924年となる。いわば「草の根の交流」が、国交に先んじた形だった。戦後、日本が経済発展を遂げる中、日本の資金技術援助でアジア・欧州をまたがるボスポラス海峡の橋や地下鉄が建設されるなど、イスタンブールのインフラ整備が進められた。今年6月にはトルコ大使館、和歌山県串本町共催で日本、トルコの友好を記念するエ号の125周年追悼式典が串本町文化センターで開かれ、犠牲者を悼んだ。. ¼“ìƒAƒWƒAA’†“Œ, JOG(663) ƒgƒ‹ƒR‚É‚æ‚éƒCƒ‰ƒ“Ý—¯–Ml‹~oiãj, Wing(1103) ¬òŽñ‘Š‚̃gƒ‹ƒR–K–â - e‘P‚̃NƒŠ[ƒ“ƒqƒbƒg, ƒgƒ‹ƒR¢ŠEˆê‚̐e“ú‘@Šë‹@ˆê”¯!ƒCƒ‰ƒ“Ý—¯“ú–{l‚ð‹~o‚µ‚½ƒgƒ‹ƒRq‹ó. u‚±‚ñ‚ȉp’f‚ð‚Å‚«‚鐭Ž¡“IŽw“±ŽÒA‘–¯‚ª¡‚Ì“ú–{‚É‚¢‚é‚Å‚µ‚傤‚©Hv‚Ƃ́A‚Ü‚³‚ÉŒ»‘ã“ú–{‚Ì–â‘è‚Å‚µ‚傤B 地球史探訪: トルコによるイラン在住日本人救出(上) イラク空軍の空爆に怯えるテヘラン在住 日本人たちに日本政府は救援機を出さなかった。 転送歓迎 H22.08.29 38,504 Copies 3,328,782Views 1.「頼む! 助けてやってくれ! 1985年,イラン・イラク戦争。 フセインは「テヘラン爆撃声明」を行い, テヘラン在留邦人は極めて危険な状態にさらされた。 在留邦人を救援する手立てを失っていた日本政府。 Ÿè•”Œ«Žuw‘h‚ê“ú–{CJHCu‹`˜^x@http://www.jhc-home.gn.to/furemu8.htm 地球史探訪: トルコによるイラン在住日本人救出(上) イラク空軍の空爆に怯えるテヘラン在住 日本人たちに日本政府は救援機を出さなかった。 転送歓迎 H22.08.29 38,504 Copies 3,328,782Views 1.「頼む! 助けてやってくれ! 地球史探訪: トルコによるイラン在留邦人救出(下) トルコはテヘランの自国民に陸路をとらせて まで、日本人救出を優先させた。 転送歓迎 H22.09.05 38,538 Copies 3,331,345Views 1.「日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」 ŸwSchool Icons Clubx@http://www.schoolicons.com/, http://www.h2.dion.ne.jp/~y_iwaki/oshima.htm, http://www.j-area2.com/japan/history/before/meiji.html, http://www.makuya.or.jp/tv/dijest/tv037.htm. 地球史探訪: トルコによるイラン在留邦人救出(下) トルコはテヘランの自国民に陸路をとらせて まで、日本人救出を優先させた。 転送歓迎 H22.09.05 38,538 Copies 3,331,345Views 1.「日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」 All rights reserved. 2015年6月3日、和歌山県串本町で行われた追悼式典で夫人とともに献花するアフメット・ビュレント・メリチ駐日トルコ大使=藤原弘撮影, 1985年3月19日、参議院予算委員会でイラン・イラク戦争について報告する安倍晋太郎外相, 2015年6月4日、エルトゥールル号遭難慰霊碑の前で黙とうをする人たち=和歌山県串本町で藤原弘撮影, 遭難現場近く、ピラミッドや獅子頭のような岩礁が並ぶ和歌山県串本町の海金剛=藤原弘撮影. 1985年3月19日、テヘランから私を含む215人の日本人を救出したのが、トルコ航空だった事から、なぜ日本が救援機を出さなかったのかについて暫くの間論議が有りました。ここに、1985年4月3日の参議院会議録情報 第102回国会 外務委員会 第4号と、2007年10月28日中近東文化センターで行われた、シンポジウムでの関係者の発言内容を紹介します。この二つの議事録を比較熟読する事で何が真実だったのかが読み取れると思います。