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Feliz Luna , Historia integral de la Argentina tomo 1, y 2 la segunda edición mayo de 1994 Editorial Planeta Argentina, La cultura en tiempo de la colonia y La cultura desde Independencia hasta el Centenario. 原住民はスペインにより宗教、言葉、文化、女や子供も全てにわたり虐脱された。つかまったインヂオは紐で繋がれ露天に家畜のごとく放置された。スペン人の侵略によって、原住民がこれまで築いてきた文化、言語、宗教、等全てが否定され、それに代えてヨ-ウロッパの物質文化の適用を強制されたり女、子供は略奪され男性達は奴隷として動労を強制された。一部の侵略者はインデイオ狩をスポ-ツにしていた残虐な人間もいたとの事。ブエノス市の淑女により結成された聖母による慈善団体はインヂオを助けるとの歌い文句で原住民の子弟を取り合いした。子供を略奪されないように必死で我が子を守った母親は別のスペイン人に売られていった。勿論聖母達に自宅に引き取られた多くの子供達は奴隷のごとくこき使われた。権力者の妻にとってインヂオ達は犬や猫であった。, 1600年初期より亜国の北東部にカトッリクの宣教師Misioneroにより原住民のガラニー族を集めた社会主義の冶自体が創られた、ここで 躾、学問、耕作、建築、宗教、等 教えていた。但しスペイン王とバチカン法王の協定にウルグアイの領土と交換されこれに反発した宣教師と原住民は共にスペイン軍とポルトガル軍により1767に虐殺された。1751よりスペインとポルトル軍の軍隊を相手に勇敢に戦ったが戦闘を知らないまた近代的な武器をもたいないインデイオ軍は簡単に破滅した。但し 私はこの原始林が繁る土地に13年間彼らとほぼ同じような境遇で生活したがこれで思うに多くの残兵また女子、子供はジャングルに潜み逃亡の生活ができたと考える(原始林に一歩はいれば捕まえる事が困難なため)。パラグアイで発行された歴史の本では12歳以上の男性は全て殺されわずか生き残った者ははブラジルから奴隷制度開放に来た兵士により奴隷として連行されたと書いてある(自分の国内にて奴隷制度を廃止していない国が隣国の奴隷制度開放にに来て又捕まえた者を奴隷に連れて帰ったこのように言うことと現実が食い違うのが南米である), 道徳、躾:南米大陸のでは矛盾する事が多くある正者が悪人、右翼が左翼でもある事も多い、南米の国ではカトッリクが国の宗教であり善悪はカトッリクの教えに従って決められており確かに何処の社会でも通じる道徳が社会の常識となっている。この訳か多くの人々が昔から教会に集り社会に貢献した跡が見えるがこ反面多くの偽政者や権力者の悪政の跡も目に付く、なおこれは殖民地が始まった時代より今までも続いている。このような現実はブラジルの昔の首都バイア市の教会を見学しガイドの話を聞けば良く解る(市民の平等をうたい文句に出来ている協会の中の信者の席が下級市民用と上流市民用に区切られてている、正面に立てるべきキリストの像が端に立てられこれを笑顔で見るべき天使達の像がひねくれた顔で皆そっぽをむいて飾ってあるこの裏にはこれらの建設に使われた奴隷達の心情がこのようにさせたとの事), 独立:欧州にて繁栄を続けていたスペインであったが、1800年代になりスペインがナポレオンに制覇され国力が衰退した、ちょうどこの頃、新大陸であった南米は米国の独立にあおられここの地の豪族がスペインの提督に権力放棄せよとせまり勝手に独立した。なにも独立の戦いは無く現地の二世-三世が集まってスペインん提督に迫り提督を指名する王が居なくなり提督が保管している使命状はただの紙切れになったので権限を放棄し我々に渡せと立ち上がった本国の盾を失った提督には威圧する力も無かったので南米の国々は容易に独立する事が出来た模様アルゼンチンは現在の5月広場にある時の市会館であるカビルドにて5月25日にスペインの提督が提督権厳を放棄した。ただし時代の権力者達の個々の利害、プライド、理想が絡みメキシコ南部にあったスペイン領地では沢山の国ができてしまった。時の亜国の若い二世の指導者達がインカ帝国の子孫を皇帝として選び南米のスペイン語国の建設を唱えたが時の権力者達にはうけいれられなかった。この時代では王様が無い国は国として認識されないのが常識であったので米国式の国民の選挙で形成される民衆主義国家が認められるまでには時間が必要であった。, 建国:アルゼンチンの時の政治家はパラグアイ、ウルグアイ、ボリビア、チリも統冶したかったが力なく現在の領土にとどまった。この時期の独立戦争により莫大な債務をブエノスの中央政府は抱え苦し紛れに様々な税金を作った(外国人の資産接収、輸出輸入税の設置、国債発行)それ故に金をもっていた英国が最大の債権者となり亜国の経済を把握しだした。この時英国の資本家に借りたお金はその金額の半分も亜国政府には届かず途中の口銭、リスク代、金利前取で等の名目で消えてしまった、この様なやり方今なお改まらず今日まで多何度も実行された国外からの国の借金と同じである。この種の汚職癖が南米では上から下まで社会にしみついている。, • 但し 政府は議会、法務省、軍隊、税関、郵便局、鉄道、紙幣、十進法の導入、学校、病院、役場、など設立し公務員も沢山雇用し徐々に国の体制が整ってきた。