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Macalpine, Ida; Hunter, Richard A. 281–282; Hibbert, pp. アメリカ議会図書館. The unanimous declaration of the thirteen United States of America. ジョージ3世(英語: George III、1738年6月4日 – 1820年1月29日)は、ハノーヴァー家第3代目のイギリス国王(在位:1760年10月25日 - 1820年1月29日)。 (1984). Ayling, pp. Harsh methods: Black, pp. アメリカ独立宣言(アメリカどくりつせんげん、英語: United States Declaration of Independence )は、イギリス(グレートブリテン王国)によって統治されていた北米13植民地が、独立したことを宣言する文書である。 1776年 7月4日、大陸会議によって採択された 。. "Could the British Have Won the American War of Independence?". The unanimous declaration of the thirteen United States of America. "Michael Hart, inventor of the ebook, dies aged 64", In Congress, July 4, 1776. )」で部隊を鼓舞した。コーンウォリスはグリーンの軍隊を打ち破ることもできないままに、北のバージニアへの進軍を決めた。, 1781年3月、ワシントン将軍はラファイエットをバージニア防衛のために派遣した。フランスの若き将校は3,200名ほどの部隊を指揮していたが、この地のコーンウォリスが指揮するイギリス軍は補強されて7,200名ほどになっていた。ラファイエットはコーンウォリスと小競り合いを演じたが、援軍を待つ間は決戦を避けていた。コーンウォリスはラファイエットを捕捉することができず、結局は7月にイギリス海軍と連携を取ってニューヨークへ戻る道を切り開くためヨークタウンに軍を進めた。, アパラチア山脈の西とカナダ国境辺りではアメリカ独立戦争がインディアン戦争と化していた。先住民族の大半がイギリス側に付いた。イロコイ連邦と同じようにチェロキー族やショーニー族は部族によって態度を変えたものもいた。, イギリス軍は同盟した先住民族に武器と弾薬を与え、ニューヨーク、ケンタッキーおよびペンシルベニアなどの開拓者の集落を襲うことを奨励した。そうして1778年に起こった「ワイオミング渓谷の虐殺」や「チェリー渓谷の虐殺」に刺激されたワシントンは、1779年の夏にサリバン将軍に兵を与えてニューヨーク西部に遠征させた。サリバンは大きな戦闘もないままに機械的に先住民族の村を破壊し食糧を焼いたので、先住民族はカナダやナイアガラフォールズ地域に逃亡し再び戻ってくることは無かった。, オハイオやイリノイでは、バージニアの開拓者ジョージ・ロジャース・クラークが1778年にカスカスキアとビンセンズのイギリス軍基地を奪い、この地域の先住民族に対するイギリス軍の影響力を殺ごうとした。デトロイトを本拠にしていたイギリス軍の指揮官ヘンリー・ハミルトンがビンセンズの砦を奪い返した後で、1779年2月にクラークはハミルトンを急襲し砦とハミルトンを捕獲した(イリノイ方面作戦)。, 1782年に、「グナデンハッテンの虐殺」が起こり、ペンシルベニアの民兵が中立であった先住民族約100名を殺した。1782年8月に、独立戦争では最後の会戦となったブルーリックスの戦いで約200名のケンタッキー民兵隊が敗れた。, 北部、南部および海上の戦いは1781年のヨークタウンの戦いの1点に収束した。9月早く、フランス海軍はチェサピーク湾の海戦でイギリス艦隊を打ち破り、コーンウォリスの脱出の道を閉ざした。ワシントンはニューヨークから急遽、大陸軍とフランス軍を南部に移動させ、17,000名ほどの大部隊で10月初めにヨークタウンを包囲した。コーンウォリス軍の立場は急速に耐え難いものになり、1781年10月19日に、約7,000名の軍隊全員が降伏した。, ヨークタウンでの降伏によって、イギリス国王ジョージ3世は休戦の方向に進む議会への支配力を失い、この後は陸上での大きな戦闘が無くなった。しかし、この時点でイギリス軍はニューヨーク、チャールストンおよびサバンナにまだ合わせて3万名の戦力を保有していた[25]。西インド諸島における英仏間の争いは続いていた。アメリカの多くの艦船がイギリスの船を襲っていなければ、イギリスはアメリカに更に増援を送ることも可能であった。, ロンドンではヨークタウンの戦い以後に戦争維持派の世論が急速に勢いを無くし、フレデリック・ノース首相は1782年3月に辞任した。そして翌4月、イギリス下院はアメリカとの休戦法案を通した。1782年11月には休戦の為の予備協定がパリで結ばれたが、正式の休戦は1783年9月3日のパリ条約締結後であった。アメリカ合衆国議会(当時は連合会議)は1784年1月14日にパリ条約を批准した。最後まで残っていたニューヨークのイギリス軍が撤退したのは1783年11月25日であった。, イギリスは同盟していた先住民族と何の相談も無いままアメリカと休戦の為のパリ条約の交渉を行い、アパラチア山脈からミシシッピー川までの先住民族の土地をアメリカに割譲した。先住民族は不満を抱いたまま、幾つかの条約でアメリカにこれらの土地の割譲を渋々認めたが、これに同意しない種族との紛争が続き、その最大のものは北西インディアン戦争(1785年-1795年)となった。, アメリカ13邦(州)は1787年の憲法制定会議で統一国家としての枠組みを成すアメリカ合衆国憲法を制定し、翌年に発効した。1789年、新憲法の規定に従って初代大統領に選出されたのは、絶望かとも思われた困難な時期に屈することなく大陸軍を率い、圧倒的なイギリス軍との戦争を戦い抜いたワシントンだった。, アメリカ独立戦争によって失われた人命の総数は正確なところが分かっていない。当時の戦争の常として、病気による死者が戦闘による死者の数を上回っていた。歴史家のジョセフ・エリスは、ワシントンがその軍隊の兵士に天然痘の予防接種を受けさせたことは、その最も重大な決断の一つだったと示唆している[26]。, 推計ではアメリカ大陸軍側の従軍中の死者は25,000名ほどとされている。このうち8,000名ほどが戦死で、残りの17,000名ほどが戦病死であった。戦病死の中には捕虜として収容されている間に死んだ者8,000名ほどが含まれていた。重傷を負った者、あるいは障害者となった者は8,500名から25,000名ほどと推計されている。つまりアメリカ側の損失は高々50,000名ということになる[27]。, イギリス海軍には約171,000名の水夫が従軍したが、そのうち25ないし50%は強制徴募によるものだった。約1,240名が戦死し、約18,500名が病気で死んだ。一番多い死因は壊血病であった。当時この病気を避けるための一番簡単な方法は、水夫にレモンジュースを与えることだった。約42,000名の水夫は脱走した[28]。, およそ1,200名のドイツ人傭兵が戦死し、6,354名は病死した。ドイツ人傭兵の残り約16,000名はドイツに戻ったが、約5,500名は様々な理由でアメリカに残り、結果的にアメリカ市民となった。他の集団、つまりアメリカやカナダの王党派、イギリス正規陸軍、アメリカの先住民、フランスおよびスペイン軍、さらに市民の損失については信頼に足る統計データが無い。, イギリスは約8000万ポンドを費やし、最終的な国の負債は約2億5千万ポンドとなった。このための利息返済だけでも年間約950万ポンドとなった。, フランスは約13億リーブル(約5600万ポンド)を消費した。フランスの国の負債は1億8700万ポンドほどとなり、1780年時点での歳入の半分以上がこうした負債の返済に消えていった。この負債による危機のために政府は大衆の承認もなく税率を上げることができなくなり、後のフランス革命の大きな要因となっていった[29]。, アメリカ合衆国は連邦で約3700万ドル、各邦(州)の合計で約1億1400万ドルを使った。これは援助国のフランスやオランダからの借金、国民からの借金、および紙幣の多額の発行で補われた。最終的には、アメリカは1790年代までかかって負債を解決した[30]。, アメリカ独立戦争で対立した両勢力が元々は同じ国民であったため、外国の地で戦われた内乱という見方もある。ただし、イギリスは軍事力ではアメリカよりも遥かに優勢で、アメリカはフランスの援助が無ければ戦い通すことができなかった。明らかに不利なアメリカが勝利できた理由の一つとして、アメリカとイギリス本国との距離が離れていた事が上げられる。イギリスは援軍や物資を本国から大西洋を越えて運ばねばならず、イギリスには港湾都市から一歩離れれば兵站の問題が常に付いて回ることとなった。一方のアメリカは地方に行けば兵や食糧を補充でき、その環境に順応できた。また、イギリス本国が戦争の情報を受け取るには大西洋を越えなくてはならず、その間に情報が2か月ほど遅れてしまうのでアメリカにいるイギリス軍の将軍が首都ロンドンからの指令を受け取る時には、軍事的な情勢が変わってしまっていたことが多々あった[31]。, また、イギリスがアメリカの反乱を抑えようとした事で新たな問題が誘発された。植民地は広大な範囲に広がっており、戦前はそれらは一体ではなかったので戦略的に重要な地点は一つではなかった。ヨーロッパでは首都制圧が戦争の終わりを意味していたのに対し、アメリカではイギリスがニューヨークやフィラデルフィアなどの都市を占領したのにもかかわらず、戦争を終わらせる事ができなかった。また、領土が広いということは、イギリス軍が力で制圧しようとしても広範囲を抑えられるだけの兵力が必要となる。これはイギリス軍がある地域を占領したとしても、そこを占領するための兵を置かないとアメリカの革命軍に奪い返されることを意味し、イギリスが占領を維持しようとすれば、次の作戦行動には移れないことを意味していた。イギリス軍は戦場でアメリカ軍を叩くには十分な兵力を保持していても、その地域の占領を続けるには兵力が足りていなかった。この兵力の不足はフランスとスペインが参戦した後は、兵力をいくつかの戦線に分散させざるを得なくなり、更に大きな問題となった[32]。, さらに、イギリスは王党派との連携を保ちながら戦争を遂行しなければならなかった。王党派の支持は植民地をイギリス帝国の中に留めておくという目的のために不可欠だったが、これにより軍事的な制限も起こった。