, イラン・イラク戦争に関して少し具体的な、イランからの邦人の脱出の問題でございますね、これについて伺いたいと思います。御承知のように、イラクのイラン上空の封鎖宣言というのですか、あれは十何日ですか、以降イランの上空を飛ぶ飛行機はイラクの攻撃の対象になるというような封鎖宣言がされて、報道によりますと、数百人の邦人がテヘランの飛行場に切符を求めて殺到して一種のパニック状態になったというような報道がされているわけですが、そして結局、日航機は救援に結果としては行かなかったということになったわけでありますけれども、まずその辺の事情について全般的に承りたいと思います。, イラン、テヘランに対する爆撃が三月の十二、十四日と行われまして、その時点で大使館といたしましても、できるだけ邦人の引き揚げをすることを勧奨いたしまして、十六日に大使館と日本人会との間の会合におきましてその旨が伝えられたわけでございます。ただ、その当時におきましては、まだ各国からテヘランに乗り入れている民間航空会社は全部動いておりまして、かつ、三月の二十一日からイランのお正月が始まるということで、邦人の方のかなりの数が既に休暇ということでこういった航空会社の切符を予約しておられる方が相当ございました。そういうことで、この時点におきましてはまだ事態は平静であったわけでございます。, ところが、十七日、今御指摘のように、イランの空域を閉鎖するというイラク側の警告が発せられまして、ただこの時点におきましてもまだ十八、十九日と二日間あるからということで、まだ平静であったわけですが、ただ予期されませんでしたことは、十八日になりますと、今まで乗り入れていた各国の定期便の会社が一斉に便を取りやめるということが十八日に既に起こってしまったわけなんですね。空域閉鎖は始まりますのが二十日の夜の八時からということだったわけですので、皆さん一応十八、十九とまだ二日間の余裕があると思っておられたわけなんですが、それが実は予期しない状況に立ち至って、そこで一種のパニック状況というものが起こってまいったという状況がございました。, それで、政府といたしましては、実は十六日ぐらいの段階からもう既にいろいろな方策を検討しておりまして、そのための方策といたしましては、まず既に乗り入れている各国の定期便を使用するということ、それからそういった国からのチャーター便も派遣できないかということも検討するというのが第一点。それから、イラン航空機をさらに増便ないしはチャーターするということ。それから、日航機の特別機を派遣するということも一つございましたし、それから最後の場合には陸路を伝って脱出する。こういったいろいろな方策を検討しておったわけでございます。, したがいまして、各国の航空機が十八日全部一応取りやめになったという段階におきましては、我々といたしましても、早急にこの日航機派遣という状況も踏まえて、日航側との連絡も行ってまいりましたし、現地での状況というものもその辺を踏まえて検討するようにという指令は出してあったわけでございます。, ところが、十九日になりまして、またこの各国の航空機からそれぞれ救援機というような形で再び便が復活いたしまして、その中でも特にトルコ航空が我が方からの要請を受けて特別に一台大型機を増便するという形になりまして、これに日本人を優先的に乗せるという話が出てまいりました。結局十九日の午後になりまして、これは先ほどのイラクの警告のぎりぎりの時間でございましたけれども、二機がアンカラから参りまして、これに邦人が脱出希望者はほとんどすべて乗れるという形になりましたので、そういう状況がこちらでもすぐわかりましたものですから、日航機の緊急派遣という必要はなくなったというふうに判断されたわけでございます。, ちょっと申し上げますが、日航機は派遣の準備は全部整っておりましたし、最終的にはイラン、イラク両国の領空の安全についても、両国政府からこれを保障するという連絡があって、いつでも飛び出せるという形になっておったわけですが、結局その必要がなかったわけでありまして、私は宮澤さんにもたまには日本の外交も褒めていただきたいと思うのですが、これは日本の外交の一つの大きなこれまでの積み重ねの成果であったと思うんですよ。, というのは、トルコが特別機を出したということですね。