1916年になり何とか各地の指導者が亜国の北西のTucumannに7月9日集まり独立宣言したその時に1810年の5月25日を独立記念日と決め国歌、国旗もようやくでき、奴隷制度廃止し原住民のみに課していたインヂオ税も廃止した。貴族制度またスペイン王政のシンボルも全ての公用紙より取り去った。実際の独立より六年経ってはじめて独立日が定まったがまだ欧米の国々は亜国を国とは認めていなかった。ならびにパラグアイは1811年5月14日、チリは1818年2月、ウルグアイ1830年7月18日ブラジル帝国は遅れて1889年11月15日に独立した。尚この時代の若い指導者達は独立精神に燃えた理想化家も多く汚職もほとんど無かった模様。これら若い独立の指導者達はほとんどが若くして死亡したのは残念であるが国内のあちこちに彼らの銅像または道に名前を残している事をみればやはりこの国の庶民が正義を願い望む声が聞こえる。, • ナポレオンが滅んだ後にスペインがペルより昔の領土の回復を図ったがSan Martin将軍の率いる愛国軍に敗退したため1821年にペルも独立した。, • この戦争の出費を賄うために新たに増税、外国人の資産を接収、輸出輸入税制度導入 それでも足らず国債発行し金を持った英国人に安く売りつけた。この時代より亜国は対外債務に苦しむ事になった。何時の時代でも同じで国の債務は市民から接収する税金で支払いわれ国民は重税に苦しむが政治に携わり特権に守られ納税の義務を免れている一部の権力者の負担にはならないのが南米である。この悪政より資産を守るとの目的にて多くの資産家は裏金をウルグアイまたはその他の国の銀行に預けたり自宅または銀行の金庫に外貨を保管している。この種のリスク回避は個人の資産家だけでは無く、政治家、労働組合の幹部、裁判官、弁護士、など多くの庶民も実施している常識である。このような形で中央銀行より隠れている亜国人の外貨が国の外貨債務全額よりも多くあるといわれている。このように外貨を一般市民が持つ習慣はその他の南米の国では少ない、これにて政府を信じない庶民の本心が見える。, • 余りにも税金が多くなりその上若い男性が軍隊に召集され生産が落ち国民の不満が大きくなった。その結果それまで主体であったボリビアの銀の輸出に変わり塩附けの牛肉や牛皮の輸出が増加した。但し船賃が安くなり米国船が国外より持ってくる衣類、ワイン、砂糖、皮製品、等がブエノスに密輸され国内産業が破壊された。国内の悪くて値段の高い国産品を競争させる自由経済の思想がこの時代よりあったとは思えないがおかげで国内産業また雇用も潰した。, 1822年にブラジルがポルトガルより別れPedro一世の独立国家となりウルグアイに攻めてきた。 Reyes Abadie Bruschera Melogno , La Banda Oriental , Impresora Crdon, Montevideo Uruguay, mayo de 1970 ちなみに種蒔き機は普通5万ドル、農薬散布機は10万ドル、収穫機は20万ドル程度である。 1) 政治経済の概略:私なりに調べ理解しているこの国の歴史の概略: このように現地の人間、文化を軽視する事は今の日本社会にもまだあるのが現実である国外にある欧州のドイツ、フランス、イタリアの学校では母国の言葉と現地の言葉で授業を行い互いの文部省が中学、高校卒業書まで与えているが日本人学校ではバイリグエ、ツリレングエは認めていない戦前に中国、韓国にて実施していた日本語学校と同じであり國際化されていないのが現状である。化学、数学、音楽、哲学、体操などの学問はなに語で教えても同じだろうと私はドイツの現地学校の校長より言われた。日本の文部省は北海道から沖縄まで一つの教育指針に添って児童を育成している。国民を統一するには優れた教育方針であろうが個人の独創、選択の自由を無視しているとも言える。欧州の多国籍企業の幹部には若い時代に現地よりつれてきた女性が奥さんになっている方をよくみるが日本企業ではこの様に異国の女性を妻に持った職員の前途が厳しいのが現状である。 Margarita Duran Estrago Jose Luis Salsa , Testimonio Indigena Editora Litocolor Asuncion Paraguay 1994 2010年10月27日 現職大統領であるCristina Ferandes の夫前大統領が自宅にて急死した。現職大統領の夫であり同時に南米国連盟の会長とともに与党であるペロン党の会長であったので葬儀は大統領官邸にて南米の多くの大統領、労働組合委員、大衆が参加して盛大な国葬となった。 Felipe Pigna, Los Mitos dela historia argentina Editorial Planeta tomo 1.2.y 3 edicion, enero de 2005. の解決に両国の大統領にて話進めているが解決の糸がつかめず困っている。問題は亜国政府が数年前より民衆による勝手な国道封鎖を許容している事と考える。 Jorge Maria Ramallo, Historia argentina fundamental Ediciones Braga Marzo de 1987 アルゼンチン訪問又この国と取引される人はまず歴史を呼んで頂き参考にして下さい。, 新大陸:1492年10月12日コロンブスによってアメリカ新大陸がに発見されこの時からこの新大陸においてスペイン、イギリス、フランス、ポルトガルにより侵略と略奪の歴史が始まった。それ以前この地で栄えていた人々はメキシコ、ペルでは農業、青銅、土器、衣類などを生産しある程度の社会経済や文化も形成されていた。