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メルコスール、南米共同体の加盟国であり、モンテビデオにはメルコスールの事務局がある。, ウルグアイの経済は国内市場が小さく、アルゼンチン、ブラジルとの貿易によって国の収支が大きく左右されるため、この二国の経済情勢の影響を大きく受ける。また、現在は南米で最も物価が高いと言われている。歴史的には19世紀から需要の高かった羊毛や牛肉の輸出により世界でも富裕な国となったが、1930年代から始まった重工業化は国内市場の小ささや化石資源の不足などの問題からあまり成功せず、朝鮮戦争が終わる頃から代替技術の発展により世界市場でもウルグアイの農牧産品の需要が減り、畜産品モノカルチャー経済だったウルグアイはバッジェの福祉国家体制の支出を維持できずに破綻した。, 農牧業は国の主産業であり、独立後長い間牛馬や羊の産品のモノカルチャー経済が続き、今も経済は農牧業に頼るところは大きい。今日においてはGDPの約10%ほどを占め、未だに主要な外貨の稼ぎ頭となっている。また、それだけには留まらず農牧業は20世紀の半ばまで、エスタンシア文化をはじめとするウルグアイの歴史的なアイデンティティにも繋がっていた。, ウルグアイの農牧業は他国に比べ、農業従事者に対する保護(手当て、農業機械などの援助)が弱く、それゆえヘクタール当たりの収益が少ないが、その分生産された農牧産品は「有機(オーガニック)食」「自然食」といった市場に適している。, 日本はウルグアイから、食肉の安全を守る技術を学ぶ研修員を1978年から受け入れている[11]。, ウルグアイ産の牛肉は2000年に口蹄疫の発生から長らく日本に輸出されていなかったが、2019年に日本への輸出が解禁された[12]。, 東部のブラジルとの国境付近の県では米が栽培されている。北部は亜熱帯に近くなり、アルティーガス県では砂糖黍栽培が盛ん。, 近年では産業としてエスタンシア観光が成長しつつあり、ウルグアイの伝統的なエスタンシアを見学しながら、ガウチョのフォルクローレなどを楽しむことが出来るようになった。, 瑠璃、アメジスト、石灰岩等を産出するが、国土が平原と丘陵で高山がないため、鉱業自体があまり盛んとはいえない。, 前述のように森林資源に乏しい国である[9]。天然林は伐採禁止でありユーカリや松類を主体として人工林が利用される[9]。用途は薪炭用・建築用・パルプ用など多岐にわたっている。消費の場として国内市場は規模が小さいため主に輸出されているが[9]、国内に加工技術や品質管理基準がないために[9]、輸出先の一方的な条件で取引されがちな状況である[9]。近年ユーカリによる林業の成長が期待され、そのためのサムライ債が発行された。, 総人口のうちヨーロッパ系白人が87.7%、黒人が4.6%、インディヘナおよびメスティーソが2.4%を占める。極僅かながら日系人等のアジア系も存在する。, かつてバンダ・オリエンタルと呼ばれたこの地の住人は、自らをオリエンターレスと呼び、独自のアイデンティティを持っていた。19世紀まではスペイン植民地の中でもコスタリカと並んで特に辺境の地であったが、18世紀後半からの都市の発展により、黒人奴隷がポルトガルの奴隷商人によってアンゴラやコンゴ付近や赤道ギニアから移入された。先住民のグアラニー人は18世紀にパラグアイに撤退したが、地名にその影響を残している。一方独立戦争への参加により、1,000人ほどにまで数を減らしていたチャルーア人は、1831年のリベラ大統領の掃討作戦により虐殺され、絶滅した。この事件はウルグアイ人の心に大きなトラウマとなって残り、そのことを悔いてか、新聞のアンケート調査によれば、今でも約半数のウルグアイ人は自分に先住民の血が流れていると答え、毎年の事件の日が近くなると、モンテビデオ市内の「最後のチャルーア」の銅像に市民からの献花がなされる[14]。2002年には、最後のチャルーア人の遺骨が169年ぶりに返還された。, ウルグアイの人口は、1828年の独立時には長年の戦争により74,000人程であり、パンパ開発のために他のラテンアメリカ諸国と同じように、ヨーロッパから大規模に移民を呼ぶようになった。こうしてスペイン人、特にガリシア出身者を中心とした移民がやってきた。他に多かった移民はイタリア人であり、総数で見ればスペイン人よりも多く、フランス人と共にモンテビデオに定住した。また、独立直後の時期にイングランド人やスコットランド人が農村部に入り込み、近代的地主となった。, その後ウルグアイの人口は、1963年のセンサスでは2,592,583人、1976年推計では3,101,000人、1983年年央推計では約297万人となった。出生率はアルゼンチンより低く、ラテンアメリカでは最も低い部類に入る。, 19世紀から20世紀にかけてウルグアイに移入した多様な移民の出身国を列挙すると、圧倒的に多いのはスペインとイタリアで、次いでフランス、ドイツ、ポルトガル、イギリス、スイス、ロシア、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー、ウクライナ、リトアニア、エストニア、ラトビア、オランダ、ベルギー、クロアチア、ギリシア、スカンディナヴィア、アイルランド、そしてアルメニアとなる。, 移民受け入れ国だったウルグアイも、1970年代の軍政期には国民の17%にもなる約50万人が国外脱出した。ただし、こうして去っていった人々の中には民政に移管した80年代以降に帰国した者もいた。, 近年はシリア内戦に伴うシリアからの難民を受け入れている[15][16][17][18]。, 憲法上の明記はないものの、スペイン語(正確には一方言のリオプラテンセ・スペイン語)が事実上の公用語となっている。ブラジル国境付近のリベラ市にはウルグアイポルトガル語(フロンテイリソ方言)を話す人々がおり、同じくリベラ県にはアラビア語を話すアラブ人のコミュニティが存在する。, ウルグアイでは1918年憲法によって国家とカトリック教会が法的に分離した[19]。国民の62%はカトリックを信仰し、少数派として4%がプロテスタント、3%がユダヤ教であり、残りの31%が無宗教である。19世紀半ばにやってきたヨーロッパ移民に無政府主義者が多かったことから無信教の国民が多く、またカトリック教会の影響力もラテンアメリカの中では特に薄いとされる。, 2003年の推計では、15歳以上の国民の識字率は1996年の調査で98%であり[20]、これはラテンアメリカではアルゼンチン、キューバ、チリと並んで最高水準である。主な高等教育機関としては、共和国大学(1849年)、教員養成所であるアルティガス師範学校(Instituto de Profesores "Artigas")などが挙げられる。, 国連の調査によると、ウルグアイのジニ係数は0.448となる。これは周辺国に比べれば低い。2002年の調査では、同じ仕事についている男性と女性では、女性の賃金は男性の71.8%になる。また、黒人の平均収入は白人の平均収入の約65%である。, かつては中南米諸国の中で安全な国と言われてきたが、2012年8月に内務省が発表した同年7月までの犯罪統計は、前年同期に比べて殺人が56.7%増、強盗が5.3%増と、凶悪犯罪が急増している。特に人口の集中しているモンテビデオ県、カネローネス県、マルドナド県において犯罪が多発している。また、少年犯罪への処分が軽く、青少年向けの収容施設も十分に機能していないため、出所後の再犯率が高くなっている[21][22]。, 銃器の所持について規制はあるものの、比較的容易に入手する事ができる。