戦争初期、ハウ兄弟は戦争を遂行しながら和平のための交渉も続けていたので、戦闘の際の効果を削いでいた可能性があった。そしてイギリスは奴隷やアメリカ先住民族を戦争に駆り立てたが、これは王党派との関係を疎遠にし、賛否両論のあったドイツ人傭兵の採用よりもさらにその傾向を強めたと考えられている。王党派を繋ぎとめるために、イギリス軍は、かつてアイルランドやスコットランドを抑え込むために用いた過酷な手段を使えなかった。これらの制限があっても、それでも潜在的に中立であった植民地の人間が革命派の中に入っていく事を防ぐ事はできず、これらの要因によりアメリカにおけるイギリスの支配は終わり、革命派は自らの国として、アメリカ合衆国を打ち立てた[33]。, なお、武器の性能にも決定的な違いがあり、当時のアメリカではバッファローに遭遇した時のために銃身内部に螺旋の溝をいれたことで、より射程や命中精度、そして破壊力の高いライフル銃を開発することに成功していた。しかしイギリス側は物量に勝るものの、使用されていた銃が旧式だったため敵に十分に近づかなくてはならず大きな犠牲を出すこととなった。, ニューハンプシャー州、マサチューセッツ州、ロードアイランド州、コネティカット州(以上、ニューイングランド)、ニューヨーク州、ペンシルベニア州、デラウェア州、メリーランド州、ヴァージニア州、ノースカロライナ州、サウスカロライナ州、ジョージア州、ニュージャージー州の13州。, ニューイングランド6州のうち、バーモント州とメイン州はこれに含まれていない。バーモント州がイギリスから独立したのは1777年であったが、ニューヨーク州との領土問題を抱えており、連邦への加盟は1791年と遅れた。バーモント州は14番目の州になる。また、メイン州は独立宣言の時点ではマサチューセッツ州の飛び地であり、そもそも独立した州ではなかった。同様に、15番目の州であるケンタッキー州や、南北戦争中に成立したウェストバージニア州はヴァージニア州の一部であった。, 勝利を喜んだのはアメリカだけではなくフランス王国もそうだった。熱烈な青年貴族ラファイエットが参戦したブルボン朝においては、勝利の後しばらく貴婦人の間に頭に船の模型を乗せた一風変わった髪形が流行した。だが、アメリカ独立戦争における対外援助は、既に大きく傾きかけていたフランスの財政を破綻させ、フランス革命を起こす要因となった。, またアメリカ独立宣言はフランス革命に影響を与え、ラファイエットら起草のフランス人権宣言となって結実した。また独立戦争に参加したポーランド人のタデウシュ・コシチュシュコは、故国のポーランドにおけるポーランド分割に対抗して反乱を起こした。, なお、アメリカ合衆国の独立を最初に承認したのは、スウェーデンであった。1783年には、アメリカ・スウェーデン友好通商条約を結んだ。. アメリカ独立宣言(アメリカどくりつせんげん、英語: United States Declaration of Independence )は、イギリス(グレートブリテン王国)によって統治されていた北米13植民地が、独立したことを宣言する文書である。 1776年 7月4日、大陸会議によって採択された 。. 301–302; Watson, p. 323, Ayling, p. 414; Brooke, p. 374; Hibbert, p. 315, Letter of 30 November 1803, quoted in Wheeler and Broadley, p. xiii, Ayling, pp. 107–109; Watson, pp. Wheeler, H. F. B.; Broadley, A. M. (1908). 106–111, Ayling, pp. アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう、英: American War of Independence)は、1775年4月19日から1783年9月3日までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争である。現在のアメリカではアメリカ独立革命(英: American Revolution)もしくは革命戦争(英: Revolutionary War)と呼ばれ、主にイギリスではアメリカ独立戦争と呼ばれている[1]。なお、日本の歴史教科書では、「アメリカ独立戦争」と表記することもあれば[2]、単に「独立戦争」と表記することもある[3]。, バーモント共和国 フランス王国 スペイン帝国 ネーデルラント連邦共和国 オナイダ族 タスカローラ族 ポーランド志願兵 プロイセン王国志願兵ケベック志願兵マイソール王国, ホレイショ・ゲイツ ジョン・ポール・ジョーンズ ナサニエル・グリーン ベネディクト・アーノルド ベンジャミン・リンカーン ジルベール・ド・ラ・ファイエット ロシャンボー伯 フランソワ・ド・グラス ピエール・アンドレ・ド・シュフラン ガルベス伯 ルイス・コルドバ・イ・コルドバ タデウシュ・コシチュシュコ シュトイベン男爵 ヨハン・ズートマン ハイダル・アリー† ティプー・スルターン, ウィリアム・ハウ ヘンリー・クリントン チャールズ・コーンウォリス(捕虜) ジョン・バーゴイン(捕虜) バナスター・タールトン ベネディクト・アーノルド ジョセフ・ブラント ヨハン・ラール, この戦争によって、植民地の住民はイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治と立法を担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。戦争の全期間を通して、イギリスは優勢な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵数は比較的少なく、支配地域は限定的であった。, アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年には、フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインやネーデルラント連邦共和国(オランダ)も、その後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年にフランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリカ大陸軍とフランス王国派遣軍は1781年のヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。1783年のパリ条約で戦争が終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を正式に認めた。, アメリカ植民地が独立への道を歩み始めたそもそものきっかけはイギリス本国による課税の強化にあり、それはフレンチ・インディアン戦争(1754 - 1763)による財政危機の解消を目的としたものであった。イギリス政府は1764年に砂糖法、1765年には印紙法を成立させて植民地からの税収増を図ったが、特に印紙法はアメリカで広範な反対運動を呼び起こし、撤廃に追い込まれた。, 1767年にイギリス本国議会がタウンゼンド諸法を制定して植民地へ新たに税を課そうと試みると、またも反対運動が盛り上がり、1770年にタウンゼンド関税も撤廃させられた。だが、このとき茶に対する課税は廃止されず、本国の茶は植民地の不満の象徴となった。, 1773年の茶法によって東インド会社のお茶が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月にはボストン港停泊中の東インド会社船に暴徒が乱入し、積載されていた茶を海に投棄した(いわゆるボストン茶会事件)。, そうした中で1774年に、イギリス議会は植民地に対して次々と懲罰的な立法措置を行なった。こうした危機にチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)は滞英中のベンジャミン・フランクリンと協力して議会に植民地と和解するよう働きかけた。しかし、首相フレデリック・ノースは国王ジョージ3世の強い意志を背景に植民地に強い態度で臨む決意だった。, 一連のイギリス側の政策に対し、13植民地は対策協議のために大陸会議を開いてイギリス本国との和解の道を探ったが、打開できないままであった。, 戦争が始まった当初は、アメリカには職業的な陸軍も海軍も無く、各植民地には地元の民兵部隊が存在するのみで、これが自らの地域防衛にあたっていた。独立戦争前のアメリカでは、イギリス軍が各植民地の民兵隊を補助的に用いていた。開戦時、一部を除いてこの民兵隊のほぼ全てがアメリカ軍に加わった。民兵の装備は簡単なものであり、ほとんど訓練されておらず、通常の制服も無かった。当時は、民兵の従軍期間は数週間から数か月間に限られており、家から遠く離れた所へは行きたがらなかったので、通常、大規模な作戦には使えなかった。民兵には正規兵のような訓練や規律が欠けていたが数では勝り、レキシントン・コンコードの戦い、ベニントンの戦いとサラトガ、さらにボストン包囲戦では正規兵を打ち負かすことができた。米英両軍共にゲリラ戦を用いたが、アメリカ軍はイギリス軍正規兵がいない地域で効果的に王党派の活動を抑えた[4][5][6]。, 1775年6月、組織だった作戦行動をとるため、大陸会議は正規軍を(紙の上で)設立しジョージ・ワシントンを総司令官に任命した。大陸軍が成長を続ける中で、ワシントンは正規軍と民兵の両方を使い続けた。1775年10月13日、大陸会議が大陸海軍のための艦船建造に承認を与えられたことによりアメリカ海軍が発足し、この時4隻の武装船の購入および艤装が認められた。アメリカ海兵隊の前身である大陸海兵隊も1775年11月10日の大陸会議の決議により結成され、フィラデルフィアのタン酒場を最初の本拠にした。1783年の終戦時、大陸海軍と大陸海兵隊は解体された。独立戦争を通じ、延べ約25万人の兵士が正規兵または民兵として従軍したが、どの期間においても武装した兵士は9万人を越える事は無かった。大陸陸軍は当時のヨーロッパの標準的な軍隊から考えれば小さなものだった。ワシントンが自ら戦場で指揮した兵士の数は一番多い時でも17,000名足らずであった。これは、戦術的選択の結果であったが、アメリカ軍が弾薬に不足していたために多くの兵士を一度に使えなかった側面も存在した[7][8]。, 1775年の初期、イギリス陸軍は世界で36,000名ほどいたが、戦時には徴募によって確実にこの数字を増やしていた。さらにアメリカ独立戦争のときは、ドイツ諸侯から約30,000名の兵士を雇用した。