今回のテヘランのああした脱出事件で、これは日本だけじゃなくて、各国とも在留の人たちは脱出していったんですが、特別機を出したというのは、それも日本のために出したというのはトルコ航空だけでありまして、これはやはりトルコと日本のこれまで積み重ねた外交の成果であったと思いますね。トルコに対するこれまでの日本の援助あるいはまた伝統的な日本とトルコとの友好関係、そういうものを背景にいたしまして、現地における野村大使とトルコの大使との間で非常に親密な友情関係がありまして、そういういろいろの要素が重なりまして日本側の要請に快くこたえて、ああした困難な情勢の中でトルコは自分の国の人たちよりも日本の在留邦人を最優先して特別機に乗せていち早く脱出させてくれたということであって、まさにこれはこれまでの日本の外交が、そうした努力を積み重ねてきた現地の大使等の非常な涙ぐましい努力、そういうことに基づくものであって、私と してはこれはよかったというふうに大変喜んでおるわけであります。, 日航救援機の派遣の点につきましては、確かに準備は我々としては万々怠りなく東京におきましては日航側と協議してやっておったわけでございますが、これをいつ、どの時期で派遣するかという問題は、確かに非常に微妙な問題であったと思います。, 特に日航機の場合には既に今度のイラン・イラク戦争発生八〇年の時点から定期便の乗り入れを取りやめておりまして、現地に全然日航の駐在員がおらないわけでございます。それで、新たにこういった事態の中で日航機が飛ぶということになりますと、安全保障の問題もありますし、それからイラン空港の施設の使用というような点につきましても、あらかじめイラン側とこれを了解に達しておかなければ問題が起こるということもございまして、我々としては確かにその点につきまして大使館側とは十分にその辺の時点の判断を誤らないようにということは打ち合わせてはあったわけでございますけれども、現実の問題としてテヘランの方から、先ほど申しましたパニック状況が起きてやはり日航機を派遣してくれと言ってまいりましたのが十八日の夜中近くなってからでございまして、その点、それからイラン、イラク側に実際の安全保障の取りつけについて働きかけを行うということを始めた関係で、若干その発動がおくれたかなという感じは持っております。, 結果といたしまして、先ほどからのお話のように、トルコ航空がチャーター機を出したということで無事脱出できたわけでございますけれども、我々としてはその点ちょっとワンポイント立ちおくれたかなというような感じを率直なところ持っております。, 日航としましてもそれなりに、我々が要請しましてから最大限の努力をしたと私は思います。ただ戦火の中へ飛び込んでいくわけですし、今ルートがないわけですから、そういう点でいろいろと日航内部の調整等もあったし、あるいは現地の領空の空域の保障といった問題等もあって、これは日航としても私はなかなか大変な決断であったと思いますが、全体的には全面的協力という線を打ち出してもらったことは大変日航側に感謝をいたしております。, しかし、こういう問題はただ日航と政府とでがたがた交渉するということじゃなくて、先ほどから申し上げました、政府が政府の決断でぱっと行けるというふうな、そういう態勢をやはりこうした非常事態にはとれることが、今の日本で、これだけ海外に日本人が活動しておられる状況では非常に大事なことじゃないか、こういうふうに思っております。, 私がテヘランに着任したのは1983年で、この戦争は国境沿いで行われていたため、開戦直後に空襲が一度あった以外、テヘランは平穏でした。イランは、「仕掛けられた戦争を終わらせるためには仕掛けた指導者への処罰が必要である」という立場を取っていましたが、国際世論はイラクに対して同情的でした。その中で日本政府は、公正かつ中立な立場でイラン・イラク戦争に対して仲介の労をとろうとしており、イラン政府からもそれを評価されていました。, 85年3月5日頃から両国の都市攻撃が開始し、戦火は次第に激しさを増していきました。12日未明、イラク機3機がテヘラン市街を空爆、それが日本人学校の先生宅の2軒隣に落ちて5人の死者を出したことは、日本人社会に対して大きな衝撃を与えました。攻撃の激化が予想されたため、私は16日に避難勧告を出しました。, 翌17日、フセインがイラン空域を戦争空域として宣言、民間航空機も全て撃ち落とすという歴史的にも類を見ないような声明を出し、これが邦人脱出の大きな根本原因になりました。