また、不法な流通により、国民の3人に1人は銃器を所持していると推定されており、これを利用した凶悪犯罪も多発している[23]。, 隣国アルゼンチンと同じく大畜産国である歴史を反映して、ウルグアイではアサードやチュラスコ、チョリソなど肉を多く食べる。また、イタリア移民が多いためスパゲッティ等のパスタ類も広く食べられている。その他の料理にはエンパナーダ、ドゥルセ・デ・レチェなどがある。, ラ・プラタ諸国の中でも特にマテ茶を好む国であり、アルゼンチン人とウルグアイ人を見分ける時は、マテ壺を24時間手放さないのがウルグアイ人であるといわれている。ウルグアイ人はマテ茶をアマルゴ(砂糖なし)にして飲むことを好む。, 1819年にアルティーガスに仕えた連邦同盟の軍人だったバルトロメ・イダルゴ(スペイン語版)がガウチョ文学(英語版)を開始した。それまで浮浪者同様に見られていたガウチョを解放戦争の真の主体として描き、ウルグアイ、アルゼンチンのアイデンティティと結びつけた最初の人間である。, また、ウルグアイは19世紀末から20世紀初頭のモデルニスモ文学の中心地の一つであり、ラテン・アメリカ最大の詩人と呼ばれるニカラグアのルベン・ダリオに次ぐ唯一の詩人ホセ・エンリケ・ロドー(スペイン語版、英語版)の出身地である。代表作はアメリカ合衆国のラテン・アメリカに対する覇権主義を最初に警告した『アリエル(スペイン語版)』(1900)など。ホセ・マルティと同様にアメリカ合衆国との対比でラテンアメリカの精神文明を称揚した頃のウルグアイは、ラテンアメリカ・ナショナリズムの中心地の一つであった。, 20世紀以降の作家には、ノーベル文学賞に数回ノミネートされた女流詩人のフアナ・デ・イバルボウロウ(英語版)や、セルバンテス賞作家のフアン・カルロス・オネッティ、『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』(1971)で知られるジャーナリストのエドゥアルド・ガレアーノ、他にもマリオ・ベネデッティやフェリスベルト・エルナンデス、クリスティーナ・ペリ・ロッシ(スペイン語版、英語版)らが挙げられる。, タンゴ(ウルグアイ・タンゴ)やミロンガ、ブラジルのバツカーダに似た黒人音楽カンドンベや、ムルガといった音楽の本場であり、チャマメやパジャドールなど幾つかのフォルクローレはアルゼンチンと共通している。フォルクローレにおいて、特に有名な人物としてはアルフレド・シタロッサの名が挙げられる。タンゴにおいては、古典となっている「ラ・クンパルシータ」(1917)を作曲したのはウルグアイ出身のヘラルド・マトス・ロドリゲスである。, 多くのミュージシャンは市場規模の違いからブエノスアイレスやスペインに渡って活動する傾向があるため、古くはフランシスコ・カナロ、フリオ・ソーサ、ドナート・ラシアッティ、ルベン・ラダ、エドゥアルド・マテオから、ハイメ・ロース、スペイン語で初めてアカデミー賞を取った、ホルヘ・ドレクスレルに至るまで、アルゼンチンやスペインの音楽界で活躍するのが実はウルグアイ人だったという事例には事欠かない。また、ロックが盛んでウルグアイのロックはブエノスアイレスの音楽シーンで人気を博したことを皮切りに、1960年代半ばまでの南米市場を席巻した。この現象はアメリカではウルグアヤン・インベイジョンとも呼ばれる。, ウルグアイ出身の画家としては、歴史画のフアン・マヌエル・ブラネスや、ホセ・クネオ、ネルソン・ロメロなどの名が挙げられる。1930年代の抽象絵画のホアキン・トーレス・ガルシアは特に有名である。, ウルグアイにおいて映画製作は盛んではないが、「ウイスキー」(2004)のフアン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールは著名な映像作家として挙げられる。, サッカーウルグアイ代表(ロス・チャルーアス、セレステ)は、かつては同じ南米のブラジル、アルゼンチンと併せて3強と呼ばれ、欧州からも一目置かれ、世界の強豪に全く引けを取らなかった程。第1回の1930 FIFAワールドカップ大会では初代優勝国となり、ブラジルで開催された第4回の1950 FIFAワールドカップでも、リオ・デ・ジャネイロのエスタジオ・ド・マラカナンで行われた決勝戦にて、アウェーの満員のスタジアムでブラジル代表を逆転で破り、二度目の優勝を飾った(いわゆるブラジル側から見たマラカナンの悲劇)。, また、FIFAワールドカップが始まったそもそものきっかけも、実はこのウルグアイである。ウルグアイ代表がオリンピックのサッカーで1924年、1928年と連覇を達成し[24]、それからサッカーの人気が広まりFIFAワールドカップが始まったのである。, FIFAワールドカップは1970年にベスト4入りして以降は優勝候補から遠ざかっている[24]。長らくは古豪と呼ばれて低調が続いていたが、2010年南アフリカ大会では、南米予選5位で北中米カリブ海4位のコスタリカ代表とのプレーオフに勝利し、2大会ぶりの本大会出場を決め、本大会では40年ぶりのベスト4入りを果たした。また、コパ・アメリカ2011では6大会ぶりの優勝を果たし古豪復活を印象付けた。以後は国際大会の常連に返り咲いている。, プロクラブとしては、ペニャロール、ナシオナル・モンテビデオ、デフェンソール・スポルティングなどのサッカークラブがある。, インヴァソール(競走馬) - 2006年の米年度代表馬、同年の世界トップレートを持つ。元はウルグアイの調教馬で、2005年に全く次元の違う強さでウルグアイ三冠(無敗)を達成していた。, 座標: 南緯34度53分 西経56度10分 / 南緯34.883度 西経56.167度 / -34.883; -56.167, Himno nacional de Uruguay (Orientales, la Patria o la Tumba), 本選挙におけるムヒカ候補の得票率は47.96%であり過半数では無いので決定選挙が行なわれた。ラカジェ候補の得票率は29.07%。, ウルグアイ大統領選 元ゲリラの左派候補当選(スポニチアネックス09年11月30日記事), 2005年に発足した「拡大戦線」のバスケス政権は貧困層支援の変革をはじめとして、最低賃金や年金の増額、貧困家庭への支援金給付、教育予算の増額などを進めてきた。外交では中南米諸国との関係を強め、地域統合を促進してきた。また、新自由主義と対米従属の路線を転換した。, パラグアイ国とウルグアイ国の木材事情  西村勝美 (森林総研) No.17 Page.23‑25 1995年10月 JST資料番号 : L1770A ISSN : 1347‑9504, 内田みどり「ウルグアイの新しい社会と女性 先進国の憂鬱」『ラテンアメリカ新しい社会と女性』国本伊代:編、新評論 2000年3月, World Economic Outlook Database, October 2018, Chile and Uruguay least corrupt countries in Latam, http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20091130016.html, http://www.elpais.com.uy/100301/ultmo-474061/ultimomomento/mujica-asumio-como-presidente(スペイン語), World Economic Outlook Database, October 