だがこれの文明社会とは別に多くの部族がこの大地にちらばりお互いに競いながら共存していた、かけ離れた原始的な生活を営んでる部族も沢山いた。彼らは物質的な欲が少なく自然の恵みを糧に平和な社会を形成し部族間の争いも無かった。物質的な欲望が薄かったので互いの殺し合いなどはあまり知らず国境も家の囲いも無かった、このように平和な住民であったのでコロンブスが黄金をなぜ欲しがるのか理解できずこのように現在文明とは無縁であった多くの種族が奴隷にされ、また彼らがもたらした病菌に犯され死ぬ者も少ななっかたと亜国の歴史家は語いる。, ある学者によればその当時のアメリカ大陸の原住民は年間70—80日しか働かなかったが平均寿命はその時代の欧州人より長たと見られている。あまり働かず日々遊び優雅な生活していたとの事(欧州では数少ない豪族が優雅な生活をする反面多くの住民は奴隷の様な生活を強いられ食べ物も十分に与えられなかったために多くの幼児が死亡していたのでこの時代の欧州民の平均寿命は35—40才であったとの事)。特にアルゼンチンの平原に住んでいた原住民は耕作せず、土器も作らず、まともな小屋さえも作らず動物の皮をたてにした小屋に住む石器時代の原始生活であったらしい。約1万3千年も前にこの亜国の地に来た人は北米より流れてきたらしいが豊かな自然に恵まれ平和に生活できていた。, コロンブスによって発見されスペイン軍の侵略が始まる前のこの南アメリカではインカ帝国の前身である数々の部落により農業、工業、文化が栄えていた数百年前ごろよりボリビアの国境地帯はアイマラ又インカ帝国の影響でその時代では近代的な農業、青銅、土器、陶器の技術が伝わり部落もできていた遺跡が見つかっており一部の技術は今でもなお受け継がれている。またジャングルで住んでいたガラニ-族の社会では高度の産業や文化は生まれなかったパラグアイの住民はジャングルの中にヤシの木の葉っぱで小屋で造られた部落があった彼らは土器を作りキャサバやトウモロコシは生産していた。男性は腰に布をつらし日本のふんどしのような物を垂らし女性はタンガ-のごとき物を着けていた。, 亜国侵略:一方パンパ平原における歴史の始まりは1536年にスペインの王室より派遣された Pedro de Mendozaによりブエノスの町が築かれた、これを機会にスペインによる侵略が始まった、だが無謀に原住民の部落に入り略奪を行ったためにインヂオに1541年に襲われほとんどが殺されたが生き残ったわずかの人間が今のパラグアイの首都アスンションに逃げ込んだ。パラグアイに逃亡していたスペイン軍はその後1580年6月11日Juan de Garayによりブエノス アイレスが再度建設された。尚パラグアイにいのこったスペイン人は優しいパラグアイの女性が気に入り次々に混血児を生み出したのでこれでは皆がインヂイオになると指導者が恐れスペイン政府に女性の派遣を要請した。この要請を受けてスペインの貴族であったCabeza de Vacaが多数の未婚女性を引きつれブラジルのSANTOS港よりASUNCIONに向かったが途中でCabeza de Vacaが病死ししたので彼の妻が全員を引きつれAsuncionまで到着した。この時にイグアスの滝を発見した。, 亜国のアンデス寄りの町はペルから侵入してきたスペイン人により創られた。南米の統治はスペインの王室の指示によりメキシコとペルに駐在させたスペイン提督Virreyが全権をもって支配した。提督の下に知事Gobernadoresを任命し彼らに細かい地域の政治を任せた。これらの知事によって開発されたのがボリビアPotosiの銀鉱山の発掘であった。この時より原住民を奴隷として使用し1650年にこの町の人口が12万人まで増加した。チリより入てきたスペイン人によりアンデスのふもとに築かれたMendozaの町はワイン、果物などの供給地となった。, 一方当時のブエノスの町は、物資の輸送手段を担うロバ又ラバの供給地して栄え同時に、スペイン王には黙って利用された密輸港でもあった。, 尚アルゼンチンの大草原のパンパ地帯はスペインにとり得るべき物がなにも無いのでまったく利用価値のない緑の海でしかなかった。, 通商:スペインの王室が認めていたアメリカ大陸の貿易港はメキシコとペルのみであった。ペルよりメキシコまでの物質はロバ、ラバで運びそこから欧州に船積みしたまたヨウロッパからの輸入品も同じ道を反対に運ばれた。, そこで英国やフランス、イギリスまたスペインの商人はブエノスの港を利用して亜国の町また隣国に運び取引を行ないながら密かに侵略の機会もうかがっていた、但しブエノス港はスペインに許可されていないので取引は密輸であった。結局その時代の最大の密輸港にブエノスはなっていた。1780になりようやくブエノスにスペイン帝国が認めた提督Virreyが派遣されペルの提督の配下ではなくなったが染み付いた密輸と賄賂の習慣も継続していた。スペイン王よりの通達書は形式的に権力者達の議会カビルドCABIRDOで恭しく読み上げるだけで実行はしなかったとの事。, 町建設:それでも国内では徐々に原住民を追っ払い自分達の村、町つくりが進んだ。ブエノス アイレスがスペイン領南部の統治拠点として重要になってくると。周囲に住む原住民の土地への侵略がくりひろげられ次第にスペイン人による新しい町が形ずくられていった。, 1600代の初期より1810年の独立までの約200年間はスペインの植民地時代でありこの時期はスペインから来た略奪者が原住民を殺し女を強奪など激しい時代だったその結果南米にスペイン人と原住民の混血と言う人種が生まれて、こうして町ずくりが進んだ。独立の気運が生まれた1810年当時のアルゼンチンの人口約30万人この内約三分の一スペイン系、三分の一が原住民残り/三分の一が混血と言われた。