この兵士の多くはヘッセン=カッセル方伯領から来ていたので、「ヘシアン」すなわちヘッセン人と呼ばれた。この軍隊は主君に雇われた職業軍人という意味での傭兵軍であった。ドイツ兵は北アメリカでのイギリス軍兵力の3分の1を占めた。1779年までに北アメリカに駐屯するイギリス兵とドイツ兵の総数は6万名を超えた。ただし、兵力はカナダからフロリダまで分散した形になっていた[9][10]。, アフリカ系アメリカ人は解放された元奴隷も奴隷のままの者も米英両軍ともに従軍した。イギリス軍は積極的に愛国者を主人に持つ奴隷を徴募した。大陸軍側においても、1776年1月に、人員不足解消のため総司令官ジョージ・ワシントンは奴隷徴募の禁止令を撤廃した。ロードアイランドとマサチューセッツでは小さいながらも全て黒人の部隊が作られた。またフランス軍と共にハイチから全て黒人の部隊が参戦した。少なくとも5,000名の黒人が革命軍側で[11]、2万人以上がイギリス軍に従軍した[12]。, ミシシッピー川から東にいた先住民族の大半が戦争に巻き込まれた。多くの部族社会は戦争への関わり方を巡って分裂することになったが、それまでアメリカの開拓者からの侵略に曝されていたために、先住民の多くはアメリカと敵対する道を選択した。およそ13,000名の戦士がイギリス側で戦ったと推定されており、その中ではイロコイ連邦の約1,500名が最大であった[13][14]。, 開戦前のボストンでは反抗的な活動が続き、1774年にイギリス政府は懲罰のためマサチューセッツ統治法を制定して自治を取り上げた。しかし、この政策は民衆の間に反発を広げる結果となり、新たに本国から任命された役人は辞職したり暴徒に追われてボストン市内を逃げ惑うことになった。イギリス軍の北アメリカ総司令官になったトマス・ゲイジ中将はボストン市内の本部からイギリス正規兵4個連隊を指揮していたが、市内を外れれば革命勢力の手中にあった。, 1775年4月18日の夜、ゲイジ将軍はマサチューセッツ州コンコードに植民地民兵が保管している弾薬を押収するために700名ほどの部隊を派遣した。革命勢力に属するポール・リビアなどの伝令が郊外の町を駆け回り、イギリス軍が出動したという警告を伝えた。4月19日の朝、イギリス軍がレキシントンの村に入ると、77名の民兵が村の緑地に待ち構えていた。銃火が交わされ、数人の民兵が殺された。「1発の銃声が世界を変えた」[15]という出来事であった。イギリス軍はコンコードに移動し、3個中隊の分遣隊がノースブリッジで500名の民兵軍と戦ったが成果を上げられなかった。イギリス軍がボストンに引き揚げ始めると、数千に及ぶ民兵が集まってきて、道路沿いからイギリス軍を攻撃し大きな損失を与えたが、イギリス軍は援兵が到着し壊滅を免れた。このレキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が始まった。, 民兵達はボストンに集結し、ボストン包囲戦が始まった。約4,500名のイギリス援兵が本国から大西洋を渡って到着し、1775年6月17日、ウィリアム・ハウ将軍の指揮するイギリス軍がバンカーヒルの戦いでチャールズタウンの半島を占拠した。アメリカ軍は後退したが、イギリス軍の損失が大きく次の攻撃に移ることが躊躇された。包囲戦は破られず、イギリス軍の指揮官はゲイジからハウに挿げ替えられた[16]。, 1775年7月、新しく指名されたワシントン将軍がボストン郊外に到着し、植民地軍の指揮を執り、大陸軍を組織化した。ワシントンは自軍に弾薬が不足していることを認め、新しい入手源を求めた。武器庫を襲撃したりまた製造も試みられた。1776年末までの軍需物資の90%は輸入に頼った。その総額は200万ポンドに上り、輸入元の大半はフランスからのものであった[17]。, 手詰まり状態が秋から冬まで続いた。1776年3月早く、愛国者がタイコンデロガ砦で捕獲した大砲がヘンリー・ノックス少佐によってドーチェスター高地に運び上げられた。大砲がイギリス軍を見下ろす形になったので、ハウ将軍は防衛できないと判断し、3月17日にボストン市を明け渡し、船でノバスコシアのハリファックスの海軍基地まで移動した[18]。その後ワシントンはニューヨーク市を守るために大陸軍の大半を移動させた。, ボストン方面で膠着状態に陥ってる間、大陸会議は戦争の主導権を掴もうと他方面で作戦行動を起こした。大陸会議は当初、フランス系カナダ人の領土を14番目の植民地として加えようと動いていたが、これに失敗するとカナダ侵攻作戦を承認した。その目的はフランス人の多いケベックからイギリスの支配を取り除くことであった。, カナダに向け2つの遠征隊が派遣されたが、そのうちの1つ、リチャード・モントゴメリー准将率いる1,700名の民兵隊は1775年9月16日にタイコンデロガ砦を発進し、11月13日にはモントリオールを落とした。カナダの知事ガイ・カールトンはケベック市に撤退した。2つ目の遠征隊はベネディクト・アーノルド大佐に率いられた部隊で、東からケベック市に迫ったが、兵站に苦しみまた天然痘で倒れる者が多かった。11月初めにアーノルド隊がケベック市に到着した時、当初1,100名いた部隊は600名にまで減少していた。合流したモントゴメリー隊とアーノルド隊は12月31日にケベック市を攻撃する(ケベックの戦い)が、カールトンによって完璧に打ち負かされた。その後もアメリカ軍は1776年春までケベック市の郊外に駐屯していたが結局は退却した。カナダはアメリカ側よりも多くの兵力を擁し、戦線を堅守した。, アメリカ軍はもう一度ケベックまで押し返そうと試みたが、1776年6月8日のトロワリビエールの戦いで敗北した。カールトンは逆襲に転じ、10月にはバルカー島の戦いでアーノルドの水軍を破る。アーノルドはカナダ侵攻作戦の出発点であったタイコンデロガ砦まで退却した。カナダ侵攻作戦はアメリカ軍にとって悲惨な結果に終わったが、アーノルドの工作でイギリス軍による全面的な反攻を遅らせることができた。, このカナダ侵攻により、アメリカはイギリス世論における支持基盤を失った。「だからアメリカに対する武力行使はこの国のあらゆる階層と職業の人々に快く受け入れられ支持されるのだ」[19], ケベックの戦いでジェイムズ・リビングストン大佐の第1カナダ連隊が、またサンピエールの戦いでモーゼス・ヘイズンの第2カナダ連隊がアメリカ側に付いた。, イギリス軍のハウ将軍はボストンから撤退した後でニューヨーク市の奪取に焦点を絞った。大陸軍のワシントンはニューヨークの防衛のためにロングアイランドとマンハッタンの間に2万名の軍隊を分けた。イギリス軍がスタテン島に集結する間に、ワシントンは新しく発行されたばかりのアメリカ独立宣言を兵士達に読み聞かせた。もはや妥協の余地は無くなっていた。1776年8月27日、ロングアイランドに上陸した22,000名のイギリス軍は、独立戦争の中でも最大の会戦となったロングアイランドの戦いで大陸軍を駆逐し、ブルックリン・ハイツまで後退させた。ハウはそこで包囲戦を行おうとしたが、ワシントンは軍もろともマンハッタンに脱出できた。, 9月15日、ハウは約12,000名の部隊をローワー・マンハッタンに上陸させ、直ぐにニューヨーク市を支配した。大陸軍はハーレム・ハイツまで退き、翌日ハーレム・ハイツの戦いがおこったが、なんとか陣地を確保することができた。ハウがワシントン軍を囲むように動いたとき、大陸軍はさらに後方に退いたうえで、10月28日にホワイトプレインズの戦いが起こった。ワシントン軍は後退を繰り返したので、ハウはマンハッタンに戻りワシントン砦を占領して約2,000名を捕虜にした。捕虜の数はロングアイランドの戦いの時と合わせて3,000名に上った。この後、ニューヨークで悪名高い「監獄船」が始まり終戦まで続いた。この監獄船で独立戦争のどの戦いよりも多くのアメリカの兵士や水夫が放って置かれたまま死んだ。, チャールズ・コーンウォリス将軍がワシントンを追ってニュージャージーまで進軍し、大陸軍は12月早くにデラウェア川を渡ってペンシルベニアまで後退した。このニューヨークからニュージャージーと続いたイギリス軍の方面作戦も冬に入って一旦停止し、ニュージャージーで冬の宿営に入った。ハウは何度も消耗を繰り返す大陸軍を潰す機会がありながらしくじってはいたが、5,000名以上のアメリカ兵を殺すか捕虜にしていた。, 大陸軍の前途は多難であった。大陸軍と共に撤退を繰り返していたトマス・ペインは「今が兵士の心を試す時だ」と書き記した。使える兵力は5,000名足らずになっていた。兵士は1年で就役期間が終わるので12月末がくれば、1,400名まで減ることになっていた。大陸会議は絶望のうちにフィラデルフィアを捨てた。ただしイギリス軍の占領に対する大衆の反抗は強くなっていた。, ワシントンは年が改まる前に攻撃することに決め、クリスマスの夜に密かにデラウェア川を渡って12月26日、トレントンの戦いで1,000名近いヘシアンを捕虜にした。コーンウォリスはトレントンを再度奪取しようと進軍してきたが、ワシントンはその裏をかき、1777年1月3日のプリンストンの戦いでイギリス軍の後衛部隊を打ち破った。ワシントンはアメリカ側の士気を高めることができたので、その後、モリスタウンで冬の宿営に入った。ニュージャージーの民兵は冬の間もイギリス軍やヘシアンに嫌がらせを続け、イギリス軍はニューヨーク市周辺まで撤退することになった。, 大陸会議とワシントンは、ボストン包囲戦のころから情報・諜報戦略を展開しており、占領されたニューヨークを中心とした情報収集、諜報活動では、地域の支援の少ないイギリス軍よりも優位に立っていた。トレントンの戦いの勝利は諜報活動が成果を収めた一例である。ヨーロッパ諸国との情報通信は早くから行われており、この情報優位は終戦まで続くことになった。, イギリス軍の戦略はいつの段階でも国王に対する忠誠を誓って結集してくる王党派の者達の支援を期待していた。1776年2月、ヘンリー・クリントン将軍は2,000名の兵士と海軍の船隊でノースカロライナに侵攻したが、王党派の部隊がムーアズ・クリーク橋の戦いで殲滅されたことを知って引き上げた。6月にクリントンは南部の主要港であるサウスカロライナのチャールストンを占領しようとしたが、この時も南部の王党派の決起を期待していた。これは戦争を遂行するには手軽な方法に見えたが、海軍は砦の攻撃に失敗し、王党派の者が町の背後から攻撃を仕掛けることも無かったので、作戦は失敗した。南部の王党派は組織力が弱く効果を表せなかった。1781年までロンドンの上級官僚は、南部から逃げてきた王党派の言葉を信じて、蜂起があるものと思っていた。, イギリス軍が1777年の作戦計画を練り始めた時に、北アメリカには2つの主力軍があった。