2014, https://web.archive.org/web/20170525104148/http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104080144.html, Atlas Sociodemografico y de la Desigualdad en Uruguay, 2011: Ancestry, “「最も貧しい大統領」の温情がアダ…南米小国が助けたシリア難民「出国させろ」の皮肉”, https://web.archive.org/web/20160815175752/http://www.sankei.com/west/news/151110/wst1511100004-n1.html, https://web.archive.org/web/20160320155719/http://www.sankei.com:80/west/news/151110/wst1511100004-n2.html, https://web.archive.org/web/20160220220316/http://www.sankei.com:80/west/news/151110/wst1511100004-n3.html, https://web.archive.org/web/20160219233936/http://www.sankei.com:80/west/news/151110/wst1511100004-n4.html, https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/uy.html, http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure.asp?id=242, http://www.anzen.mofa.go.jp/manual/uruguay.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ウルグアイ&oldid=80077941. アルゼンチンの食文化 南アメリカ大陸の南東部を占めるくさび形をしたアルゼンチン。 北東部には亜熱帯のジャングル、西側はチリとの国境に沿って南北にそびえるアンデス山脈、ラ・プラタ川流域に広がる広大な大草原パンパ、南にはパタゴニア台地と、大自然に恵まれています。 ウルグアイ東方共和国(ウルグアイとうほうきょうわこく、スペイン語: República Oriental del Uruguay )、通称ウルグアイは、南アメリカ南東部に位置する共和制 国家である。 首都はモンテビデオ。 北と東にブラジルと、西にアルゼンチンと国境を接しており、南は大西洋に面している。 JavaScriptの設定を有効にしてご利用ください。無効の場合、当サイトを正常にご利用いただけない場合があります。, 肉の国アルゼンチンの国民的スナック、チョリパン。肉汁が溢れ出すチョリソーをカリッと焼いたパンで挟んで、お行儀は気にせず、かぶり付く。途端、脳内のリミッターが外れる。最後のひとかけを食べ尽くすまでもう止まらない。, 「日本にはまだない食べもの」「チョリソとパンの組み合わせが秀逸」「名前がキャッチー」「アルゼンチンが好き」こういった理由から、チョリパンの店を東京に出そうと思った中尾さん夫妻。世界一周の旅から帰ってしばらく日本で過ごした後、修業のために再びアルゼンチンを訪れた。, 首都ブエノスアイレスには、チョリパン屋がずらりと並んでいるエリアがある。毎日そこに通ってしらみつぶしに試食し、そのなかの1軒に弟子入りを頼んだ。「味がよかったのもありますが、恐そうなオヤジばかりのチョリパン屋のなかで、その店の店主がいちばん話しかけやすかったんです」と中尾真也さんは笑う。, 滞在可能期間の3ヶ月をめいっぱい使って、修業させてもらったのだが、どの店もそうであるように、肝心のチョリソが自前ではなかった。そこで配達のお兄さんをつかまえて頼み込み、チョリソ工場の場所を突き止めた。工場でも頭を下げ、つくり方を教えてほしいと頼んでみたのだが、「ダメダメ」とにべもなかった。中尾さんはすっぽんのように食らいついた。毎日早朝から工場に通い、暗くなるまで彼らの目に入るところでウロチョロした。そのうち工場の人たちも笑顔で接してくれるようになり、3週間かかってようやくレシピを聞くことができたのだ。, 「豚のタンを入れて食感を出したりしています。ただ日本の食材だと、ねかせるタイミングやスパイスの分量が現地と同じようにはいかなくて、いろいろ試しながら工夫していきました。味がしっくりくるまで5年くらいかかりましたね」中尾さんはほぼ毎日、店でチョリソを仕込んでいる。材料を腸詰めにしてから2~3日冷蔵庫でねかせ、その後、炭で半生状態まで焼き、1日おいて使用するという。「炭で焼くことで熟成が進んで、より旨味が増すんです」, 注文すると、中尾さんはチョリソを半分にカットし、焼き始めた。フライパンを包むほどの強火だ。チョリソから染み出た脂に火が移り、フランベのように炎が上がった。, 同時にパンも焼く。こっちは炭を使う。アルゼンチン式バーベキューの「アサード」同様、ごつい金網の下で炭をおこし、その上に全粒粉パンをのせる。「余分な水分が抜けて表面がカリッとします。炭の香りはアルゼンチンの味の要なので」, わざわざ炭をおこすわけだから、かなり手間だと思うが、現地のチョリパン屋の味を忠実に再現しようとしているのだ。焼けたパンにチョリソをのせ、チミチュリ――酢と油にオレガノ、唐辛子、パプリカなどを入れたソース――をかけて完成。, かぶりつくと、香ばしいパンの皮がパリパリ砕けて全粒粉のふっくらとした甘味が口内に広がり、次いで、こんがり焼けたチョリソの表面に歯がガリッと刺さる。噛み砕くと、粗挽きの牛肉ミンチが弾けるようにあふれだす。同時に、チミチュリの酸味および辛味が広がり、唾液が大量に分泌された。うはは、これだよこれ。僕はテンションが一気に上がり、飢えた鮫のようにバクバクかぶりついた。同行していた編集者の“しゃべらなければイケメン”大治朗くんは初めての味に目を丸くしている。腸詰をはさんだパンだからホットドッグだろう、なんて思っていた君ぃ、ザクとは違うんだよ、ザクとは。, “国民食”には人口に膾炙するだけの理由がちゃんとある。世界を旅しながら、各国のスナックを食べるたびにそう思ったものだが、チョリパンほど説得力のある料理はなかなかないかもしれない。伍するのはメキシコのタコスぐらいかな。パッと思いつくものでは。「アルゼンチン人のお客さんもよく来ますよ。『日本でこの味が食べられるなんて』とウルウルした目で語ってくれた人もいましたね。訊けば、3年帰っていないって」いまでも中尾さんたちはアルゼンチンに足を運び、現地の味を確かめ、チミチュリの材料を仕入れてくるという。, 「ちゃんとしたものをつくらないと、と思うんです。日本ではほとんどの人がチョリパンを知らないわけですから、自分たちには責任があります。ウチのを食べてアルゼンチンの食の印象を決める人もいますから」なるほどなあ。「ほとんどの人が知らないから」という同じ理由で、「手を抜ける」と考える人は少なくないと思う。でも模倣には、“厚み”がない。本物にこそ文化が備わっているからだ。文化とは長年かけて磨かれ、定着したものだ。中尾さんのように他国の食の成り立ちを理解し、リスペクトしている人がつくるから、人の心を打つんだろうな。, 赤ちゃんパンダが2年に一度生まれている南紀白浜出身。羊肉とワインと鰯とあんみつと麺全般が好き。著書の自転車世界一周紀行『行かずに死ねるか!』(幻冬舎文庫)は国内外で25万部超え。ほかに世界の食べ物エッセイ『洗面器でヤギごはん』(幻冬舎文庫)など。