そもそもこの地に住んでいた原住民はあまり働くことなく暮らしていた種族なので、でその混血児も働く意欲を持たない人々であったが平和な人種であった。南米に植民地を切り開く目的でスペインから送り出されて来た兵隊は本国では監獄にぶち込まれていた囚人であったので素行が荒く、兵舎を脱送して原住民の中に中に割り込み住食衣また女性まであてがってもらった。そこで出来た子供は協会の教えに従い神の子として育った。征服者達はスペインの王の名にて勝手に独自の政策を布きお互いの利害の取り合いにあけくれていた。, 教育:しかし感心する事はカトリック教会が学校を沢山設立し原住民の子弟の教育に乗り出し読み書きから躾けまで教えた事である。当時ペルのリマには法学部までもった大学が設立されその後アルゼンチンのコルドバにも大学が出来多くのスペン人の二世-三世がここで学んだ。勿論お金持ちは母国の学校に留学させ高等教育を受けた。, A)市会議員:スペイン王の指名により植民地の支配者になった特権者でありその名称は聖者(Santa)と言われていた町の政治、経済、法廷等の任務はこの特権者達の集る議会で決まられた(カビルド)。この内には商人、宗教家なども入っていた、尚資金不足を賄うとの理由にてこの特権も売買された。, だが特権階級とは言え彼らスペイン人が余りにも無謀で教養が無かったのでカトリックの神父達がインデイオよりも野蛮な人間達と本国に訴えた事もあった。今も南米の多くの国の政治家は昔と変わらずに国を治める法律を作り住民に義務を強制するが自分達は特権者であるので作った法律は守らない人が多くいる。アルゼンチンの今の権力者(国会議員、高級官僚、裁判官)で交通法さえ守る人は非常に少ない。, B)混血者:スペイン人と原住民の混血者達 召使、使用人、家具、手工業などを作る技術者。, このように当時の植民地社会には三つの階級が存在したがその中ではスペインより来た人間が一番偉い権力者でありこの次が彼らの子孫であった、しかし現地で生れた二世(Criollo)は本国より来たスペイン人peninsularesとCriollo現地人と言われ差別された。これ以外にいろんな混血の人種が生まれた当時生まれた混血は、Mestizo: Español +Indio , Mulato: Español + Negro, Zambo: Indio + Negro 原住民はスペイン人が持ってきた病原菌に対する抵抗性が無かった事と征服者の虐待によりメキシコ提督の支配が始まってから約90年間で2千万人のインヂオが厄病または闘いで死んだと言われる。尚アルゼンチンの北方の原住民 calchaquisは強制労働に反抗したためにブエノス近郊Quilmesに連行されここでほぼ全員が死滅するまで働かされた。 これらの農業専門企業は資金は一般の資本家より高い利子で集める大きな企業は10万町歩程度の農地で毎年耕作している。この時期に遺伝子工学にて改良された大豆とこの大豆に被害を与えない米国モンサント社が開発した種大豆RRと農薬ランダップが一挙に売り出され広まった。おかげで農地は耕さずに農薬にて耕作できる近代農業が普及した農地を耕さない事により耕地の風化が大幅に削減された。但しこれでは農家またこの種の経営者が儲けすぎるので政府が大豆に課税する事になる。勿論農家も色々と節税策は図っているが税務署には勝てないで彼は合理化と近代化にて対抗するより道は無い、この反動にて農業地域の過疎化に拍車がかかり近郊の難民増加が並行する。, 国営企業を買い上げた企業は顧問弁護士に民営化実施の法案を作成させた弁護士事務所の責任者達を雇用して手に入れた資産権利の保留を計っている。MENEM政権では国営企業の多くを民間に譲渡したがこの取引の裏で、政治家が絡む贈収賄等の汚職が横行した。。Menenは1995年に再選されたがその後に国内の民営された企業にからむ賄賂の調査に関わった新聞記者の殺人またこの裏の容疑者Yaburanの自殺などによりCaballo経済大臣が辞表した。, 1999年の大統領選挙でペロン党の代表者DuhaldeにFernando de La Ruaが勝ち久しぶりにラジカル等政権が誕生した。, 政治経済の破綻:2000年8月の国会にて行なった労働法改正に関わる賄賂の騒ぎで副大統領が辞職した。その後De La Rua大統領 は昔の経済大臣Domingo Caballoを再度経済大臣に任命し国外よりの外貨の借り入約300億ドルを実施し1ドル/1ペソ為替レ-トの維持を図った。それでも外貨の流失国民の不安不信が収まらず2001年12月1日に外貨送金禁止、銀行預金の引き出し一人一週間に250ドル以下と制限した。, 銀行貯金はCorallito家畜の囲いと言う名で凍結された。市中より紙幣がなくなり市民の暴動がおこり銀行に預金を凍結された民衆が鍋を叩き銀行街を練り歩いた。また失業者も20%に増えかれらも市町村ごと冶自体がとの陳情、抗議団体を結成して国道、大道を閉鎖、議会または大統領官邸、独立記念の五月広場、等に集結し太鼓を叩き不満をぶち当てた。サッカー以外にお祭りの行事が少ないためかまたはラテン人の血の性かこの国のこの種の集会は昔からお祭りのように大衆がよく集まり道を騒いで練り歩く。ブラジルのカニバル、日本の盆踊り、徳島の阿波踊りなどがどこの町でも必要ではないかと私は思う。, 2001年の12月21日に政庁の2五月広場での暴動を鎮圧できずそれに続いておきた市町村での内乱を抑えられずに大統領は辞表を提出した。, De La Rua大統領の辞職を受けてペロン党の党首であったRoduriguez Sa なる San Luis州知事が上下両国会議員により12月23日に大統領に押されてた。