カナダのカールトン軍とニューヨークのハウ軍であった。ロンドンでは、ジョージ・ジャーメインがこれらの軍隊の作戦を承認したが、連絡の不行き届きと指揮官のライバル意識のために連携がうまく行かなかった。ハウはフィラデルフィアの占領に成功したが、北部の軍隊はサラトガで降伏して失われてしまった。1777年の作戦行動の後、カールトンとハウの2人共に辞職した。, 1777年に最初に動いたのはジョン・バーゴイン将軍に率いられたカナダからの遠征隊であった。その目的はシャンプレーン湖とハドソン川の回廊を確保し、アメリカ植民地全体から見てニューイングランドを孤立させることであった。バーゴインの侵略は2方面から行われた。バーゴイン自身は約1万名の兵士を率いてシャンプレーン湖からオールバニに向かうものとし、もう1隊はバリー・セントリージャーに率いられる約2,000名の部隊でモホーク川渓谷を下り、オールバニでバーゴインと合流するというものだった。, バーゴインは6月に進発し、7月初めにはタイコンデロガ砦を占領した。その後、アメリカ軍が木を切り倒して道を塞いだためにバーゴイン軍の歩みは鈍くなった。物資を確保するために分遣隊を派遣したが、8月にアメリカの民兵隊とベニントンの戦いを行い決定的に敗れて1,000名近い兵力が失われた。, 一方、セントリージャーの部隊は、その半分をモホーク族の指導者ジョセフ・ブラントが率いていたが、スタンウィックス砦を包囲した。アメリカの民兵隊と同盟インディアンが包囲されている味方を救出するために向かったが待ち伏せされて、オリスカニーの戦いで蹴散らされた。2回目の救援隊はベネディクト・アーノルドが率いていたが、セントリージャーは包囲を解いてカナダに退却してしまった。, バーゴインの軍隊は総勢6,000名まで減った。このような痛手を受けたにも拘らず、バーゴインはオールバニへの進軍を続けることを決めた。このことが後に大きなしっぺ返しを食うことになった。大陸軍の将軍ホレイショ・ゲイツは8,000名の部隊を率いて、サラトガの南約10マイル (16 km)の地点に陣地を築いた。9月、バーゴインは大陸軍の側面を衝こうとしたが、フリーマン農場の戦いで反撃された。バーゴイン軍の状態は絶望的なものに変わって行ったが、ニューヨークのハウ軍がオールバニに向かっているという期待があった。しかし、そうはならず、ハウ軍は船で回航してフィラデルフィアの奪取に向かっていた。大陸軍には民兵が続々と集まり続けており、10月の初めには総勢11,000名に達していた。次に挑んだベミス高地の戦いでも撃退されたバーゴインは10月17日に降伏した。, サラトガは戦争の転換点となった。ハウ軍によってフィラデルフィアは奪われたが、アメリカの革命勢力は自信と決意を取り戻した。さらに重要なことは、この勝利によってフランスをアメリカ側に付かせてイギリス軍と対決できるようになったことであった。イギリス軍にとってはこの戦争がより複雑なものに変わってきた[20]。, ハウ将軍は1776年にニューヨーク市を占領して、当時の革命勢力の首都であるフィラデルフィアの占領に目を向けた。ハウは緩くりと動いて、チェサピーク湾の北端に15,000名の部隊を上陸させた。ワシントンは11,000名の兵士をハウ軍とフィラデルフィアの間に配置したが、1777年9月11日のブランディワインの戦いで敗北して後退した。9月26日、大陸会議は再びフィラデルフィアを捨てた。ハウはさらにワシントン軍を打ち破ってフィラデルフィアを抵抗もなく占領した。ワシントンは10月初めにジャーマンタウンの近くに宿営していたハウ軍とジャーマンタウンの戦いを、さらに12月初めにはホワイトマーシュの戦いを行ったが、どちらも決定的な勝敗には至らず、退いて待つことにした。, ホワイトマーシュの戦いの後で、ワシントンはバレーフォージを冬の宿営所とした。そこはフィラデルフィアから約20マイル (32 km)の所にあり、次の6か月間を過ごした。冬の間に1万名いた軍隊の2,500名が病気と寒さで死んだ。1778年の春、シュトイベン男爵の訓練の甲斐あって大陸軍は蘇った。シュトイベンはプロイセンの近代的な戦法を教え、訓練され規律ある軍隊を築き上げた。, イギリス軍の総司令官はハウからクリントンに代わった。フランスが参戦したことにより、イギリス軍は戦略を変えて、フランス海軍の脅威の対象となったニューヨーク市を防衛するためにフィラデルフィアを放棄した。1778年6月28日、ワシントンは撤退するクリントン軍を追ってモンマスの戦いを行った。この戦いが北部では最後の大きな戦闘になった。クリントン軍は7月にニューヨーク市に到着したが、それはデスタン伯爵がフランス海軍を率いてアメリカの海岸に現れる直前のことであった。ワシントン軍はニューヨーク市の北にあるホワイト・プレインズに戻った。両軍ともに2年前に対峙した地点に戻ったが、戦争の様相は変わり始めていた[21]。, 1778年、北アメリカの反乱は国際的な戦争に変わった。サラトガの戦いで大陸軍が勝利したことを知ったフランスは1778年2月6日にアメリカ合衆国と同盟条約を結んだ。1779年6月には、ブルボン家盟約を更新し、スペインがフランスの同盟国として参戦した。しかし、スペインは当初フランスとは異なり、アメリカ合衆国の承認を拒んだ。スペインはその植民地帝国の中で同じような反乱を助長するのではないかと神経を尖らせていた。オランダも1780年に参戦した。3国共にイギリスの力を削ぐことを期待して戦争の初めからアメリカを密かに財政的に援助していた。, さらにラファイエットやコシューシコ、プワスキら欧州の義勇軍が参加した。1780年イギリスの対アメリカ海上封鎖に対し、ロシアのエカチェリーナ2世の呼びかけで武装中立同盟が結成され、イギリスは国際的に孤立した。, ロンドンでは、国王ジョージ3世がより多くの軍隊を送ってアメリカを従わせるという希望を諦めていた。というのもイギリスはヨーロッパでの戦争に捉われていたからである。「ペンシルベニアを保持しておこうなどと考えるのは冗談だった」とジョージ3世は言った。ニューイングランドを回復する望みも無くなっていた。しかし、国王は「アメリカの独立は決して認めない。永久に続くように見える戦争を無制限に引き伸ばして、命令に従わない者を罰してやろう」と決心した[22]。国王の計画は、ニューヨーク、ロードアイランド、カナダおよびフロリダの3万名の防衛軍を維持し、他の部隊で西インド諸島にいるフランスとスペインを叩くことだった。アメリカを罰するために国王が考えたことは、アメリカの海上貿易を破壊し、港を砲撃し、海岸に近い町(例えばニューロンドン)を襲って燃やしてしまうことであり、アメリカの先住民を送って辺境の開拓地にいる市民を襲わせることだった。これらの活動でアメリカの王党派を刺激でき、大陸会議をばらばらにし、「反逆者を嫌がらせ、気を揉ませ、貧しいままにしておけば、自然にかつ当然の帰結として不満と失望が後悔と自責の念に変わた暁には」国王の権威の下に戻ることを願うようになるとジョージ3世は考えた[23]。この計画は王党派や忠実なアメリカの先住民族の破壊や金のかかる戦争を無制限に引き伸ばすことも意味しており、またフランスやスペインが艦隊を集めてイギリス諸島を侵略しロンドンを占領する危険もあった。イギリスはヨーロッパの連合軍を処理した後で、反抗している植民地を再度従わせる計画にした。, 独立戦争が始まった時、イギリスはアメリカ植民地に対し圧倒的な海軍力を誇っていた、帝国海軍には100隻以上の戦列艦と多くのフリゲートやその他小さな艦船があった。ただし、老朽艦が多く、最初の海軍大臣サンドウィッチ伯爵が非難していたようにあまり整備が行き届いているとは言えなかった。開戦後の3年間、海軍は主に陸上兵力の移送と商船の護衛に使われていた。アメリカ植民地側には、戦列艦など1隻も無く、イギリスの商船を襲う私掠船に頼るところが大きかった。私掠船は、フランスが戦争に加担する前からそしてその後もフランスのイギリス海峡に面した港を拠点として活動していたので、帝国海軍を困らせ英仏関係をこじれさせていたが、その物質的な戦果の割には戦争全体に与える影響が小さかった。大陸会議は1775年10月にアメリカ海軍の創設を承認したが、小さなものだったので主に商船への襲撃に用いられていた。ジョン・ポール・ジョーンズ船長が1778年4月24日に英国艦HMSドレークを鹵獲し、アメリカ海軍では最初の英雄になった。このノース海峡の海戦はイギリス海軍に対する最初のアメリカ艦船の勝利でもあった[24]。, フランスが戦争に加担したことで、イギリス海軍の優越性はそれ程のものではなくなってきた。しかし、フランスとアメリカの連合軍は1778年のロードアイランドの戦いや1779年のサバンナの戦いではうまく機能しなかった。その原因の一つはフランスとアメリカの軍事的な優先順位が異なっていたことにあった。フランスは、アメリカの独立を確保する前に、西インド諸島にあるイギリスの占領地を取りたかった。フランスからアメリカに対する財政的な援助は既に厳しい段階に来ていたので、1780年7月にロシャンボー伯爵が率いる大部隊が到着するまでは、軍事的にあまり有効な結果に繋がるまでには至らなかった。, スペインがアメリカ側で参戦した意図には、1704年にイギリスに占領されたジブラルタルとメノルカ島を奪い返すということも含まれていた。3年以上にわたってジブラルタルの包囲戦を行ったが、イギリス軍守備隊は頑強に守り抜き、1780年のサン・ビセンテ岬の月光の海戦におけるロドニー提督の勝利の後は補給も適って防衛できた。それでもフランスとスペインは何とかジブラルタルを取ろうとしたが、失敗に終わった。メノルカ島の方は1782年2月5日にフランスとスペインの連合軍で奪取に成功し、スペインは独立戦争後も正式にイギリスから領有を認められた。, 西インド諸島では多くの戦闘が行われ、特に小アンティル諸島では何度も支配者が入れ替わることがあった。1782年4月のセインツの海戦でイギリス海軍のロドニー提督がフランス海軍のド・グラス伯爵の艦隊を打ち破り、フランスとスペインの連合軍が目指していたジャマイカなどイギリス植民地奪取の望みを絶った。1782年5月8日、スペイン領ルイジアナ総督であったベルナルド・デ・ガルベス伯爵が、バハマのニュープロビデンス島にあったイギリス海軍基地を占領した。このような結果にも拘らず、フランスが占領したトバゴ島の小さな島を除いて、1783年の休戦後は西インド諸島での支配関係を開戦前の状態に戻すことで合意された。, メキシコ湾岸では、ガルベスが1779年にマンチャックの戦い、バトンルージュの戦いおよびナチェズの戦いでミシシッピ川沿いにあったイギリスの基地を占領した。ガルベスは続いて1780年にモービルを占領し、1781年にはペンサコーラのイギリス軍基地を降伏させた。