, dancyu会員のみなさまには、会員限定のイベントなどお得な情報をいち早くお届けします!, 。「ほとんどの人が知らないから」という同じ理由で、「手を抜ける」と考える人は少なくないと思う。でも模倣には、“厚み”がない。本物にこそ文化が備わっているからだ。文化とは長年かけて磨かれ、定着したものだ。. アルゼンチン人から見て、日本人の方が行うことでマナーにかなっていなくて顔をしかめられたりすることがありますので、ちょっとお耳に入れておきたいと思いました。 アルゼンチンの国民食「チョリパン」を食べたことはあるか? 2020.02.13; 連載 : アルゼンチンを巡る冒険。 肉の国アルゼンチンの国民的スナック、チョリパン。肉汁が溢れ出すチョリソーをカリッと焼いたパンで挟んで、お行儀は気にせず、かぶり付く。 ウルグアイ東方共和国(ウルグアイとうほうきょうわこく、スペイン語: República Oriental del Uruguay)、通称ウルグアイは、南アメリカ南東部に位置する共和制国家である。首都はモンテビデオ。北と東にブラジルと、西にアルゼンチンと国境を接しており、南は大西洋に面している。スリナムに続いて南アメリカ大陸で二番目に面積が小さい国であり、コーノ・スールの一部を占める。, 面積や総人口は南米の国家としては小規模だが、チリに続いてラテンアメリカで二番目に生活水準が安定しているとされ、政治や労働は南米で最高度の自由を保っているとされるが、近年、銃器を使用した強盗が年々増加するなど治安が悪化している。[要出典], 正式名称はスペイン語で、República Oriental del Uruguay(レプブリカ・オリエンタル・デル・ウルグアイ)。通称、Uruguay [uɾuˈɣwai̯] ( 音声ファイル)(ウルグアイ)。, 英語の公式表記は、Oriental Republic of Uruguay(オリエンタル・リパブリック・オヴ・ウラグアイ(ユラグアイ))。通称、Uruguay [ˈjʊərəɡwaɪ]。, 日本語の表記は、ウルグアイ東方共和国。通常、ウルグアイと表記され、ウルグァイとされることもある。漢字表記は宇柳貝または宇柳具となる。, 国名は西部を流れるウルグアイ川に由来し、その原義はグアラニー語で「uru(ウルという鳥の)gua(飛ぶ)y(川)」とされる。正式国名の「東方」は同川東岸地域をかつてバンダ・オリエンタル(東方州)と呼んだことに由来する。, 現在のウルグアイに当たる場所にはヨーロッパ人の到達直前には、約5,000人程の先住民がいたと推測されており、タワンティン・スウユ(インカ帝国)の権威がこの地には及ばなかったため、モンゴロイドのチャルーア人とグアラニー人をはじめとするインディオの諸集団が、狩猟や原始的な農耕を営みながら生計を立てていた。, 1516年にスペイン人フアン・ディアス・デ・ソリスがここを探検。1520年にはフェルディナンド・マゼランがラ・プラタ川を遡上。その航海の中で、現在のモンテビデオに当たる地域にあった140m程の小高い丘を見た時に発した「山を見たり!(Monte Vide Eu!)」というポルトガル語が首都の名前の由来であるという説がある(名前の由来については他の説もある)。, 平坦な丘陵が続き、特に鉱山資源もないこの土地は殖民が遅れたが、放牧された牛、馬、羊が大繁殖するといつの間にかガウチョが住むようになり、家畜を取り合ってスペインとポルトガルの争いが始まった。1680年にポルトガルがコロニア・デル・サクラメントを建設すると、スペインが追随して1726年にモンテビデオを建設した。こうしてこの地は両国の係争地になったが最終的にはスペインの植民地となり、「ウルグアイ川東岸地帯(Banda Oriental del Uruguay,バンダ・オリエンタル)」と呼ばれるようになった。その後、両国の戦争と、1750年代のイエズス会追放によるグアラニー戦争(英語版)で先住民グアラニー人がパラグアイに撤退した。1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が創設されると、モンテビデオはブエノスアイレスに続く第二の港として発展した。, フランス革命以降、ヨーロッパで続いたナポレオン戦争により、ナポレオン・ボナパルトの指導するフランスとスペインが同盟を結び、イギリスと戦うことになると、イギリスはラ・プラタ地方に目をつけ、1806年にブエノスアイレスに侵攻し、また、同年モンテビデオを占領する。ホセ・アルティーガス(英語版)はこのイギリス軍の侵攻に対して民兵隊を率いてあたり、1807年にブエノスアイレスでポルテーニョ(英語版)民兵隊に敗れたイギリス軍はモンテビデオからも撤退した。翌1808年フランス軍がスペインに侵入し、ナポレオンは自身の兄ジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発する住民が蜂起し、スペイン独立戦争が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、各地でクリオージョ達による自治、独立運動が進んだ。, 1810年5月25日、ブエノスアイレスでの五月革命が勃発し、ポルテーニョ(英語版)達がラ・プラタ副王を追放すると、1811年から共和主義者で連邦派のカウディージョホセ・アルティーガス(英語版)によりスペインに対する独立戦争が始まった。1811年にブエノスアイレスと呼応してラス・ピエドラスの戦いでスペイン軍を破った後、アルティーガスはバンダ・オリエンタルを東方州に組織し直し、連邦同盟を結成して、貿易の独占を求めるブエノスアイレスの中央集権派と戦うが、1816年にブラジルからポルトガル軍が侵攻し全土を占領する。アルティーガスによるゲリラ的な抵抗は続いたが、1820年にアルティーガスは最終的な敗北を喫してパラグアイに亡命した。その後バンダ・オリエンタルはブラジルに併合され「シスプラチナ州(「ラ・プラタ河手前の州」の意)」と改称された。しかし、東方州からの亡命者や、連邦同盟に属していたラ・プラタ連合州のリトラル諸州の連邦派の間に東方州の奪還を求める声が上がり、ブエノスアイレスの政府もその声を無視することは出来なくなっていった。, ブラジル帝国とラ・プラタ連合州(英語版)とのシスプラティーナ戦争の係争地帯になったバンダ・オリエンタルに、1825年、ラ・プラタ連合州に亡命していた、かつてアルティーガスの副官だったフアン・アントニオ・ラバジェハ(英語版)将軍が33人の東方人を率いて上陸し、ブラジルからの独立とラ・プラタ連合州への再編入を求めて再び独立戦争を開始する。この500日戦争ではラ・プラタ連合州は連邦派(en)、統一派(en)などの立場の違いを乗り越えてこれを支援し、ラバジェハ将軍は多くの人々の支持を集め、戦況はラ・プラタ連合州有利に進んだ。, しかし、戦争中に国内政策を誤ったベルナルディーノ・リバダビア(英語版)大統領が失脚すると、以降大統領職は空位となり、連邦派のブエノスアイレス州知事マヌエル・ドレーゴ(英語版)がその後の戦争指導に当たった。しかし、指導力の低下は隠し難く、アルゼンチンは有利な戦況を講和に生かすことが出来なかった。この結果1828年8月27日、アルゼンチンの勢力が伸張することを望まないイギリスの仲介により、ブラジルとアルゼンチンの間でモンテビデオ条約が結ばれ、バンダ・オリエンタルは「ウルグアイ東方共和国」として独立を果たした。長年にわたる戦争の惨禍により、独立時にはわずか74,000人の人口しか残っていなかった。また、この独立直後の1831年に初代大統領のフルクトゥオソ・リベラ(英語版)の甥が北部にわずかに生き残っていたチャルーア人を襲撃し、民族集団としてのチャルーアは絶滅した。