同大統領は対外債務返済の一時停止。為替の維持を打ち出した。但し12月28日にまたも暴動発生し30日に与党の緊急会議を招集したが支援無く即時に辞表した。, 大統領の再度の辞表により上下両院による国会議員の緊急会議が2002年1月1日に開催され前ペロン党の大統領候補でブエノス州 州知事でもあったEduardo Dualdeが臨時大統領に選出された。, Dualde大統領はLavañaを経済大臣に任命し次期の大統領選挙日を2003年4月27日に制定した。これまでの長い間維持されてきた1ドル/1ペソの固定為替制度を改め、国内生産、雇用などを回復させる為の経済政策を発表した。そのため為替が一挙に1ドル/1.4ペソ、1ドル/2.4ペソ、1ドル/3ペソと切り下げられた。国内の輸入商品と輸出商品が為替の変動に添って値上がりしたが政府の公共料金の値上げに対する規制また大企業の商品に対する値上げの規制が敷かれ思ったより値上げ巾が大きくなかった。但し為替が1ドル/7ペソまで行くとの噂もとび売り惜しみも多くあった。, 経済危機、社会不況の中で誕生したDUARDE政権は、その救剤政策として貧困者約2百万所帯に150ペソ(50ドル)をばら撒き暴動の再発を抑えた。, 国家再建促進:2003年1月16日にIMFと債務の繰り延べ交渉に同意した。この総額は161億ドル。ペソ貨幣の切り下げにより経済の活性化が起こりおかげで政府の税収が2003年度は前年度比較43.2%増し722億ペソ、貿易収支は輸出が295億ドル輸入が138億ドルにて大幅な黒字に転換した。GDP成長率も2003年度は8.8%に達した。, 2003年4月の大統領選挙でDualdeが推したKitsnerが大統領に選ばれた。経済大臣はラバニャが引き継いだ。, ラバニャ経済大臣は2004年6月1日に亜国政府がこれまでに発行し国内外の私立の金融機関に渡していた債務再編成に関する新たな案を発表した、一方的に債務元金及び金利を含む金額994億ドルを385億ドルの新たな国債に交換すると提案した。元本総額812億ドル、金利182億ドルであったので元金だけでみれば75%の値引きとなった。, 2003年5月25に新大統領Nestor Kirchnerが就任した前政権による大幅な切り下げにより公務員及び恩給の支払い金額が激減され財政が良くなった農牧産品の輸出で外貨も増えた。 Gillermo E. Hudson , Alla lejos y hace tiempo Traducido Asociacion de amigos de Hudson Sainte claire editora nobiembre de 1983 翌2019年6月には、マクリ大統領がg20大阪サミット出席のため再訪日し、2016年~2019年は、日アルゼンチンの長い歴史の中でも、両国首脳が4年間連続で相互訪問するという歴史的な4年間となった。 2 経済関係 (1)対アルゼンチン貿易 政治も経済政策も変わらず実務は夫のNestorが後ろで継続しているので大きな変化なく引き続きヴェネズエラや中国よりの政策にて欧米先進国よりの反発をかう。その上国内のインフレを抑えれず、牛肉、穀物。大豆などの輸出税を科したが農業団体、国会の反発をにより政策が徐々にいきずまっている。 Julio Cesar Chaves Compendui de historia parahuya , Editor Carlos Schauman 1988 Luis Maju ,Los Dueños de La Argentiana tomo 1 y 2 Editorial Sudamericana nobiembre de 1994 2009年4月大統領は大豆、トウモロコシ、小麦の輸出税を一挙に35%に上げたこの反動にて農業団体と政府の抗争が始まった。政府の魂胆は国際市場の値上がりにて儲けている農家より金を取る事と国内の食料品の値上げを押さえる政策である。問題は輸出禁止になった牛肉であるおかげで国内の牛の生産量が減りその後は値上がりを抑えられない事になる。 Ls Colonia San Jose Ediciones Pasco mayo de 20003 2007年10月28の選挙にてNestor Kirchner夫人Cristina Fernandez de Kirchnerが大統領に選ばれ12月10日に就任した。 Jolio Jose Chiavenato, Genocidio Amercano , La gurrea deel Paraguay Carlos Schauman Editor.Editora Litocor asuncion paraguay 1984 参考書類, Bibliografia de la historia argentina por Akira Ikegaki, Feliz Luna , Historia integral de la Argentina tomo 1, y 2 la segunda edición mayo de 1994 Editorial Planeta Argentina, La cultura en tiempo de la colonia y La cultura desde Independencia hasta el Centenario. 尚3年前よりウルグアイと闘争しているBotnia製紙工場の汚染問題による二国間を結ぶ大橋封鎖 この時代に農業も近代農業に大きく変貌した農業技術者と資本家達が組み農地を借りて近代技術、機械、農薬による企業的な農耕が農業専門会社により始まったおかげで小さな農家は土地を売るまたは貸して耕す事はせず町に家族で移動したこれらの理由で小さな農村は破綻し町に人口が集中しだした。