この結果、スペインは1783年の休戦時に東フロリダと西フロリダを獲得できた。, 北アメリカの戦争の余波はインドでの英仏間の争いにも飛び火し、1780年の第二次マイソール戦争という形になった。マイソール王国の支配者でフランスとの同盟の中心人物であったハイダル・アリーとその息子ティプー・スルターンがマドラスのイギリス政府に対抗した。, 1782年、戦争を指揮していたハイダル・アリーは戦争のさなかに死亡したが、その後も戦争は続けられ、イギリスはマンガロールに包囲(マンガロール包囲戦)されるなどしたため、1784年に第二次マイソール戦争はマンガロール条約で休戦となった。これはインドの歴史でも重要な文書である。というのも、インドの民族にとって、イギリスに腰を低くして休戦を請わせるように仕向けた最後の機会だったからである。ウォーレン・ヘースティングスはこれを屈辱的な講和と呼び、国王と議会に「イギリス国民の信義と名誉が等しく侵害された」としてマドラス政府を罰するよう訴えた。, 1780年イギリスは武装中立同盟に関わったネーデルラント連邦共和国に対し先手を打って攻撃した。武装中立同盟はヨーロッパの数カ国が中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資輸送の自由を宣言したものであったが、その結果はヨーロッパではイギリスが孤立する形になった。, イギリスはネーデルラントが公然とアメリカ反乱軍を援助するのを許したくはなかった。アメリカ独立戦争によって刺激されたオランダ急進派の扇動とオランダ政府のアメリカに対する友好的な態度は、イギリスの攻撃を呼ぶことになった。第四次英蘭戦争は1784年まで続き、オランダの商業経済に破壊的な影響をもたらした。, 独立戦争の最初の3年間は、主戦場がアメリカの北部に限られていた。フランスが参戦してからのイギリスは、王党派が多いと思われた南部に目を向けて、王党派の支援を得られればそこを支配できると目論んだ。南部に注力することはイギリス海軍をカリブ海に近く配置することができ、フランスとスペインの連合軍の脅威を受けているカリブ海植民地を守りやすくするという利点もあった。, 1778年12月29日に、ニューヨークから転進したクリントンの遠征隊がジョージアのサバンナを占領した。クリントンは続いてサウスカロライナのチャールストンを包囲し、1780年5月2日に陥落させた。クリントンは比較的少ない損失で南部最大の都市と港湾を確保し、南部制圧への道を切り開いた。, 南部の大陸軍はチャールストンで5,000名ほどにおよぶ戦力が降伏したために崩壊状態となり、残った兵力はバナスター・タールトン中佐の追撃をうけ、1780年5月29日のワックスホーの虐殺でまた新たな損失を受けた。そうした状況で大陸軍は組織だった作戦行動をできなくなったが、それでもフランシス・マリオンなどのパルチザンによって抗戦が続けられた。コーンウォリスがイギリス軍の指揮官となり、一方大陸軍は北部からホレイショ・ゲイツを送って南部方面軍の指揮官とした。しかし1780年8月16日、ゲイツはキャムデンの戦いで大陸軍始まって以来の大敗を喫し、コーンウォリスにノースカロライナに進軍する道を与えてしまった。, しかし、コーンウォリス側も事態が変わり始めた。10月7日、キングスマウンテンの戦いで彼の一翼を担っていた部隊が完敗した。この戦いは王党派民兵と愛国派民兵の戦いだった。タールトンの部隊も1781年1月17日、大陸軍のダニエル・モーガン将軍とのカウペンスの戦いで決定的な敗北を喫した。, ゲイツの後を継いだナサニエル・グリーン将軍は一連の戦いでイギリス軍を消耗させる戦略に出た。それぞれの戦いはイギリス軍の戦術的勝利になったが、戦略的には得る物がほとんど無かった。グリーンは後に有名となるモットー「戦い、撃たれ、立ち上がり、また戦う(We fight, get beat, rise, and fight again. 36–37; Brooke, p. 49; Hibbert, p. 31, Ayling, p. 378; Cannon and Griffiths, p. 518. ゾフィー・カロリーネ・マリー・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル, http://www.oxforddnb.com/view/article/10540, "Augusta , princess of Wales (1719–1772)", https://www.theguardian.com/uk/2000/mar/06/monarchy.princessmargaret, Marks of Cadency in the British Royal Family, online 90-minute video lecture given at Ohio State in 2006; requires Real Player, “The 'insanity' of King George III: a classic case of porphyria”, https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1843211/, “Porphyria in the Royal Houses of Stuart, Hanover, and Prussia”, http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1984936/pdf/brmedj02065-0057.pdf, George III papers, including references to madhouses and insanity from the Historic Psychiatry Collection, Menninger Archives, Kansas Historical Society, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ジョージ3世_(イギリス王)&oldid=79736415. 262–267, Ayling, pp. 14–16; slaves and Indians: Black, p. 35, 38. 272–282; Cannon and Griffiths, p. 498. "Reinterpreting the Reign of George III". (ジョージ(右)と弟ヨーク 家庭教師のフランシス・エイスコー 画像引用元;Wikipedia) 1738年に英国ロンドンでうまれたジョージ3世は、控えめで内気な子供でした。健康に成長し、弟のエドワードとともに家庭教師から教育を受けました。家族の手紙によると『ジョージは8歳には英語とドイツ語で読み … アメリカの独立宣言についてアメリカの独立宣言ってリンカーンが行ったんじゃないですよね?社会の勉強で独立宣言が出てきてノートにまとめたいんですけど教えてください!! 322–328; Fraser, pp. Brooke, p. 145; Carretta, pp. The unanimous declaration of the thirteen United States of America. In: Richard Schlatter, ed. ". 349–350; Carretta, p. 285; Fraser, p. 282; Hibbert, pp. アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう、英: American War of Independence )は、1775年 4月19日から1783年 9月3日までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争である。 現在のアメリカではアメリカ独立革命(英: American Revolution )もし … このため、7月4日( "Fourth of … The unanimous declaration of the thirteen United States of America. In: Elizabeth Chapin Furber, ed. 111–113, Brooke, pp. 122–133; Hibbert, pp. Röhl, John C. G.; Warren, Martin; Hunt, David (1998). 329–335; Brooke, pp. 92–93, 267–273, 302–305, 317. It may with truth be said, A boy in England born, in England bred[9])というセリフを言った。歴史家のロムニー・セッジウィック(英語版)はこの台詞がジョージに「関連付けられる唯一のフレーズのソースである」とした[10]。, ジョージの祖父である国王ジョージ2世は息子のフレデリック・ルイスを嫌い、孫であるジョージにも興味を持たなかった。しかし、1751年にフレデリック・ルイスが肺の怪我で急死すると、ジョージが王位の推定相続人になるとともに父の称号の1つであるエディンバラ公位を相続した。ジョージ2世は孫に興味を持ちはじめ、3週間後にはジョージをプリンス・オブ・ウェールズに叙した[11]。, 1756年春、ジョージの18歳の誕生日が近づくと、ジョージ2世はセント・ジェームズ宮殿で盛大な式典を行おうとしたが、ジョージは母とその腹心であるビュート伯爵(後に首相に就任)の助言を受けて式典を拒否した[12]。ジョージの母はジョージを家に留まって自らの厳しい道徳観を吹き込もうとした[13][14]。, 1759年、ジョージはリッチモンド公爵の妹サラ・レノックス(英語版)を好きになるも、ビュート伯はジョージとサラの結婚に反対、ジョージもそれに従いサラをあきらめた。ジョージは後に「わたしは偉大な国の喜びや苦しみのために生まれた。従ってわたしはしばしば感情に反して行動しなければならない。」と記述した[15]。ジョージ2世はジョージとゾフィー・カロリーネ・マリー・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(英語版)を結婚させようとしたが、ジョージとその母が反対した[16]。結局ゾフィーはブランデンブルク=バイロイト辺境伯フリードリヒ3世と結婚した[17]。, ジョージ2世は77歳の誕生日の目前である1760年10月25日に急死、ジョージがジョージ3世として王位を継承した。