, 独立後は1839年にリベラ政権によるアルゼンチンへの宣戦布告により、大戦争がはじまった。アルゼンチンと結んだ元大統領のマヌエル・オリベ(英語版)がモンテビデオを包囲するも、最終的にフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)の寝返りにより、大戦争は1852年にアルゼンチンでフアン・マヌエル・デ・ロサスが失脚することにより幕を閉じるが、このような争いに代表されるように、ブラジルとアルゼンチンとの対立の中で、両国の力関係次第でコロラド党(自由主義派、親ブラジル派)とブランコ党(保守派)が対立しあう政情不安が続いていた。, しかし、両党の内戦の結果の末に起きたパラグアイとの三国同盟戦争が終わると、緩衝国家の必要性を痛感したアルゼンチン、ブラジル両国の政策転換により、ウルグアイへの内政干渉が和らぎ、その後多くの移民がヨーロッパから渡来すると、有刺鉄線の普及による19世紀後半の畜産業の発展と、鉄道網の拡大により経済は繁栄した。政治的にはコロラド党・ブランコ党の二大政党制が定着したかに見えたが、安定には程遠く、しばしば両党が軍を率いての内戦になった。, 20世紀に入り、最後となった内戦に勝利した、コロラド党のホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス大統領によって、スイスをモデルにした社会経済改革が行われ、ウルグアイは南米で唯一の福祉国家となった。この後ウルグアイは南米でチリと並んで安定した民主主義国家として発展することになる。1929年にバッジェ大統領が死去する頃にはウルグアイは南米で最も安定した民主主義国となっていたものの、バッジェの改革は経済構造にまでは手がつけられなかったため、後に大きな禍根を残すことになる。, バッジェは福祉国家を築き、ウルグアイは「南米のスイス」と呼ばれたが[2]、バッジェの死後の1930年代に重工業化には失敗し、大土地所有制度にも手が付けられず、牧畜産業主体の経済構造を変えることができなかった。それでも第二次世界大戦、朝鮮戦争の頃まで体制は安定していたが、1955年を境に輸出の激減と経済の衰退が進行した。, 1955年から主要産業であった畜産業の低迷により経済が停滞すると、次第に政情は不安定になり、1966年には大土地所有制の解体などを求めて南米最強と呼ばれた都市ゲリラ、トゥパマロスが跋扈した。このような情勢の中で、1951年に一度廃止された大統領制は対ゲリラ指導力強化のために1967年に再び導入された。トゥパマロスと治安組織の抗争が進む中、1971年の大統領選挙で左翼系の拡大戦線が敗北すると、トゥパマロスの攻撃はさらに激化したが、政府は内戦状態を宣言してトゥパマロスを鎮圧した。しかし、内戦を軍部に頼って終結させたことにより、軍部の発言力の強化が進むことにもなった。, トゥパマロスの攻勢が収まると功績があった軍部が政治介入を進めた。1973年のクーデターにより軍部は政治の実権を握り、「南米のスイス」とも称された民主主義国ウルグアイにもブラジル型の官僚主義的権威主義体制が導入された。1976年にはアパリシオ・メンデス(英語版)が大統領に就任し、ミルトン・フリードマンの影響[要出典]を受けた新自由主義的な政策の下で経済を回復させようとしたが、一方で労働人口の1/5が治安組織の要員という異常な警察国家体制による、左翼系、あるいは全く政治活動に関係のない市民への弾圧が進んだ。1981年に軍部は軍の政治介入を合法化する憲法改正を実行しようとしたが、この体制は国民投票により否決され、ウルグアイは再び民主化の道を歩むことになった。, 1985年の民政移管によりコロラド党のフリオ・マリア・サンギネッティが大統領になったが、経済は安定しなかった。1990年代にはメルコスールに加盟した。2005年に拡大戦線からタバレ・バスケスが勝利すると、ウルグアイ初の左派政権が誕生し[2]、同国の二大政党制は終焉した。バスケス政権は経済の再生と、メルコスールとの関係強化などに取り組み、現在は再び民主主義国家として小国ながらも存在感を見せている。, 2010年3月1日、バスケス政権の政策継続を掲げた、元極左ゲリラトゥパマロス指導者で元農牧・水産相のホセ・ムヒカが大統領に就任した。2015年3月1日、バスケスが、再び大統領に就任した。2020年から、中道右派・国民党のルイス・ラカジェ・ポーが大統領に就任した。, 国際連合、米州機構、ラテンアメリカ統合連合、メルコスール、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体の加盟国。ラテンアメリカ統合連合とメルコスールはモンテビデオに事務局がある。, 立憲共和制であり、現在は大統領が国家元首となっている。また、過去に導入された執政委員会制度への反省から1967年憲法は大統領に大きな権限を与えている。大統領の任期は5年であり、副大統領と組で選挙によって選出される。なお、大統領の再任は禁止となっている。, トランスペアレンシー・インターナショナル(TI)による2018年度の腐敗認識指数ランキングでは23位[3]とラテンアメリカ第一位であり、域内では腐敗しておらず、比較的しっかりした法治国家だと認識されている[4]。, チリと並んでラテン・アメリカでも伝統ある民主主義国家であり、バッジェが現れてからはラテン・アメリカの混乱の中で安定した民主主義と高度な福祉を維持したことにより、一時期は南米のスイスとも呼ばれた。第二次世界大戦後はスイスの制度を参考にバッジェの構想した複数行政制度が1952年憲法で完成し、大統領制は廃止され、9人からなる執政官による執政評議会制度が完成した。世界でも珍しい政治体制により、ウルグアイ人は自らの国を「民主主義の実験室」と呼んだが、1960年代に都市ゲリラトゥパマロスの攻撃が進むと、ゲリラ戦に迅速に対処するために1967年憲法で再び大統領制が導入された。, 1973年に、戒厳令を敷いた軍部によってトゥパマロスが鎮圧されると、鎮圧の功績によって発言力を拡大した軍部は政治に介入し、1973年には事実上の軍政が敷かれた。これによりウルグアイにもブラジル型の官僚主義的権威主義体制と呼ばれる軍事政権が誕生すると、諸外国には同時期のチリ・クーデターと同様の驚きをもって迎えられた。しかし、ウルグアイ人の民主主義への意識は強く、1981年に軍政の合法化を意図して行われた国民投票は否決され、1985年に軍政は民政移管されることになった。, 2004年10月31日に実施された2004年ウルグアイ大統領選挙(スペイン語版)で、社会党、共産党を含む20以上の左翼・中道勢力を結集した拡大戦線(進歩会議・拡大戦線・新多数派)のタバレ・バスケス候補が、与党である国民党(ブランコ党)のホルヘ・ララニャガ(Jorge Larrañaga)候補を抑え当選した。それにより1852年以来の、コロラド党、国民党という親米保守の二大政党による独占支配に終止符が打たれた。, 2009年10月末に行われた大統領選挙の最上位2人が候補である決定選挙[5]が11月29日に行われ「拡大戦線」のホセ・ムヒカ上院議員が保守野党・国民党のラカジェ元大統領を破って当選した[6]。ムヒカは、バスケス政権[7]の政策を継承すると強調し、税金の累進制の強化や奨学金の充実など国民生活支援を続けると公約した。ダニロ・アストリが副大統領に就任し、大統領就任式には中南米の7人の首脳のほか、米国のヒラリー・クリントン国務長官が参列している[8]。