おかげで過疎はまず、駅、学校、郵便局、役場、警察所が閉鎖され村が幻の村跡となるこれらの農地の使用人は近郊に来て難民村、貧民窟の住民となっている。幻の村に住めば強盗の餌になり家族では住めない。また貧民窟もお互いの生存競争の戦場でもある。, 農業の近代化により今まで一戸が村に住み50町歩を耕して生活していたのが一人の農業技師が3000町歩以上のの耕地を管理する事になる。農機具専門企業が種蒔機、農薬の散布機、収穫機を沢山持ち農場経営社の下請企業となっている、たとえ一万町歩持っていても年中はこれらの器械は使用されないので収穫時期の早い北方より南に収穫機械の下請会社は移動する。 Valentin Abecia Baldivieso, El criollismo de La Plata , Editorial Juventud La Paz Bolivia diciembre de 1997 2011年12月10日に再選されたCristina Fernandes が大統領就任された日本からは管首相が出席した。 大きな打撃を与えた。, 1991年勃発した湾岸戦争では即米国の意志に従い軍隊を派遣した、アルゼンチンはこの種の紛争には歴代(第一第二世界戦争)中立を維持してきた伝統がMENEM大統領によりこの時点でアルゼンチンの役割や姿勢が変わった。この様子を時の外務大臣Di Terraが亜国は米国と肉体関係を持つまで強く結ばれたと謡った。, 1989年より1990年にかけて繰り広げられた汚い戦争に対する裁きをMenem大統領は突如、特別恩赦令にて裁判を終了させて。但しこの恩赦法は2000年代になり憲法違反また人権を無視し多量に暗暗殺した者は人権法違反として裁かれる事になった。, 1994年に召集兵が高官の無謀な行為で殺害され事件がきっかけとなり兵役の義務制度(国民皆兵制を)も廃止し軍事革命をより困難にした。またMarvinas戦争により召集兵が訓練された特殊部隊に比べ1/10の戦闘能力しか無いことが証明され召集兵の軍事力の無用さが実戦で判った事も一つの理由との事。, 1991 Domingo Caballo経済大臣はLey de Convertibilidad(兌換法)の法律を国会にて認めさせペソの大幅切り下げ(ゼロ4個)を実施し1ドル/1ペソの固定為替相場に設定した。, この経済政策は初めは順調に推移し国民にも受け入れていた叉IMFを初め世界の経済学者達もこれがバルブ経済である事を見抜けなかった。, おかげでこのペソ高により国外からの借り入れや投資もどしどし実施され経済が活発化し国内に大きなスパーマケットが毎日開店した。但しやがてその煽りを受けて無数の小さな小売店や製造会社が倒産に追い込まれ失業者の増加をもたらした。, 自由経済:この頃から国内の靴、家具、機会、部品、家電、等の商品はすべてが輸入品である中国、米国、ブラジル、欧州からコンテナで運んでくる商品に置き換えられた。また国営企業を手に入れた大企業は初めのうちは従業員のリストラは実施しなかったが徐々に会社の事業を分割、依託、下請けに任せ数年にて従業員を1/3に削減した、また初めに公言した投資は実施しても国外よりの借り入れ金として会社は計上し買った企業の食い潰しを実施した。 Hector Norberto Guionet. Luis Alberto Borrero, Los Selk´Nam ( Onas) Aborigenes Argentina Galerna Julio de 2007 一方,戦後のアルゼンチン経済は,ペロニズムによる経済政策の失敗,軍政,ハイパーインフレーション,対外債務のデフォールトとさんざんな印象だ。アルゼンチンの歴史を振り返ると,借金をまともに返す気がない国にも見える。 Rudolf Plett , Presencia Menonita en el Paraguay Institudo Biblico Asuncion 1978 Carlos Martinez Sarasora , nuestro paisanos los indios Emece Editores 1992 Ulrico Schmidl , Viaje al Rio de La Plata Emece Editores 1997 En especial los libros de paicesc limitrofes , tales como paraguay, uruguay y bolibia. 憲法作成:1853年にSanta Feの町に国内の権力者達が集合し亜国の憲法が作成され発布された。これは米国の憲法を参考にJuan B.Alberdiにより作成された。, 尚1864年—1870年にブラジル、ウルグアイと共同で時の独裁政権であったパラグアイの大統領Mariscal Lopezを攻め 女、子供までを招集し対抗するパラグアイ軍を攻め落とした。話によればこの戦いで12歳以上のパラグアイの男性は全員殺された。, 尚パラグアイはこの後1933—1935年にボリヴィアを相手に戦争したこの戦いでは少ない武器で勇敢に戦いドイツより呼び寄せた参謀が指導し戦車までもっていたボリヴィア軍に蛮刀を振るって勝った。この戦利品の戦車をパラグアイの首都アスンシオン市の公園に飾ってある。, パラグアイでは度々重なる戦いにより多くの男性が多く戦死した。このような時代の異変を「公園に座っておれば木のうえから女性が降って来る」と形容された。