そのため、彼の妃探しが急がれ、翌1761年9月8日にはセント・ジェームズ宮殿のチャペル・ロイヤルでシャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツと結婚した(2人は結婚式の日にはじめて会った)[注釈 1]。2週間後の9月22日、2人はウェストミンスター寺院で戴冠した。ジョージ3世は祖父と息子たちと違って愛人をかかえず、2人はジョージ3世が精神疾患に悩まされるまで、幸福な結婚生活を送った[1][9]。2人は9男6女、計15人の子供に恵まれた。1762年、ジョージ3世は家族の別邸としてバッキンガム・ハウス(現バッキンガム宮殿)を購入した[19]。彼はほかにもキュー宮殿(英語版)とウィンザー城を所有した(セント・ジェームズ宮殿は家族用ではなく公的な仕事に使われた)。ジョージ3世は生涯を通してあまり旅行せず、一生を南イングランドで過ごした。1790年代、ジョージ3世一家はウェイマスで休暇し[20]、これによりウェイマスは海辺のリゾートとして有名になった[21]。, ジョージ3世は即位演説で議会に「この国で生まれ、教育を受けたわたしは、イギリスの名を誇りとする」と宣言した[22]。イギリスよりハノーファーを優先した先代・先々代から距離を置く決心を示すべく、この宣言をハードウィック伯爵が書いた演説に付け加えた[23]。, ジョージ3世の即位はすべての政党に歓迎されたが[注釈 2]、その治世の初期は七年戦争に関する対立により政治不安に見舞われた[25]。また、トーリー党をひいきにしたとみられたため、ホイッグ党からは独裁君主であると批判された[1]。ジョージ3世が即位した時点では王室御料地(英語版)からの収入が少なく、歳入の大半は税金や物品税で占められた。そのため、ジョージ3世はクラウン・エステートを議会に譲って、その代わりに王室家政と文民政府の支出のための王室費(年金)支払いを同意させた[26]。王室費を支持者への賄賂や贈与に使ったとの指摘[27]は歴史家からは「不満げな人々からの反対によるいつわり」として疑いをさしはさまれた[28]。ジョージ3世の治世を通して、王室の負債3百万ポンドは議会によって支払われ、王室費の年金はたびたび増額された[29]。彼は私財を投じて王立芸術院に多額の助成金を与え[30]、収入の半分以上を寄付した可能性もあった[31]。彼の美術品コレクションのうち、最も特筆に値するものはヨハネス・フェルメールの音楽の稽古とカナレットの作品集だったが、彼は書物の収集家として最も記憶された[32]。キングス・ライブラリ(英語版)は当時の学者に公開され、新しい国立図書館の礎となった[33]。, 1762年5月、第2次ニューカッスル公爵内閣が倒れ、トーリー党でスコットランド出身のビュート伯爵が組閣した。ビュート伯と敵対した政治家たちはビュート伯とジョージ3世の母が不倫をしていたと中傷し、当時のイングランド人の間の反スコットランド風潮も利用した[34]。庶民院議員ジョン・ウィルクスはザ・ノース・ブリトン(英語版)という煽動的な新聞を出版してビュート伯とその政府への中傷を盛んに行った。ウィルクスは後に煽動誹謗罪(英語版)で起訴されたが、彼はフランスへ逃亡して懲罰を逃れた。彼は庶民院から追放され、不在のまま不敬と誹謗で有罪とされた[35]。1763年、戦争を終結させたパリ条約を締結した後、ビュート伯は辞任、ホイッグ党が与党に返り咲きジョージ・グレンヴィルが首相に就任した。, 同年、ジョージ3世の1763年宣言によりアメリカ植民地のアパラチア山脈西側への拡張が制限された。宣言の目的は植民地拡張を南北(フロリダとノバスコシア)に振り向けることにあった。宣言で定められた境界は入植した農民の大半に影響を及ぼさなかったが、一部の声の大きい者の間では不人気であり、植民地人とイギリス政府の間の紛争に発展した[36]。当時、アメリカの植民地人のほとんどがイギリスの税金を支払わなくてもよかったため、イギリス政府は原住民の反乱とフランスによる遠征の可能性を考慮して、植民地の防衛のための支出を支払わせることが適当であると考えた[注釈 3]。植民地人にとって、主な問題は税金の金額ではなく、議会がアメリカの同意なしに税金を徴収できるかの問題である(当時、アメリカ人は議会に代表を出せなかった)[39]。アメリカ人はイギリス人のように「代表なくして課税なし」の権利があると抗議した。1765年、グレンヴィルは印紙法を導入、北米におけるイギリス植民地の全ての文書に印紙税を課した。新聞は印紙された紙に印刷されたため、印紙税の導入の煽りを最も強く受けているものは同時に税金反対のプロパガンダを得意とした[40]。一方、ジョージ3世はグレンヴィルが国王大権を減らそうとしたことに憤激しており、彼は大ピットに首相就任を打診した[41]。短期間の病気の後、ジョージ3世はグレンヴィルを罷免、ロッキンガム侯爵に組閣の大命を降下した[42]。, ロッキンガム侯爵は大ピットとジョージ3世の支持を得て、グレンヴィルの不人気な印紙法を廃止したが、彼の内閣は弱く、1766年には大ピットに更迭された(同年、大ピットはチャタム伯爵に叙される)。大ピットとジョージ3世が印紙法を廃止したことで2人はアメリカで大人気になり、ニューヨーク市(英語版)に2人の像が立てられたほどであった[43]。チャタム伯は1767年に病気になり、代わりにグラフトン公爵が政府を率いたが、彼が正式に首相になったのは1768年のことだった。同年、ジョン・ウィルクスは帰国し、1768年イギリス総選挙で立候補、ミドルセックス選挙区(英語版)で得票数1位になって当選したが、再び議会を追放された。ウィルクスはその後、再選と追放をさらに2回繰り返したが、庶民院はウィルクスの被選挙権を無効とし、2位のヘンリー・ラットレル(英語版)が繰り上げ当選を果たした[44]。グラフトン公の内閣が1770年に解体したことにより、ノース卿率いるトーリー党が与党に返り咲いた[45]。, ジョージ3世は敬虔で、毎日数時間を祈りに使うほどであったが[46]、この敬虔さは彼の弟たちには全く見られなかった。ジョージ3世は弟たちのルーズさにぞっとした。1770年、ジョージ3世の弟カンバーランド=ストラサーン公ヘンリー・フレデリックの姦夫スキャンダルが暴露され、彼は翌年に若い未亡人のアン・ホートン(英語版)と結婚したが、彼女は低い身分の出身であり、ドイツの法では2人の子供によるハノーファーの継承を禁止していた。そのため、ジョージ3世はアンを王室の花嫁としては不適切であると考えた。彼は国王の許可なしに王族が結婚することを禁止する法を制定するよう強く要求した。この法案は議会で不人気であり、閣僚の一部すら反対したが、それでも1772年王室婚姻法(英語版)として成立した。直後、ジョージ3世のもう1人の弟であるグロスター=エディンバラ公ウィリアム・ヘンリーはエドワード・ウォルポール(英語版)の庶子マリア(英語版)(当時ウォルデグレイヴ伯爵未亡人)と秘密結婚していたことを明かした。マリアがジョージ3世の政敵とつながっていたこともあり、このニュースはジョージ3世の意見の正しさを証明した。アンもマリアも、宮廷に受け入れられたことはなかった[47]。, ノース卿の内閣は主にアメリカにおける不満に関心を寄せた。アメリカ人をなだめるために、ジョージ3世が「[徴税の]権利を保持するための、ただ1つの税」と称した茶税を除くほとんどの関税が撤廃された[48]。1773年、後にボストン茶会事件として知られるようになった事件において、植民地人はボストン港湾(英語版)に停泊中の紅茶輸送船に乗船して、紅茶を海に捨てた。イギリスでは植民地人に対する意見が硬化、チャタム伯も紅茶の破壊が「確実に犯罪である」とした[49]。議会の明らかな支持を得て、ノース卿は耐え難き諸法と植民地人に呼ばれた一連の法律を導入した。ボストン港(英語版)は閉鎖され、マサチューセッツ湾直轄植民地の解説勅許(英語版)はマサチューセッツ統治法(英語版)で改正され、マサチューセッツ上院議員の選出が下院議員による選挙からイギリス国王による任命に変更された[50]。ピーター・トマス教授によると、ジョージ3世は「政治的な解決策を望み、閣僚の意見にはその成功の可能性を疑っていたとしてもそれに従った。1763年から1775年までの詳しい証拠はジョージ3世をアメリカ独立革命への実質的な責任を免れさせる傾向にある」[51]。アメリカ人はジョージ3世を暴君として仕立て上げたが、彼はこの時期には閣僚の取り組みを支持する立憲君主として振舞った[52]。, アメリカ独立戦争は、アメリカ啓蒙時代(英語版)によるアメリカ独立革命の頂点だった。植民地人は議会におけるアメリカ代表の欠如をイングランド人としての権利(英語版)の否定とみなし、この問題の焦点はたびたび議会が植民地人の同意なく直接税を課したことに置かれた。ボストン茶会事件の後、植民地人は直接統治の押しつけに反発し、1774年までに自治区を成立させて、全植民地でイギリスの統治機構を出し抜いた。イギリス正規軍と植民地の民兵の間の武装紛争は1775年4月のレキシントン・コンコードの戦いで勃発した。国王に議会への介入を要請したオリーブの枝請願が無視された後、国王は反乱と扇動の鎮圧の宣言(英語版)で反乱軍の首長たちを反逆者と宣告、以降1年間の戦闘が続いた。植民地は1776年7月にアメリカ独立宣言を発表、イギリス国王への不満を訴えるとともに民衆の支持を求めた。宣言によると、ジョージ3世は「ここの政府を退位させ、我が海を略奪、海岸を破壊、町を燃やし、人民の命を奪った」。ニューヨークにあった金メッキのジョージ3世乗馬像は撤去された[53]。イギリス軍は1776年にニューヨークを占領したが、ボストンを失い、カナダからアメリカへ侵攻し、ニューイングランドを切り離す大規模な作戦計画はイギリスのジョン・バーゴイン少将がサラトガの戦いで降伏したことで失敗に終わった。, ジョージ3世が閣僚の意見を顧みず頑としてイギリスとアメリカの革命軍との戦闘を継続しようとした、という疑いがたびたびなされた[54]。ヴィクトリア朝の作家ジョージ・トレヴェリアン(英語版)によると、ジョージ3世は「アメリカ人の独立を永遠に認めず、その不服従を延々と続く戦争で懲罰した」[55]。それで「反乱軍を疲労、緊張、貧窮した状態に陥らせることで、彼らの不満と失望は自然と後悔と自責の念に変わる」という[56]。しかし、後に他の歴史家たちはジョージ3世の時代の国王にアメリカのような大領を喜んで放棄する者はいないと主張してジョージ3世を擁護[9][57]、ジョージ3世の行動が同時代の君主のそれよりずっと無謀でなかったとした[58]。サラトガの戦いの後、議会もイギリス大衆も戦争を支持し、兵隊に志願した者の数も高止まりとなった。戦争に反対した声もよく聞かれたが少数にとどまった[9][59]。