ムヒカ大統領は就任直後から精力的な外交活動を展開、11日にはチリのセバスティアン・ピニェラ新大統領の就任式に出席、12日から14日までボリビアのエボ・モラレス大統領と資源問題を含む両国の関係強化に向けて会談した。, 志願制で、陸海空の3軍を併せて約23,500人の兵員から構成され、2007年時点でおよそ2,500人程の兵員がコンゴ民主共和国及びハイチを中心に合わせて12のPKOに従事している。1960年代以前はラ・プラタ川の洪水時に出動する程度の任務しかなかった軍の政治力は余り強くなかったが、70年代にトゥパマロスと交戦、これを鎮圧したことを期に政治介入が進み軍政となったが、80年代の民政移管以降はその政治的影響力は低下しているとされる。, ウルグアイは19県で構成される(スペイン語でdepartamentos、単数形の場合departamento)。, 国内第二都市のサルトでも人口は約10万人程度であり、極端なモンテビデオ一極集中である。, ウルグアイは南アメリカ大陸で2番目に面積が小さな国であり、パンパの国ゆえに国土のおよそ88%を可耕地が占め、ほとんどの土地は平らな荒れ地と、緩やかな丘の風景が広がっている。また、海岸近くには肥沃な耕作地帯が広がる。国土はネグロ川を境に南北に分けられ、北部のブラジル国境付近ではそのままブラジル高原に続くために標高が多少高くなっている。森林は約90万haしかなく国土の5%に過ぎない[9]。そのため天然林は伐採禁止である[9]。, 国土の多くは草原となっており馬や牛や羊が飼育されている。野生動物にはカピバラやダチョウに良く似たニャンドゥなどがいる。, ウルグアイには高山はなく、国内で最も高い山は標高 513.66 m (1,685.2 ft) のカテドラル山である。, ブラジル、アルゼンチンと国境を接し、北西部のアルゼンチンとの国境地帯のサルト県には温泉があり、アルゼンチンから湯治客がやってくる。ブラジルとの国境のロチャ県には大湿原が広がる。ブラジル国境付近のリベラ(ブラジル側のサンタナ・ド・リブラメントとの双子都市)の人々にはポルトゥニョール・リヴェレンセ (Portuñol)と呼ばれる、スペイン語とポルトガル語が混ざった言葉を話す人々がいる。, ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属する。季節風を遮る高山がないので冬は南極からの冷風の影響を、夏はブラジルからの熱風の影響を強く受ける。モンテビデオでは一年を通じて穏やかな気候が続く。, 6月が最も寒く、1月が最も暑い。一年を通して毎月大体同じ量の雨が降るが、特に秋には多くなる。また、夏はしばしば雷雨が吹き荒れる。冬に雪が降ることはまれである。, 1984年からウルグアイは南極のキング・ジョージ島にヘネラル・アルティーガス観測所を設けている。, IMFの推計によると、2013年のウルグアイのGDPは約557億ドルである。一方、一人当たりのGDPでは16,421ドルとなり、これは世界平均の1.5倍を超え、南米では最も高い水準である。[10] アルゼンチンの文化的特徴を一つ挙げるとすれば、それはヨーロッパに起源を持つ文化を中心にしながらも、もともと現地にいた先住民達や非ヨーロッパ系の移民による文化が内包された多文化社会だってこと。 19世紀前半ばには純粋な白人と呼ばれる人の人口割合は10%にも満たない状況でしたが、19世紀半ばから「国家の西欧化」としてヨーロッパからの移民を大量に受け入れる政策を推し進めた結果、現在はヨーロッパ系の住 … アルゼンチンのチョリパンは、牛肉と豚肉からできたソーセージをグリルで焼き、真ん中で切手ロールパンに挟む 。 半分の長さに切る場合があり、後者については「蝶」という意味のマリポーサと呼ばれる。 アルゼンチンの食生活. チョリパン(Choripan)は、アルゼンチン、チリ、ウルグアイで人気のある、マラケタやバゲット等のパンでチョリソーを挟んだサンドイッチである[1][2]。, アルゼンチンのチョリパンは、牛肉と豚肉からできたソーセージをグリルで焼き、真ん中で切手ロールパンに挟む[3]。半分の長さに切る場合があり、後者については「蝶」という意味のマリポーサと呼ばれる。チミチュリ等のソースをかける。, チョリパンは、アサードを作っている間の前菜として食べられるのが一般的だが、特にサッカー場等のスポーツ観戦施設や主要都市の路上でも販売される。ブエノスアイレスのタクシー運転手の常食であり、ランチタイムには露店に長いタクシーの列ができる。, ブラジルにもいくつかのタイプのチョリパンがあり、アルゼンチンのものに最も似たものはsalsipaoと呼ばれ、バゲットに似た小さなロールパンと豚肉のソーセージを用いてブラジル南部で作られる。シュラスコを作っている間の前菜として食べる他、短時間で作れるため、バーベキューの代わりとしても食べられる。他の地域では、「ソーセージサンドイッチ」という意味のsanduiche de linguicaと呼ばれる様々なタイプの料理が人気である。そのほとんどがPao francesと呼ばれるバゲットに似た小さなロールパンと豚肉のソーセージを使うが、他のパンやソーセージを用いるものもある。トッピングとして、溶けたチーズ、ヘケイジョン、ソテーしたタマネギ、ヴィネグレットソース、フライドポテト、マスタード、ホットソース等が加えられることもある。時に冷たいビールと一緒に、カジュアルな夕食として露店で非常に人気がある。, チリでは、特にアサードを食べる際の古典的な前菜としてチョリパンは非常に人気がある。チリのチョリパンは、伝統的にマラケタを用い、アヒやペブレ、またマヨネーズ等をトッピングする。チョリソーの代わりにロンガニーサを用いることもある。, 通常、パン屋("panaderias")で販売される。"pan de agua"と呼ばれるプエルトリコ風のパンにチストラ等のスペイン風のチョリソー、ピクルス、マヨネーズを挟む。ケソ・マンチェゴやケチャップをトッピングすることもある。, 豚肉から作ったチョリソーをそのまま、または半分の長さに切って用い、チミチュリとマヨネーズをかける。トマトやレタスを一緒に挟む場合もある。バゲットや柔らかいロールパンの"pan catalan"を用いるが、サッカーの試合では、シンプルなロールパンやハンバーガーのようなバンズを用いる。アルゼンチンとは異なり、アサードの前菜としてだけではなく、付け合わせとしても食べる。, アメリカ合衆国では、マイアミのキューバ料理店やカフェのランチカウンターで食べられる。キューバのパンを用い、生又はフライしたタマネギをトッピングする。トロピカルフルーツシェークとともに食べるのが人気である。, El papel del traductor en una sociedad diglosica, “Choripan and Superpanchos - Argentine Fast Food is Slow Grilled”, 20 Must-Try Street Foods Around the World, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=チョリパン&oldid=76965443. 牛の丸焼きが名物。 何かと理由を付けて祝いの丸焼きを作ろうとする; 下手すると穀物より牛肉が安い 牛肉は「グラム」ではなく「キログラム」単位で売ってる。一番手ごろな食品なので年中そればっか食べてる。 正解。 主な昼食。食文化はスペインからよりもイタリア系移民の影響を強く受けているように思います。 まるで「ヴァンパイア」!? アルゼンチン人の睡眠スタイル. アルゼンチンの典型的な朝食は、バタ-をたっぷり塗ったト-ストとフル-ツ、それにカフェ・オレです。