この歴史の名のこりか今でも田舎の女性に生き継がれているようで田舎の女性はは男性に対して非常にやさしい。パラグアイの田舎の大木の下たで若いパラグアイの女性にTerereと言う冷たいお茶を頂くのはまさに天国に居る気分にさせられる。亜国にて公立学校教育を普及させアルゼンチンの教育の父と今でも慕われているSARMIENTOは大統領職を追われ亡命生活を余儀なくされ世界中まわりチリ、ペル、ウルグアイなど転々とした。そような亡命生活を送たSARUMIENTOが一番気に入り住んだ土地は女性が優しいパラグアイであったここは楽園と言いアスンシオンに住み友人も多く呼び寄せた。南米では権力、金持った男性に女性が群がる習慣があり単身派遣者として南米に派遣された日本男児が現地妻を連れ添う事が多のは喜ぶべきであろうか?。, 1862-1868 Bartolome Mitre 1868—1874 Domingo Sarmiento, 1874—1880 Nicolas Avellanedaこの三名の大統領の在任期間18年中にアルゼンチンは国家体制が整理され軍隊、移民促進、公立の学校教育普及、税務省、法務省、公務員、貨幣統一、国道、橋、鉄道、郵便局、銀行業務、などが確立し経済が活性化した。, 欧州移民:1870年代になるとアルゼンチンの人口は約200万人に達した移民また自然の増加で増えたが広大な土地に人を住ませ生産を増やせねば強力な国家を創るためには、一層人口を増やし、生産性を高める必要があると認識した政府は特使をイタリア、フランス、などお欧州に派遣して移民呼び寄せの政策を実施した。その結果1920年までになんと約5百万人のヨ-ロッパ移民が押しよせて来た。政府はこのような移民を受け入れるために一時の一時の宿舎と入植する土地まで与え開拓者には2年間の資金まで安い金利で貸し付けの便宜を図った。, • 1880年より1914年までの期間に6百万人が入国し同じ期間に2百万人が出国したとの記録がある、1869年の国内総人口が180万人より780万人に増加した。欧州では小作または使用人であった人々がこちらにくれば住食衣まで満たされその上に自分の土地が買えたので沢山の白人がおしよせた。しかし、初め彼は異国の地にて先に入植した者達また政府の役人にだまされながらも真面目に働き教会を建て個々の会館まで立て同房者達で助け合って生活した。やがて蒸気船が出現すると多量輸送が可能になり蒸気船会社は儲けるために欧州特にイタリアの住民を多量に運んだがこれでは余りにも町が空になると騒いで亜国行きの船の入港を禁止したイタリアの町もあったとこ事。そのような理由でアルゼンチンにはイタリア系の住民が一番多くその次がスペイン系となった三番目は多分アラブ系であろう、ドイツ系は約150万、ポ-ランド、アルメニア、ユダヤなどは約30万とも言われる。尚日系人は推定4万人と言われている。特にイタリア系が多いせいか美男美女が多く情熱的でまたいかなる時もジョウ-ク、笑いを忘れないのが面白い。只イタリアのマンマ(母親)が作るスパゲッ-チを週末に家族が集って食べる習慣が徐々に消えていくのは悲しい。時々胸尻が大きすぎる女性もあり私の友人に尻が大きすぎバスに乗れない、映画館に行けない(大き過ぎて腰掛けに座れない)また子供が生れた後に母乳が出すぎ絞って冷蔵庫に保管し隣の子に分けていた人もいた。亜国人の女性には胸を小さくする又は鼻を低く削る整形手術を行なう者もいる。私のギリシャ人の知人は孫が生れた時にまず鼻が自分のように大きくないことを祈ったと言っていた。, 私が知っている田舎の移民者や彼らの子孫はカトリク信者で真面目で義理がたい人が多かった。, 移民の現地での同化:ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポ-ランド、アルメニア、ユダヤ、等、多くの民族による団体ができ世代が変わり徐々に彼らたちはお互いに混ざった。だが、歳月の流れと共に、これらの民族の混血が繰り返され徐々にアルゼンチンの民族カラ-が出来上がってきたその結果原住民はどこに消えたのか解らなくなったほどで国民の約95%がヨ-ウロッパ系白人社会になってしまった。植民地開設当初の社会では、何処も男ばかりで女性が常に不足した。これに目を付けたマフィア達はヨ-ロッパ若い女性をだましてつれてきて売春組織に送り込んだ。但し 売春宿に女性を求めて来た多くの男性は結婚相手いになる女性を探しに来た若者も多く沢山の売春婦が家庭の主婦になった。このため時の裁判官はそれまで保管していた売春婦業の記録を始末させられたとも書かれている。監獄はセメントが無い土で出来た牢屋が多くまた看守が悪く逃亡者が続出した。この時代から警察また裁判官は汚職の巣であり亜国で生きる庶民は警察の所長もしくは裁判官を友人として持つ事が不可欠と言われていた。この事は亜国で有名なMartin Fieroの本に書かれている。, 「アルゼンチン人は船から降りた人」であるとの諺があるがこの国は真にこうして欧州より押しかけてきた移住者により産業うや文化が作られた国である。メキシコ、ペルの如く植民地前の文化は無かった、ペル、ボリヴィアはアンデスの高地でスペイン兵は侵略できずまたブラジル、コロンビア、ヴェネズエラ、その他は密林でこれも侵略は不可能あった。カリブも島では逃げる余地が無かったのでみな殺されるか生き残った者は混ざった模様 カリブの国に行けば原住民との混血の顔がほとんど見えず奴隷で来たアフリカ系と白人の混血が多い。 尚亜国のアンデスは太平洋側とは違い雨が無くアンデスは裸の山であり住民はほとんど居なかった。原住民は隠れる場所のない草原で皮のテントの下で生活する狩猟民族であったので鉄砲を持ち馬に乗ったスペイン軍に簡単に皆殺しにされた。