アメリカでの敗北により、ノース卿は首相の座をより有能なチャタム伯に譲ることを提案したが、ジョージ3世は断った。ジョージ3世は代わりにチャタム伯がノース卿内閣に入閣することを提案したが、これはチャタム伯に断られた。チャタム伯は同年に死去した[60]。1778年初、イギリスの主な敵国であったフランス王国はアメリカと仏米同盟条約を締結、紛争が拡大した。直後にスペインとネーデルラント連邦共和国が同盟に加入、イギリスは主要な同盟国が全くない状況となった。閣僚だったゴア伯爵とウェイマス子爵が辞任すると、ノース卿は再び辞任を要求したが、ジョージ3世に再び拒否された[61]。金のかかる戦争への反対が増え、1780年6月にはロンドンでゴードン暴動(英語版)と呼ばれる騒乱事件がおこった[62]。, イギリス軍はキャムデンの戦いやギルフォード郡庁舎の戦いで大陸軍に大勝したため、王党派は1780年のチャールストン包囲戦(英語版)の時点でも最終的な勝利を信じることができた[63]。1781年末、コーンウォリス伯爵がヨークタウンの戦いで降伏したという報せがロンドンに届くと、ノース卿は議会の支持を失って翌年に辞任した。ジョージ3世は退位文書を準備したが、それが発表されることはなかった[57][64]。ここにきて、ジョージ3世はようやく北米での敗北を認めて平和交渉を命じた。1782年と1783年に締結されたパリ条約において、イギリスはアメリカの独立を認め、フロリダをスペインに返還した[65]。1785年にジョン・アダムズがアメリカ駐ロンドン大使に任命される頃には、ジョージ3世は観念して元植民地との新しい関係を受け入れた。彼はアダムズに「わたしは最後に分離に同意した人だった。しかし、分離がなされ、不可避になっていくと、わたしは常に、独立国としてのアメリカ合衆国と最初に友好的に付き合う人になる、と言った。それは今も同じである」と述べた[66]。, 1782年にノース卿内閣が倒れたことで、ホイッグ党のロッキンガム侯爵が再度首相に就任したが、彼は数か月後に死亡した。ジョージ3世は後任にシェルバーン伯爵を任命した。しかし、チャールズ・ジェームズ・フォックスは入閣を拒否、ポートランド公爵の首相任命を要求した。1783年、庶民院はシェルバーン内閣の総辞職を迫ることに成功、フォックス=ノース連合内閣が後を継いだ。この内閣において、ポートランド公は首相に就任、フォックスとノース卿はそれぞれ外務大臣と内務大臣として入閣した[9]。, ジョージ3世は政治的でも人格的でもフォックスを激しく嫌悪した。彼はフォックスを無節操な人で王太子に悪影響を与えていると考えた[67]。ジョージ3世は嫌悪している閣僚を任命しなければならないことを苦痛に感じたが、ポートランド公爵内閣は庶民院で多数派をなし、容易く罷免することはできなかった。政府がインド政府の改革案として政治権力をイギリス東インド会社から議会が任命する代表に転移させるインド法案を提出したことはジョージ3世の不興をさらに買った[68]。ジョージ3世も東インド会社への支配を強めたかったが、議会が提案した代表は全てフォックスの政治盟友であった[69]。法案が庶民院を通過した直後、ジョージ3世はテンプル伯爵に自分はインド法案に賛成票を投じた全ての貴族を敵とみなすことを貴族院に通知させた。インド法案は貴族院に否決され、3日後にはポートランド公爵内閣が罷免され、小ピットが首相に就任、テンプル伯爵も国務大臣として入閣した。1783年12月17日、議会は国王による議会の投票への介入を「重罪」として糾弾することを議決、テンプル伯爵は辞任を余儀なくされた。テンプル伯の辞任は政府を不安定にさせ、3か月後には政府が議会での多数派の座を失い、議会は解散された。直後の1784年イギリス総選挙により、小ピットは強い信任を受けた[9]。, ジョージ3世にとって、ピットの首相就任は大きな勝利であった。なぜなら、それは庶民院の多数派の選択に従わなくとも、大衆の雰囲気に対する彼自身の判断で首相を任命することができることを示したからだった。ピットが首相を務めた期間を通して、ジョージ3世はピットの政策の多くを支持、それまでに見られない速さで貴族を創家して貴族院におけるピットの支持者の人数を増やした[70]。ジョージ3世はピットが首相を務めていたときもその後も絶大な人気を誇った[71]。イギリス人はジョージ3世の敬虔さ、そして妻に誠実にあり続けたことを称賛した[72]。彼は子供達を好み、息子のうち2人が1782年と1783年にそれぞれ夭折したことに深く悲しんだ[73]。彼は子供たちの行動を強く規制し、毎日朝7時から授業を受けさせたほか、宗教行事や美徳に満ちた生活をさせたという[74]。子供たちが青年期以降にその信念から外れ始めると、ジョージ3世は深く失望した[75]。, この時期にはジョージ3世の健康が悪化し始めた。彼はおそらく遺伝病のポルフィリン症により、急性な躁病に悩まされた[76]。しかし、ポルフィリン症とする説には異論もある[77][78]。2005年に発表された、ジョージ3世の毛髪に対する調査で、多量のヒ素が発見された。ヒ素のもとは明らかではなかったが、薬か化粧品に含まれていた可能性がある[79]。1765年に短期間発症した可能性もあるが、より長い発症は1788年夏に起こった。議会の会期が終わると、ジョージ3世は保養地のチェルトナムに向かって休養したが、これは彼がその一生でロンドンから一番離れた瞬間(100マイル/150キロメートルよりやや少ない距離)だった。しかし、彼の病状は悪化し、11月には錯乱してときどき何時間も続けて喋った。身体的には喉が枯れて、口から泡を吹く結果となった。主治医たちも病因がわからず、その病状に関するデマが出回った。例えば、ジョージ3世が木をプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と勘違いして握手した、とするものがある[80]。当時、精神疾患に対する治療は極めて原始的であり、主治医のフランセス・ウィリス(英語版)などは苛性な湿布で「邪悪な体液」を出そうとしたり、ジョージ3世を落ち着くまで縛ったりした[81]。, 再開した議会では国王が統治不能になっている場合の摂政について、フォックスと小ピットが論争していた。2人ともジョージ3世の長男で推定相続人であったプリンス・オブ・ウェールズのジョージが摂政に就任することが一番合理的であるとしたが、フォックスがプリンス・オブ・ウェールズの摂政権は絶対的な権利であると主張したことは小ピットを仰天させた。小ピットはプリンス・オブ・ウェールズが摂政に就任すると自身が罷免されることを恐れて、議会が摂政を指名しなければならないと主張した。また摂政の権力を制限しようとした[82]。そして、1789年2月にはプリンス・オブ・ウェールズを摂政に任命する摂政法案が提出され、庶民院を通過したが、貴族院が法案を議決にかける前にジョージ3世が回復した[83]。, ジョージ3世が回復した後、小ピットと彼の人気は上昇し、一方王太子とフォックスの人気は下がった[84]。狂気に陥っていた2人の暗殺者、すなわち1786年のマーガレット・ニコルソン(英語版)と1790年のジョン・フリス(英語版)に対する理解を示した人道的な対処はジョージ3世の人気を高めた[85]。1800年5月15日にもジェームズ・ハットフィールド(英語版)という人がドルリー・レーン劇場(英語版)でジョージ3世を射殺しようとしたが、動機は政治的なものではなく、ハットフィールドとバニスター・トゥルーロック(英語版)の終末的な妄想によるものだった。ジョージ3世は暗殺未遂事件に全く動じず、幕間に眠ってしまったほどであった[86]。, 1789年のフランス革命により、フランス王ルイ16世が廃位されたが、これはイギリスの地主の憂慮を引き起こした。フランスは1793年にイギリスに宣戦布告、ジョージ3世は小ピットに増税と徴兵を許可、またヘイビアス・コーパスの権利を一時停止した。しかし、オーストリア、プロイセン、スペインとともに結成した第一次対仏大同盟は1795年にプロイセンとスペインがフランスと単独講和したことで崩壊した[87]。オーストリア、ロシア、オスマン帝国とともに結成した第二次対仏大同盟も1800年に敗北した。イギリスだけがフランス統領政府の第一統領であったナポレオン・ボナパルトとの戦争を継続した。, 戦況が短期間和らいだことで小ピットはアイルランド問題に集中できた。アイルランドでは1798年に反乱とフランスによる上陸の試みがあった[88]。1800年、グレートブリテンとアイルランド議会はそれぞれ合同法を通過させた。合同法が1801年1月1日に施行されると、グレートブリテン王国とアイルランド王国は合体してグレートブリテン及びアイルランド連合王国になった。ジョージ3世はこれを機にエドワード3世時代から保持していた「フランス王(英語版)」の称号を取り払った[89]。「ブリテン諸島の皇帝」の称号も提案された、これはジョージ3世に拒否された[9]。小ピットはアイルランド政策の一環としてイギリスのカトリックへの差別政策(英語版)を取り除くことを計画した。ジョージ3世はカトリック解放を容認することがプロテスタントを維持するという戴冠式の誓言を破ることになると主張した[90]。国王とイギリス大衆に宗教改革の政策を反対されたことで、小ピットは辞任すると脅した[91]。ほぼ同時期にはジョージ3世の病気が再発したが、彼はカトリック問題に対する憂慮が病気の再発を引き起こしたと主張した[92]。1801年3月14日、小ピットは正式に庶民院議長(英語版)のヘンリー・アディントンに更迭された。アディントンはカトリック解放に反対、所得税を廃止、軍縮政策を推進、年次財務諸表の制度を設立した。1801年10月にはフランスと和平、1802年にアミアンの和約を締結した[93]。, ジョージ3世はフランスとの和平を本当のものとは見ず、ただの「実験」として扱った[94]。1803年、戦争が再開したが、世論はアディントンが戦争中のイギリスを率いることを信用せず、小ピットの再任を希望した。ナポレオンによるイングランド侵攻はすぐにでも現実になりそうで、イングランドをフランスから守る動きが大勢の志願兵を生み出した。ジョージ3世が1803年10月26日と28日にハイド・パークで行った閲兵は侵攻の脅威が最高潮だった頃に行われたこともあり、約50万人の見物人が集まる結果となった[95]。タイムズ紙によると、「群衆の熱意はどんな形容も超えるものだった」[96]。とある廷臣は11月13日に「国王は攻撃があった場合に戦場に立つ用意ができている。砲床が準備されていたので、警告があれば半時間で動ける」と書いた[97]。ジョージ3世は友人のリチャード・ハード主教(英語版)に手紙を書き、「私たちは毎日、ボナパルトがあらかじめ脅していた侵攻を行うことを予想した[...]