パンにドゥルセ・デ・レチェというミルクジャムを塗って食べる人もいます。このジャムは、日本のキャラメルに似た味で、アルゼンチン人なら皆大好きです。 じりつつも、インディオの伝統を引き継ぐアルゼンチンの食文化は、一言では表わすことのできない魅力がたくさん詰まっています。, マタンブレ(詰め物入り牛肉ロール), ドルセ・デ・レチェ(濃厚ミルクジャム). アルゼンチンの典型的な朝食は、バタ-をたっぷり塗ったト-ストとフル-ツ、それにカフェ・オレです。パンにドゥルセ・デ・レチェというミルクジャムを塗って食べる人もいます。このジャムは、日本のキャラメルに似た味で、アルゼンチン人なら皆大好きです。, お昼は1時から2時30分の間にだいたい1時間くらいかけて食べます。ステ-キとサラダ、または牛肉のカツレツとフライド・ポテトがもっとも一般的な昼食です。パスタ、ピザといったイタリア料理をお昼に食べる人もたくさんいます。, アルゼンチン料理にか欠かせないのが牛肉です。アルゼンチンでは、牛は放牧されていて、自然の牧草を食べて育っているので、無駄な脂肪がなく、肉本来の味わいのあるおいしい牛肉をとても安く食べることができます。普通、家で食べる牛肉は100g40円くらいです。おいしい肉を買おうと思ったら、100g80円くらいです。, 夕食の時間は、日本に比べ遅く、10時頃なので、昼食の後、6時頃におやつを食べる人もいます。レストランに行く場合は、9時過ぎに予約していくのが一般的で、10時をまわるとお店は混んできます。子供連れで食事に来ている人々も大勢います。日本では7時頃にレストランに行くことが多いと思いますが、アルゼンチンではその時間にはまだレストランは開いていません。アルゼンチンの夜はとても長いのです。, 一般的な夕食は、肉料理が中心で、あまり魚は食べません。ただし、最近ではタイ、ベトナム、メキシコなどエスニック料理が人気で、魚は健康によいと考えて食べる人が増えつつあります。日本食もブ-ムなので、寿司、お刺身を食べる人も増えています。, アルゼンチンでは、今でも日曜日のお昼に家族で食事をする習慣を守っている人々が大勢います。手作りのパスタ、ピザを食べながらおしゃべりを楽しみます。また、友人を家に招いてアサードというアルゼンチン・スタイルのバ-ベキュ-をすることもあります。, アルゼンチンの食生活を説明する時に、イタリア料理が頻繁に登場するのは、アルゼンチンの人口の約80%がイタリア、スペイン系の人々だからです。イタリア系の人々の影響は、食生活のみならず、生活一般にも浸透しています。, アルゼンチンは、他のラテンアメリカ諸国に比べて先住民の比率がとても低く、また、メスティーソと呼ばれる先住民とヨーロッパ系の人々との混血が少ないのもアルゼンチンの特色です。アルゼンチン人にとって、イタリア料理は食生活の一部となっているので、特にイタリア料理と意識することはありません。ですから、「イタリア料理を食べに行こう」 という言い方はしません。しかし、スペイン料理については、アルゼンチン料理とは区別しており、 「スペイン料理を食べに行こう」と言います。, 「ドゥルセ・デ・レーチェ(DULCE DE LECHE)」は、「SWEET OF MILK (ミルクのお菓子)」に当たるスペイン語で、ミルクをキャラメル化するまで煮詰めたものです。南米ではポピュラーな嗜好品で、パンやクラッカーなどにつけたり、お菓子に使用したり、と日常的に消費されています。, 最近の日本ではアイスクリームのフレーバーとしても人気で、これはもともとアルゼンチン市場向けに開発されたものでしたが、米国でも大ヒットし、ニューヨークタイムズ誌・ビジネスウィーク誌などに取り上げられました。, ドゥルセ・デ・レーチェ(Dulce de Leche)の起こりに関しては、諸説様々あるところですが、ここでは最も一般的に言われているものをご紹介します。, それは、1829年7月17日の朝のこと、首都ブエノス・アイレスから65km離れたカニュエラス(Cañuelas)での出来事。フアン・ラバージェ(Juan Lavalle) 将軍とフアン・マヌエル・デ・ロサス (Juan Manuel de Rosas) は終わりの見えない派閥闘争に終止符を打とうと、協定合意の為に会うことになりました。ラバージェ将軍がロサスのキャンプ地に着いた時、ロサスは外出から戻っていませんでした。そこで、ラバージェ将軍は親族でもあり政敵でもある彼のベッドに横になり、そうしていつしか深く眠ってしまいました。その時ちょうどロサスの部屋の脇にいた召使は、ご主人様がマテ茶に入れて飲むレチャーダ(lecheda、牛乳に砂糖を加えたもの)を弱い火にかけて温めていましたが、ご主人様のベッドに横たわる無礼な敵を見て驚き、急いでその男をベッドからどけようと、見張りにこのことを知らせに走りました。その間、レチャーダはずっと火にかけられたままで、ぐつぐつと煮立ったままゆっくりと少しずつ焦げていきました。一方でキャンプの人々がわいわいと騒いでいるその時、ロサスがちょうど帰ってきました。そしてその様子を見ると、怒る代わりに疲れているであろうと戦士を休ませておくよう命じました。翌朝になってラバージェが目覚めてみると、レチャーダは既に茶色いどろどろのクリームのようになっているのを発見しました。それを誰が最初に試してみたのかは分かりません。レチャーダとしては失敗作です。が、とにかく食べてみたらとてもまろやかで美味しいものでした。これがドゥルセ・デ・レーチェの最初です。, このお話は、双方の将軍が「レチャーダの失敗作」を仲良く食べながら、政治に関するあらゆる論議を交わした、というところで終わります。その後、このドゥルセ・デ・レーチェは、広くアルゼンチンの食卓になくてはならないものとして受け入れられました。, アルゼンチンでよく飲まれるお茶は、マテ茶です。味は少し日本茶に似て渋いですが、とても身体にいいお茶です。, もともとインディオたちが自生していたマテを薬として用いていました。インディオたちは、この葉を「素晴らしい葉」Kaa-guazuと呼んでいました。, 17世紀、スペインの植民地時代に、ミシオネス州に住んでいたイエズス会の修道士たちがこの葉の成分に注目し、インディオの助けをかりて、栽培を始め、今ではアルゼンチンだけでなく、広くラテンアメリカで愛飲されています。マテ茶には、脳と心臓の働きを活性化する作用があります。人種構成の多様なアルゼンチンにおいて、マテ茶はアルゼンチンらしさを示す象徴的な存在です。, 時代を超え、ヨ-ロッパからの影響に左右されず伝統として残ったマテ茶は、アルゼンチン人にとって、正真正銘のインディオから受け継いだ文化的遺産なのです。, マテ茶は、ひとりで飲むことも、グル-プでまわし飲みすることもあります。アルゼンチン人では、家にお客様を迎える場合、マテ茶をふるまう習慣があります。マテ茶は歓迎の儀式なのです。マテ茶を共に回し飲みすることで、そのグル-プの一員として認められたことになるのです。, マテ茶を飲むときに使う容器を、マテといいます。昔は、マテ茶を飲むときに、よく乾燥させたひょうたんを使いました。現代では、地域によってひょうたん以外に牛の角、木、ほうろう引きでできた容器が使われています。マテ茶を飲む時は、ボンビ-ジャという金属製で先端が茶漉しの役割を果たすストロ-のようなものを使います。, 2-14-14 Moto Azabu, Minato-ku - Tokyo - Postal code: 106-0046, Contacto: Marco Diego Estevanes - hkq@cancilleria.gob.ar, Representaciones Argentinas en el Exterior. 