, 尚 初めに来たスペインの兵士には女性がいなかったので沢山の原住民の女性が奥さん兼使用人としても利用されたため思ったより多くの原住民の血が亜国人の中に入っているとも言われる(近年DNA検査したブエノス大学の学者によれば約15%程度の住民との学説もある)。, • Roca将軍(1880-1886)による土地の開放戦争は亜国南部の原住民を殺し土地を略奪者達に開放した。, しかしながら政治は約400家族の大地主により支配され安定し国内の教育、市民登録、ブエノス市を首都にした、開発銀行開設、軍隊再編成、紙幣統一した。, ブエノス市及びこの近郊のみに貿易港がありここで輸入また輸出商品の関税をとりブエノス市が権力者達の巣になった国道また鉄道もブエノス市から国内に延びており国内の都市どうしの道はいまでも少ない。ブエノス市及びブエノス市近郊が経済と政治の中心である。, 政治経済危機:1930—1943年は暗黒時代となり街にはストライキ、カッパライ、窃盗、乞食があふれ政権を握る軍隊は革命に明け暮れた1930年の一年間に約10回の軍事革命があったが9月6日の軍事革命による軍事政権Uruburu将軍が率いる軍事政権は国会を閉鎖し戒厳令をしき一時的に政情は安定させた。但しこの次期にドイツまたソ連より逃亡してきた多くの無政府党(TORTSKYST)共産党達の政治活動により国内に強力な社会主義思想団体が結成され動きだした。そのため多くの首謀者達は暗殺、拷問されたが共産党の思想の種はこの次期に蒔かれた。Patagonia reberdeや El Forestalなど外国でもこの時代の亜国における有名な歴史の本が発行されている。, 尚この時代に欧州では社会主義の機運が芽生えこれを恐れた多くの貴族達が南北アメリカに逃げ出した時代でアルゼンチンにも多くの貴族が渡って来た。このような貴族達によってアルゼンチンに美術、音楽の文化が啓発され、また、生まれてきたと言われる。, この時期にブエノス市近郊の工業化が始まり国内の農業移民者(移住者)がブエノス近郊に移動しだした、国内に入植した多くの移住者には大地主が土地はあたえずに家僕として奴隷同様に使用したところも多かったので工業化が始まると多くの移住者がブエノス市の近郊におしよせ工場で働いた。牛の屠殺場、加工工場、靴、家具、農機具の工場などができ工場の労働者が増加し近郊社会が形成されだした。欧州からの移民者を奴隷の代わりとして扱う経営者も多くあったとの記録ある。今でも田舎の州政府には行政、司法、議会も自分の親類友人で抑え10年から20年間も昔の殿様のごとく治めているところもある。, ペロンによる社会主義国家:1943—1955年に大統領を務めたペロン政権時の大統領夫人エバ ペロンはそれまで支配してきた亜国の特権階級より資金を集め国内に散らばっていた多くの移住者また混血児の子供達に学校と病院を設立し労働者を優遇する政策を実施した。こような経緯で亜国は中産階級の多い国になったとも言える。同時に国内外の企業家に抑えられていた公共サ-ビス事業の国営化を全面的に実施した。また女性の投票権を認め労務法も発布し労働者を優遇した。この時代は第二次世界戦争があった次期で亜国産の牛肉穀物が良く売れそれまで貯まっていた国外債務は全て支払った。, またペロンにより国営化された公共サ-ビス業の分野において強力な労働組合も出現した。, 1958年にFrondizi大統領は国外からの投資を促進する外資法を発布し米国企業よりの投資を導た。特に化学、鉄鋼、電気、家電などに約5億ドルが投資された。, 地主と企業:このような社会構造の変革によって今まで力を持っていた国内の大農場主に変わってこれら工業の企業家達の政治力が強くなった。, 但しFrondiziも自由経済を押す米国と、ペロン政権以来力をつけた労働組合のストライキ、そして大農寄りの保守党などの板ばさみになった。軍隊内部も一枚岩ではなく、青党と赤党に分かれ競いだしたが伝統的な大地主と仲の良い軍人部が革命政権を立ててOngania将軍が軍事革命にて大統領に就任した。, その後1983年12月10日のAlfonsin大統領が率いる民主政権が誕生するまでは民政と軍政の繰り返しであった。, 民族融合:人数が特別に多かったイタリア、スペイン系は別にしてその他の民族団体は1950年ごろまで他民族との結婚はできるかぎり避けてきたが徐々に同化し1960年代から違和感が無くなって来たように私は感じる。同時に個々の民族が母国より持ってきた先祖より受け継いできた良き生活習慣も薄れまたうしなわれていった。戦前に亜国に来ていた日本人達は日本学校、日本人会に集まりここで知り合った男女が連れ合って非日系人との結婚は非常に少なかったこのためこの時代の日系人はお互いに強く結ばれていた。このような状況はドイツ人、ユダヤ人などの民族も同じであった彼らは教会が社交の場となり教会を基礎に社会が形成されていた。, この風習が今でも生きているのはパラグアイのドイツ人によるメノニタ-である彼らはキリスト教の教えに従いキリストのメモリア-を簡素化してメノニタ-たる集団を結成していまだに他民族とは混ざらずドイツ語だけでお金の要らない独自の社会を形成し生活しているのに関心する。メノニッタは今でも暴力を否定し勤労を旨とし金が通用しない社会主義の自治体を形成している。この部落のお年寄りの村を一度見せていただいたが本当にうらやましく思った。, 私の持論なるも亜国に長く住み世代が変わるごとに人間が現地化してくる。

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