彼の部隊が上陸してきた場合、私は必ずわが部下、わが軍の先頭に立って、彼らを撃退する」と述べた[98]。ネルソン子爵が有名なトラファルガーの海戦で勝利を収めた後、侵攻の可能性は消えた[99]。, 1804年、ジョージ3世の病気が再発した。彼が回復した後、アディントンは辞任し、小ピットが首相に復帰した。小ピットはフォックスを閣僚に任命しようとしたがジョージ3世に断られ、グレンヴィル男爵はフォックスへの不公平を感じ取って入閣を拒否した[9]。小ピットはオーストリア、ロシア、スウェーデンとの大同盟の締結に集中し、第三次対仏大同盟の結成に成功したが、1805年には第一次と第二次同盟の末路と同じく、解体した。ヨーロッパでの挫折は小ピットの健康に悪影響を及ぼし、彼は1806年に死去した。その結果、だれが入閣すべきかという問題が再び浮上した。グレンヴィル男爵は首相になり、彼の全人材内閣(英語版)にはフォックスも入閣した。ジョージ3世はフォックスの入閣に同意せざるを得ず、その後はフォックスとの和解の動きもあったがフォックスが同年9月に死去した後はジョージ3世と内閣が対立した。1807年2月、内閣は募兵数を増やすためにカトリックが軍の全ての階級につくことができる施策を提案した。ジョージ3世はこの施策を取り下げるよう要求するとともに、二度とそのような施策を提案しないことを約束させようとした。内閣は取り下げには同意したが、二度と提案しない約束には拒否した[100]。結局、ジョージ3世は内閣を罷免、代わりにポートランド公爵が名目的な首相に就任したが、実権は財務大臣のスペンサー・パーシヴァルに握られた。議会は解散され、直後に行われた1807年イギリス総選挙(英語版)において内閣は庶民院で大多数を確保した。ジョージ3世はその後、重大な政治決定を行うことはなかった。1809年に首相がポートランド公からパーシヴァルに変わっても実態はさほど変わることはなかった[101]。, 1810年末、ジョージ3世はその人気が最高潮になったところ[102]、(すでに白内障とリウマチを患っていたが)さらに重病になった。彼は最愛の末娘アミーリアが死去したことがこの不幸をもたらしたと考えた[103]。アミーリア王女の看護師によると、「苦痛と泣きの毎日は[...]形容できないほどの狂気である」[104]。ジョージ3世は1811年摂政法(英語版)の必要性を認め[105]、王太子ジョージがジョージ3世の治世の残りにおいて摂政を務めた。1811年5月にいったん回復の兆しがあったが、年末には完全な狂気に陥り、死ぬまでウィンザー城に幽閉された[106]。, 首相スペンサー・パーシヴァルは1812年に暗殺され(英語版)、後をリヴァプール伯爵が継いだ。リヴァプール伯はナポレオン戦争におけるイギリスの勝利を見届け、その後のウィーン会議によりハノーファーが選帝侯領から王国に昇格するとともに、領土を大幅に拡大した。, 一方、ジョージ3世の健康は悪化した。彼は認知症を患い、全盲になり耳がだんだんと遠くなっていった。彼は1814年にハノーファー王に即位したことと1818年に王妃が死去したことを知ることも理解することもできなかった[107]。1819年のクリスマスには58時間もの間無意味な言葉をしゃべり続け、死の直前の数週間には歩けなくなった[108]。彼は四男のケント公が亡くなった6日後の1820年1月29日、20時38分に崩御(死亡)した。死の直前には最愛の息子ヨーク・オールバニ公フレデリックが側にいた[109]。ジョージ3世は2月16日にウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂(英語版)で埋葬された[110][111]。, ジョージ3世の後を息子のジョージ4世とウィリアム4世が相次いで即位したが、いずれも存命の嫡子がないまま死去、ケント公の唯一の嫡出子ヴィクトリアがハノーファー家最後の君主として即位した。, ジョージ3世は81年239日間生き、59年96日間統治した。その寿命も治世もそれまでのイギリス王よりも長かった。それ以降もヴィクトリア女王とエリザベス2世のみがジョージ3世よりも長い寿命と治世を生きた。, ジョージ3世は「農夫ジョージ」(英: Farmer George)と風刺家に呼ばれた。はじめはジョージ3世が政治より平凡なものに趣味を持ったことを風刺した呼び名だったが、後に息子たちと対比して性格が家庭的であると人民に近しい王であるという賞賛となった[112]。ジョージ3世の時代、イギリス農業革命(英語版)はその頂点に達し、科学や工業といった分野が大きな進歩を遂げた。農村部の人口が先例のない増加を示し、同時進行していた産業革命が必要とした労働者を提供した[113]。ジョージの数学と科学の器具のコレクションはロンドンのサイエンス・ミュージアムに展示されている。彼は1769年の金星の太陽面通過を観察するためにリッチモンド・アポン・テムズでの王の天文台(英語版)建設を命じた。1781年にウィリアム・ハーシェルが天王星を発見すると、彼ははじめそれを「ジョージの星」(ラテン語: Georgium Sidus)と命名した。ジョージ3世は1785年に当時最大型であったハーシェルの40フィート望遠鏡の建造とメンテナンス資金を提供した。, ジョージ3世は「悪意の舌が私の意図を奴らの好む色に染まることなく、諂う人々が私の身に余る称賛をすることなく」評価されることを望んだが[114]、大衆の間では敵として見られたか、賞賛された。治世の初期には人気が高かったが、1770年代中期にはアメリカの植民地人で革命を支持した者の忠誠を失った[115]。しかし、約半分の植民地人が忠誠のままと概算された[116]。アメリカ独立宣言において、ジョージ3世に対する不満は彼が植民地に対する「絶対的な暴政」を敷くために「度重なる傷害と権利の侵害」を行った、と主張された。独立宣言の文言により、アメリカ大衆はジョージ3世に対し暴君という印象を持つこととなった。ジョージ3世に関する同時代の文献は2種類に分けられた。すなわち、「治世の後期で主流だった態度で、国王がフランスの思想と権力に対する国を挙げての抵抗のシンボルとなっている」ことを示すものか、「治世のはじめから20年間にわたって続いた党争から得られた国王に対する印象で、反対派の意見が反映された」ものである[117]。, 両者のうち、後者の文献を採用した19世紀と20世紀初期のイギリスの歴史家たち(例えば、ジョージ・トレヴェリアン(英語版)とエルスキン・メイ(英語版)など)はジョージ3世を敵対的に理解した。しかし、20世紀中期のルイス・バーンスタイン・ネイミアは「悪し様に言われた」と考え、ジョージ3世とその治世の再評価を始めた[118]。20世紀後期の学者(例えばハーバート・バターフィールド、ペアース(Pares)、アイダ・マカルパイン(Ida Macalpine)、リチャード・ハンター(Richard Hunter)[119]などはジョージ3世を同情的に捉え、時局と病気の被害者としてみた。バターフィールドはヴィクトリア時代の歴史家たちの考えを「エルスキン・メイは歴史家が才能を有しすぎるがゆえに間違いを起こす好例である。彼の整合の才能、そして証拠の様々な部分を繋げあう能力[...]により、彼は平凡な先賢たちよりも重大で複雑な間違いを起こした[...]彼が最初に間違い始めたことと、紡いだ歴史に学理的な側面を加えたことで、その結果は正道から逸れた間違った道がそのまま延長されることになる。」とこき下ろした[120]。ジョージ3世はアメリカの植民地人と戦争することについて、彼の権力または特権を拡張するためではなく、選挙で選出される議会の徴税権を守るためであると信じた[121]。現代の学者は、ジョージ3世の長い治世において、国王は政治的な権力を失い続けたが、代わりに国家的な道徳の化身となった[9]。, イギリスにおいて、ジョージ3世は「ジョージ3世、神の恩寵により、グレートブリテン、フランス(英語版)、アイルランドの王、信仰の擁護者、など」の称号を使用したが、1801年にグレートブリテン王国とアイルランド王国が合同すると、エドワード3世時代から使用されたフランス王の称号を取っ払い[89]、「ジョージ3世、神の恩寵により、グレートブリテン及びアイルランド連合王国の王、信仰の擁護者」を使用するようになった[123]。, ドイツにおいて、ジョージ3世は1806年に神聖ローマ帝国が消滅するまで、「ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公、神聖ローマ帝国の大出納官および選帝侯」の称号を使用し、その後も1814年のウィーン会議で「ハノーファー王」として承認されるまで公爵を称した[123]。, ジョージ3世は即位以前には1749年7月27日から王家の紋章を使用したが、5つの垂れがあるアジュールのレイブルが追加された。父が死去するとジョージ3世はエディンバラ公爵と推定相続人の座を継承したが、彼は3つの垂れがあるアージェントのレイブルの使用も継承した。また、シャルルマーニュの王冠は一般的には国王の紋章にしか使われないため、ジョージ3世も慣例に従ってそれを使わなかった[124]。, 即位から1800年まで、ジョージ3世は国王の紋章を使用した。すなわち、クォーターIにはイングランドとスコットランドの紋章がペイルに使用され、クォーターIIはフランスを象徴するフルール・ド・リスが使用され、クォーターIIIはアイルランドの紋章、クォーターIVはペイルとシェブロンの形で3分割され、それぞれブラウンシュヴァイク、リューネブルク、ザクセンの紋章が使用された(3者合わせてハノーファーを表す)。また真ん中には神聖ローマ帝国の大出納官を表すシャルルマーニュの王冠のエスカッシャンが使われた[125][126]。, 1800年合同法により、国王の紋章は変更され、フランスのクォーターが取り払われた。新しい紋章ではクォーターIとIVがイングランドを、クォーターIIがスコットランドを、クォーターIIIがアイルランドを表すほか、上に選帝侯のボンネットがついているハノーファーのエスカッシャンが真ん中に置かれている[127]。1816年にハノーファー選帝侯領が王国に昇格すると、選帝侯のボンネットがクラウンになった[128]。, 1761年9月8日にジョージ3世は、メクレンブルク=シュトレーリッツ公子カール・ルートヴィヒの娘シャーロットと結婚した。2人は、9男6女の子供に恵まれた。, [1]の甥クリスティアン・アウグストの娘(=母オーガスタの又いとこ)が、ロシアの女帝エカチェリーナ2世。, What, tho' a boy!

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