, 在留邦人の生命財産の保護は国の主権として大使館の一番重要な仕事のひとつで、私の脳裏を一刻も離れることのない問題でした。外国は自国民が外国でクーデターや災害等に巻き込まれると救援機や運輸機で自国民を救出する慣例がありますが、日本は55年体制論争が続いており、当時、救援機や政府の専用機を所持していませんでした。, 17日にフセインが出した「イラン戦争区域宣言」を受け、私はただちに日本へ救援機派遣申請を出しましたが、本省から、救援機派遣にはイランとイラク両国の安全保障の確約を現地で取得するよう指示がありました。民間航空機の乗務員の安全確保が優先されたからですが、そのような確約は不可能でした。, さて、当時テヘランでの外交活動は非常に緊密で、私は各国大使に会う度に、「万が一のことがあったら貴国の航空機に日本人を乗せてほしい」と依頼しますと、各国大使は、「もちろん喜んで。しかし、自国民が優先ですから、空席があれば日本人を乗せてあげましょう」と言ってくださったものです。その大使仲間で私が最も親しくさせて頂いていたのが、トルコのビルセル大使です。ビルセル大使は83年の私と同じ日に着任し、信任状を奉呈し、外交団は着任順に序列が決まるため、私とビルセル大使は外交官の行事があれば必ず隣になりました。, イスラームの革命を欧米の国々は偏見を抱いているようでしたが、トルコは革命の現実を直視し、また、公正かつ公平に見ようと努めていました。ビルセル大使とは仕事上の情報交換をしたり、プライベートでも家族ぐるみのお付き合いがありました。私はビルセル大使に、「何かあったら頼む」と、会う度にお願いした記憶があります。, さて、フセインの言うタイムリミットの前日の18日夕方、ビルセル大使から、「明日、トルコ航空機が2機来る。空席があるから日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」という電話がきました。その頃は大分空襲が激しくなっていたので、在留邦人は郊外の温泉地のホテルや、テヘラン市内の高級ホテルの地下室等に避難していました。, 大使館員は翌19日の明け方までかけて手分けして邦人の居所を探し、希望を募りました。そして19日の晩に2機、一つは19時15分、もう一機は直前の20時頃飛び立ったのです。この戦争に直結する邦人の犠牲者は、日本政府の手を離れ第三国のタンカーに避難し雇われていたところ、ペルシャ湾で砲撃にあわれた方一名でした。その他に犠牲者が出なかったことは、私には大変幸いでした。本当にトルコ政府とトルコ航空のおかげだと感謝しております。, 全員に連絡が取れたかどうかはわかりませんが、知人にも伝えるよう依頼し、搭乗者数を把握できたのは19日の未明でした。, 残ることは義務ではありませんでしたが、大使館員49名と共に残りました。民間企業の方でも、支店長など主だった方達は、安全である限り残っておられました。帰られた方の中にはノイローゼ気味になってしまい、休暇をかねて帰られた方もいらっしゃいました。, この二つの議事録から明らかなように、日本政府、外務省は全く現地の状況を把握していなく、嘘八百を並べたいい訳の答弁を繰り返していることが良く判ります。そして、マスコミもまた外務省の言い訳けの答弁を鵜呑みにして報道していただけなのです。全く腹立たしくも、情けない日本側の対応がよく判ります。これが真実です。。, もしこのホームページが、下のようにカラーで表示されていない場合には、こちらをクリックしてください。, 「海難1890」は第39回日本アカデミー賞で2部門の最優秀賞を受賞いたしました!これからも「特定非営利活動法人 エルトゥールルが世界を救う」は、トルコと日本の時空と民族を越えた相互協力の精神をテーマとした映画製作を通して、アジアから世界平和へのアピールを発信しています。, 『イラン・イラク戦争 奇跡の救出劇「~日本・トルコ友情物語~ -沼田凖一さん編-」』, 特定非営利活動法人「エルトゥールルが世界を救う」Kar amacı gütmeyen organizasyon "Ertuğrul Dunyada Barışa".

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