食文化 アルゼンチンの広大な土地でのびのびと放牧された牛からは、柔らかくて脂の乗ったおいしい肉ができます。 そのため主食も肉料理が中心で、さらにスペイン植民地時代にエンパナーダやパスタ類の料理が広まり、豊富な食文化が出来上がりました。 !」と激怒したらしい。, そんなことは無いだろう。アルゼンチンの馬と日本の地方競馬の馬ではどう考えても、日本の地方競馬の馬のほうが強いだろう・・・。多分、アルゼンチンの馬はハルウララより弱いと思うぞ。, 馬の強さではなく国際格付け。今でこそ同じグループI国だが、日本は21世紀になって鎖国を解いていき2007年になってやっとだったが、アルゼンチンはずっと前からグループI国。, ウスアイアは最暖月は摂氏10度以下なのに最寒月が摂氏氷点下3度以上。故にツンドラ気候に入れるか西岸海洋性気候に入れるか迷う所。, ウスアイアはオゾンホールの下にあるそうで、住民がみんなサングラス着用。紫外線で目をやられるらしい。羊はみんな真っ赤な目をしていて、失明しているとのことだった。, 南米インディアン虐殺三兄弟の長兄。アメリカなどとは比較にならないほど派手にお掃除した。きれいきれい。, ヨーロッパからの移民の混血が多いので、若い女性には凄い美形が多くいる。 欧米人の常で年配になると美形率急降下するが。, ラグビーも強い。今では南半球3強(ニュージーランド・オーストラリア・南アフリカ)と肩を並べる。, バンダ・オリエンタルをめぐってアルゼンチンはブラジルと100年近く前に戦争があった。, バンダ・オリエンタルは今のウルグアイのこと。独立した今もアルゼンチンとは仲が悪く、ブラジルと仲良しらしい。, まあ隣国同士互いにライバルと思ってるからでしょう。イギリスVSフランス、トルコVSギリシャみたいなものかな。, アルゼンチンでは韓国人犯罪が多いので、韓国人が「追放したい民族第1位」に選ばれたことがある。, かつては牛肉の輸出が基幹産業であり、その事で世界でも有数の経済大国だった。人口の倍の数の牛を飼育してるとか。, 移民受け入れ国のアルゼンチンは高学歴者が留学し海外移民になったり、高学歴者の空洞化が懸念。, おもにアメリカ、カナダ、スペインへ移住。だからアメリカはヒスパニックがどんどん移住して来るんだ。, アルゼンチンのマルチタレント、アルフレッド・カセーロが「島唄」聞いて衝撃受け、作者に無断で、しかも日本語で歌った為。作者の宮沢和史(THE BOOMのボーカル)がアルゼンチンでコンサートやった。, イギリスが嫌いと言われているがスポーツではイギリスの影響をもろに受けている。(サッカー、ホッケー、テニス、競馬など), ちなみにマテ茶はビトミン・ミネラルが豊富に含まれており、「飲むサラダ」と言われている。, フォークランド紛争以前のアルゼンチンは他の中南米諸国から嫌われていた。理由は民族的にヨーロッパ系が多いので、その事で中南米(ブラジル除く)に対して優越感に浸っていたから。, 2013年、ブエノスアイレスの大司教がまさかのローマ教皇に選出され、アルゼンチン人みんな大喜び。史上初のラテンアメリカ出身の教皇となった。(両親はイタリア出身らしいが), 事前のブックメーカーの予想ではほぼ無印で、ブラジルの大司教が対抗レベルの有力候補と見られてたので、その意味でもアルゼンチン人は嬉しいかも。, というのは嘘で、スペイン語で「綺麗な空気」という意味だが、実際はスモッグが酷いことで有名。しかしちょっと町の中心部を離れれば綺麗な空気は吸える。, 30年前は350万人くらい居たのに現在は300万人も居ない・・・ドーナツ化現象?治安悪化?, でも都市圏人口は1200万超。全人口の四分の一以上がブエノスアイレス周辺に住んでいるという東京も真っ青な一極集中。, 街が建設された当初は「シウダ・デ・ラ・サンティシマ・トゥリニダド・イ・プエルト・デ・ヌエストゥラ・セニョラ・ラ・ビルヘン・マリア・デ・ロス・ブエノス・アイレス」というやたら長い名前だった。意味は「三位一体祭の都市と良い風に恵まれた聖母マリアの港」。, 牛肉は「グラム」ではなく「キログラム」単位で売ってる。一番手ごろな食品なので年中そればっか食べてる。. アルゼンチンの国土は日本の約7倍もあり、食糧自給率はなんと90%以上。広大な大自然と多彩な気候に恵まれたこの国では、グルメのレベルが高いのも当然のこと。 アルゼンチングルメの主役はなんといっても、世界一の消費量を誇る牛肉。 新型コロナウイルス関連の投稿は当分の間厳禁といたします。詳しくはこちらをご覧ください。, https://wiki.chakuriki.net/index.php?title=アルゼンチン&oldid=1565624, ボカ・ジュニアーズファンはほんの1年しか在籍しなかったマラドーナがOB面するのを白い目で見ている(リケルメを代表追放してますますその傾向が強くなった)。, そのためサッカーでイングランド等と対戦して負けたときはこれでもかと言うほど落ち込む。, でも、クレスポやテベスとか、普通にイギリスのリーグで活躍しているアルゼンチン人もいる。, 南極条約に加盟しているため、主張する南極地域に他国人が出入りすることは黙認しているが、その一方移住者を送り込むなど実行支配に努めている。, 南ヨーロッパからアルゼンチンへ「出稼ぎ」していたって所に昔のアルゼンチンの地位を見る, アルゼンチンは対外的にろくな輸出産業がないのに米ドル=ペソのレート固定とかやらかした。売るモノがないのに買い物だけは一人前。借金を重ねて「返すアテがあんのかてめぇ」と迫られて「返さねぇよ~ん」と言い放って国ごと差し押さえ。日本も政府の借金は多いが状況は違う。, 何年か前、日本の某市の農協が資産運用でアルゼンチン国債を買ってたら債務不履行(=踏み倒し)をくらい、大損して大問題になった。, で、アルゼンチンで作曲。その為「ラ・クンパルシータは我が国の音楽だ!」論争が両国間で起きている(どちらの国でも知らない人間は国民じゃない、と呼ばれるほどの超メジャー曲), 二つの世界大戦に巻き込まれなかったので、実は1950年代まで先進国だった。しかし現在、その事実を知る者はアルゼンチン人しかいない。, アルゼンチンタンゴのあの音は、アコーディオンではなく「バンドネオン」。12モンキーズのタイトル曲もバンドネオンで演奏されています。, タンゴが国楽(?)。アストル・ピアソラがタンゴに革命を起こし世界中を虜にしたが、あまりに革命的すぎて祖国では, ちなみにピアソラはアルゼンチンべったりじゃなくニューヨーク育ちの帰国子女。それもあって一時はタンゴなんて古くてもう嫌だと言っていたのだが、俺が新しくすればええやんと気付いてから快進撃。, いまでもエビータのことを「聖母」みたいに慕う人が多く、「あんなあばずれ女(マドンナ)がエビータを演じるなんて許せない! 南米大陸にあるアルゼンチンは、ラテン・アメリカ諸国の中でも、ヨーロッパの文化を色濃く持ち合わせている国として有名です。今回は、そんなアルゼンチンの代表的な料理とスイーツをまと … アルゼンチン. ここで、アルゼンチン嫁のシエスタへのこだわ … アルゼンチンの食文化 . アルゼンチンでは、戸外でホットドックスタンドがあっても基本的には立ったままでもその場で食べた後、出掛けます。アイスクリームも同様です。もしくは公園などで芝生やベンチに座って食べます。歩きながら食べたり、バスなどで食べる人は本当にいません。

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